ようこそ、みささぎめぐりへ───。日本の歴史を築いた歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、継体天皇の皇子として極めて高齢で即位し、飢饉と外敵の脅威が迫る緊迫した時代において、食糧の備蓄と九州の防衛網構築という実質的な国難に立ち向かった、第28代:宣化天皇(せんかてんのう)の御生涯をご紹介します。
華やかな神話や武勇の影に隠れがちでありながら、ひたすらに国家の存亡を背負った老帝の、重厚で切実な足跡を、ともに辿ってみましょう。
宣化天皇の人物像・エピソード
宣化天皇の諱ですが、『日本書紀』では檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)、『古事記』では建小広国押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと)と伝わっています。
父は、越前の地から迎えられて即位したとされる継体天皇で、即位する前に尾張連 草香の女である尾張目子媛(おわりのめのこひめ)との間に設けた第二皇子として誕生いたしました。
※同母兄に安閑天皇(勾大兄皇子)がいます。
宣化天皇は、母方から尾張氏のの血を引いており、大和の直系王朝の血脈を持つ手白香皇女(異母弟・欽明天皇の母)の系統とは異なる出自を持っていました。
69歳と言う高齢での即位
史書に記載された彼の人となりは、清らかで知性に溢れ、君主としての度量を備えた人物であったと評されています。しかし、彼の生涯は皇位への執着や華やかな治世とは無縁でありました。
父・継体天皇の崩御後、まず同母兄の安閑天皇が即位しましたが、安閑天皇は在位わずか4年で子供を残さぬまま崩御、その後を継いで即位したのが宣化天皇でした。
即位は535年(宣化天皇元年)。この時すでに69歳であり、当時としては異例の高齢での即位だったとされます。
安閑・宣化王朝と欽明王朝は並立していた?
宣化天皇の即位とその短い治世の裏には、記紀の表面的な継承記述とは大きく異なる「二朝並立(並立王朝)」
同史観によれば、この時期の大和の朝廷は実質的に二つの勢力に分裂していました。一つは、安閑天皇・宣化天皇の系統であり、もう一つは欽明天皇の系統であります。
安閑・宣化と欽明は兄弟でありながら、それぞれが別の王権として大和盆地内に同時に並立していた状態は、ほぼ確実な史実であると分析されています。
宣化天皇の治世とは、国内にもう一人の大王が同時に存在し、いつ内乱が勃発してもおかしくない極度の緊張状態の中で行われた政権運営でありました。
高齢の宣化天皇は、自らの血縁である尾張氏の支持を背景にしつつも、欽明陣営との決定的破局を避け、国家の崩壊を食い止めるための防波堤としての役割を果たしていたと考えられます。
筑紫の官家修造と食糧備蓄による国家防衛体制の確立
宣化天皇の歴史的功績は、東アジアの軍事的脅威に対する筑紫の官家(つくしのみやけ)の修造と防衛網の再構築、ならびに飢饉に備えた屯倉(みやけ)への大規模な食糧備蓄の断行にあります。
北部九州:筑紫における防衛網の強化
ひとつめが、九州北部における軍事および外交拠点である筑紫の官家の整備と防衛力強化です。
宣化天皇が即位した直後、朝鮮半島では新羅が急激に台頭し、日本と緊密な関係にあった任那(加耶)諸国を圧迫していました。
宣化天皇は大伴金村(おおとものかなむら)に対し、新羅の脅威に備えて任那を援護し、筑紫を固めるよう厳命いたしました。
大伴金村は自らの息子である狭手彦(さてひこ)を将軍として朝鮮半島へ派遣し、百済を救援させ、同時に、もう一人の息子である磐(いわ)を筑紫の地に留め、現地の豪族を統率して筑紫の官家を修造させました。
これは後の大宰府の原形となる外交・軍事施設であり、西日本の強固な防衛線を構築するものでありました。
世界的な飢饉の影響?徹底した食糧備蓄政策
次に、国家的な危機管理としての徹底した食糧備蓄政策があげられます。
宣化天皇の時代、度重なる天候不順によって深刻な飢饉に見舞われていました。
宣化天皇は即位元年に詔を発し、「食は天下の本である。黄金が万貫あっても飢えを凌ぐことはできない」という極めて実理的な宣言を行いました。
彼は筑紫の那津の口(現在の福岡県博多湾周辺)に巨大な官家を建てさせ、周辺の国々から大量の穀物を集めて備蓄させました。
さらに、大和や河内、伊賀、伊勢といった畿内周辺の国々に対しても、有事に備えて米を厳重に貯蔵するよう命じました。
領土拡大の野心ではなく、外敵の侵攻と自然災害という現実的な脅威から民と国家を護るため、ひたすらに米と防衛網を固めたこの政策は、老帝ならではの堅実で憂国に満ちた治世でありました。
宣化天皇統治の時代背景と周辺エピソード
宣化天皇が在位した535年から539年という6世紀半ばの時代は、歴史区分においては古墳時代後期にあたり、東アジア全体が緊迫した対外緊張の中にありました。
国内においても、王位継承を巡る二朝並立の矛盾が噴出しており、内憂外患の激動の時期にあったとされます。
政治的な実態においては、大連である大伴金村が軍事と外交の全権を握る一方で、大連・物部尾輿や大臣・蘇我稲目といった次世代の豪族たちが急速に台頭し、権力の交代期を迎えていました。
ちなみにですが、宣化天皇即位元年である536年は、巨大火山の噴火により世界的に平均気温が下がった年で「生きるのに最悪の時期の始まりであり、おそらく最悪の年であった」と評価する歴史学者もいるほどでした。
宣化天皇の政策も、この天候不順に対応したものであった可能性が高いそうです。
宣化天皇と関連氏族・敵対勢力宣
宣化天皇の治世を政治的・軍事的に支えたのは、当時の有力豪族である大伴氏や物部氏、そして新たに台頭しつつあった蘇我氏です。
大伴・物部らの”連”系氏族との共闘
天皇直属の軍事氏族であり、いわば近衛師団のような役割をもっていた大伴氏の大伴金村(おおとものかなむら)は、父の継体天皇を迎え入れた立役者であり、朝廷において強い発言力を持っていたとされています。
また、物部麁鹿火は大連として軍事面を統括し、国内の安定に寄与しました。物部氏はモノノフ=武士の語源となったとも言われる軍事・祭祀の一族で、現代でいう防衛大臣のような役割があったと言います。
大臣となった蘇我氏が台頭の芽生え
そして最も重要な存在が、大臣に就任した蘇我稲目です。蘇我氏は、蔵の管理=現代の感覚で言うと財務大臣のような役割を持っていたとされます。
また、高句麗や百済の渡来人と協力して政治をすすめたことから外務大臣的な役割も兼務していたことも伺えます。宣化天皇は優秀な蘇我稲目を信頼し、筑紫の那津における官家整備という国家的なプロジェクトの総指揮を委ねました。
この強力な布陣があったからこそ、高齢の大王は短期間で確かな政績を挙げることができたのだと思われます。
宣化天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 宣化天皇(せんかてんのう) |
| 本 名 | 檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ) 建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと) |
| 御 父 | 繼體天皇(けいたいてんのう) |
| 御 母 | 尾張目子媛(おわりのめのこひめ) |
| 御 陵 名 | 身狹桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ) |
| 陵 形 | 前方後円墳 |
| 所 在 地 | 奈良県橿原市鳥屋町 |
| 交通機関等 | 近鉄 橿原神宮西口駅から徒歩約15分 (バス停) 船付山口から徒歩約3分 |
| 御在位期間 | 535年~539年 |
奈良県橿原市、かつて身狭(むさ)と呼ばれた静かな田園地帯に、宣化天皇が眠る身狹桃花鳥坂上陵(鳥屋ミサンザイ古墳)は佇んでいます。この御陵には、宣化天皇とともに皇后である橘仲皇女が静かに合葬されていると伝えられています。
華やかな神話や派手な軍事遠征の記録を持たず、ただ飢饉に苦しむ民のために蔵を建て、外敵の脅威から国を護るために老骨を削って防人たちを支え続けた宣化天皇。
穏やかな水濠に囲まれた巨大な前方後円墳の墳丘を渡る風の音に耳を澄ませば、歴史の断層と二朝並立の危機の中で王権の命脈を静かに繋ぎ、ひたすらに国家の存亡を背負い抜いた老帝の重厚な気威と、その深い憂国の志が、いまも時を超えて深く胸へと迫ってきます。










