第61代:朱雀天皇 〜将門の乱と怨霊の嵐に揺れた、若き祈りの帝

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

回は、平安時代中期を駆け抜けた第61代:朱雀(すざく)天皇の物語です。

華やかな貴族文化の裏側で、菅原道真の怨霊の恐怖に怯え、前代未聞の東西同時の大反乱(承平天慶の乱)に揺るがされた治世。

歴史の大きな転換点となった武士の台頭を目の当たりにしながら、わずか30歳で世を去った若き大王の苦難に満ちた生涯を辿ります。

朱雀天皇の人物像・エピソード

朱雀天皇の本名は、寛明親王(ひろあきらしんのう)と言います。父は延喜の治を敷いた名君であった第60代:醍醐天皇、母は藤原基経の娘である皇后・藤原穏子(おんし)です。

彼がどのような環境で育ったかを知る上で、当時の宮廷を支配していた菅原道真の怨霊信仰を切り離すことはできません。

道真の怨霊に左右された当時の環境

寛明親王が生まれる前、皇太子だった兄(保明親王)とその息子(慶頼王)が、まるで呪われたかのように次々と若くして夭折してしまいました。

宮中では「これは大宰府で無念の死を遂げた道真公の祟りだ」と噂され、パニック状態に陥っていました。

次に生まれた寛明親王を何としても守り抜きたいと願った母の穏子は、尋常ではない過保護な育て方をします。

親王が3歳になるまで、悪霊や病を避けるため、宮殿の奥深くに何重にも張られた几帳(シルクのカーテン)の奥に彼を閉じ込め、外の光や風にすらほとんど当てずに育てたのです。

こうした環境もあってか、成長した朱雀天皇は非常に優しく穏やかな性格であった反面、生まれつき身体が弱く、病気がちな青年へと育ちました。

17歳という若さで即位したものの、常に体調不良や国家の危機、そして見えない怨霊の影に悩まされ続けた、繊細で心優しい帝であったとされています。

 

“承平天慶の乱”の勃発・武士たちの大台頭

朱雀天皇の治世において、日本史の教科書を大きく塗り替える出来事が、西暦935年〜941年にかけて起きた「承平天慶の乱」です。

日本の東と西で、同時に国家を揺るがす大反乱が勃発し、武士の台頭を告げるかのような激動の治世でした。

東国:平将門の乱(たいらのまさかどのらん)

関東の有力武士であった平将門が、一族の私戦からやがて国府を襲撃。

ついには自らを新皇と自称し、大和朝廷からの独立を宣言しました。これは朝廷にとって、建国以来最大級の精神的・政治的ショックでした。

西国:藤原純友の乱(ふじわらのすみともの乱)

将門の乱とほぼ同時期、瀬戸内海の海賊を率いた元官僚の藤原純友が反乱を起こしました。太宰府や国府を焼き払い、一時は西日本一帯の制海権を完全に握るまでに勢力を拡大しました。

当時の朝廷には、すでにこれら地方の武装集団を制圧するだけの実戦的な軍隊(律令軍)が残されていませんでした。

そこで朱雀天皇と朝廷は、他の有力な地方武士である平貞盛や藤原秀郷(過大な武勇で知られる俵藤太)、源経基らに高い恩賞を約束して討伐を命じます。

結果として将門は流れ矢に当たって討死し、純友も捕らえられて乱は鎮圧されました。

しかし、朝廷が「武士の力なしでは国家を守れない」ことを証明してしまったこの事件こそが、後に平清盛や源頼朝へと繋がっていく「武士の時代」の扉を文字通りこじ開けた最大の契機となったのです。

朱雀天皇治世の時代背景

朱雀天皇が国を治めた16年間は、信じられないほどの天変地異に見舞われた、社会全体が極度に疲弊した時代背景を持っています。

京都を震撼させた大地震、全国を襲った激しい疱瘡(天然痘)の大流行、飢饉、さらには富士山や阿蘇山の噴火、彗星の出現など、不吉とされる災害が毎年のように連鎖しました。

宮廷の貴族たちや民間の一人々々に至るまで「やはり清涼殿に落雷を落とした道真の怨霊(天満大自在天神)の怒りはまだ収まっていないのだ」と恐怖し、社会全体に濃い終末感が漂っていました。

このような状況下で、肉体的にも精神的にも追い詰められた朱雀天皇は、政治の実権を叔父である太政大臣・藤原忠平(ただひら)に全面的に委ねます。

忠平は摂政・関白として若き帝を献身的に支え、道真の祟りを鎮めるために北野天満宮の創建に尽力するなど、必死の危機管理を行いました。

朱雀天皇と関連氏族・勢力との関係性

朱雀天皇の政治的・血縁的な後ろ盾となったのは、いうまでもなく母方の実家である「藤原北家」です。特に、摂政・関白として朝廷の権力を一手に握っていた藤原忠平は、大王の外叔父にあたり、幼大王の絶対的な名代として機能しました。忠平は、平将門が初期に一族内の土地闘争で京に訴え出てきた際には比較的寛容な態度で接するなど、穏健な処置を望んでいましたが、将門が「新皇」を自称して国府を襲撃するに至り、大王家の権威を守るために断固たる討伐へと舵を切りました。この忠平による一徹した政権運営と、母・藤原穏子の強い内助の功があったからこそ、病弱な朱雀天皇は自らの皇位を脅かされることなく、在位を全うすることができました。

家族関係においては、父である醍醐天皇の後を継ぎましたが、朱雀天皇自身には生涯、皇位を継ぐべき男子(皇子)が誕生しませんでした。そのため、同母弟である成明親王(のちの第62代・村上天皇)との関係は非常に良好であり、自らの体調不良や大乱による精神的疲弊を理由に、極めてスムーズに弟へと皇位を譲り渡す選択をしました。これが後世に「延喜・天暦の治」と称される、安定的で理想的な親政の時代へと繋がっていくことになります。

一方で、大王家にとっての明確な敵対勢力となったのが、東国の平将門と西国の藤原純友です。将門は桓武天皇の曾孫にあたる名門の血筋でありながら、朝廷の地方軽視政策に反旗を翻し、独自の官位を定めて新たな国家の樹立を宣言するという、大王家に対する直接的な反逆者となりました。純友もまた、かつては朝廷の官人でありながら海賊の首領へと身を落とし、大宰府を襲撃して朝廷を大いに苦しめました。これらの敵対勢力は、最終的には秀郷の放った矢が将門の額に命中して討ち死にし、その首が京の治安維持のために晒し首とされるなど、官軍の猛攻によって非情に粉砕されることとなりましたが、大王の心に遺した爪痕はあまりにも深いものでした。

 

朱雀天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 朱雀天皇(すざくてんのう)
本   名 寛明(ひろあきら)
御   父 醍醐天皇(だいごてんのう)
御   母 藤原穏子(ふじわらの おんし/五条后)
御 陵 名 醍醐陵(だいごのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 京都府京都市伏見区醍醐御陵東裏町
交通機関等 京都市営地下鉄東西線「醍醐駅」下車、東へ徒歩約15分
御在位期間 930年 〜 946年

朱雀天皇が眠る醍醐陵は、彼が深く敬愛した父・醍醐天皇の「後山科陵」のすぐ東南に位置しています。

周囲は静かな住宅街と密教の聖地・醍醐寺の緑に囲まれた一角にあり、民家の間の奥まった参道を進んだ先に、ひっそりと佇む小さくも整えられた円丘が現れます。

父の陵墓が「上の御陵」と呼ばれるのに対し、この朱雀天皇陵は古くから「下の御陵」として地元の人々に大切に守られてきました。

怨霊の恐怖から几帳の奥で育てられ、時代の激動を一身に浴びて23歳で退位した若き帝は、かつて自らを優しく包み込んでくれた父の眠る醍醐の山のふもとで、静かな眠りについています。

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