第63代:冷泉天皇 〜美貌と奇行の影で、摂関政治が加速した悲劇の帝

第51-75代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、わずか18歳で即位しながらも精神の病と政争に揺れ、安和の変を経て急速に退位へと追い込まれることになった第63代:冷泉天皇(れいぜいてんのう)の御生涯をご紹介します。

摂関政治が完成へと向かう過渡期の中で、過酷な運命を辿った帝の足跡を詳しく辿ってみましょう。

冷泉天皇の人物像・エピソード

白川通は馬場橋の交差点から東へ入ると、一本道の向こうに御陵が見えます。

第63代天皇となる冷泉天皇は、950年(天暦4年)6月12日、第62代:村上天皇の第二皇子として誕生し、憲平(のりひら)と名付けられました。

母は右大臣・藤原師輔の娘である中宮・藤原安子です。憲平親王は誕生からわずか生後二ヶ月で東宮(皇太子)に立てられました。

兄である第一皇子・広平親王を押しのけての立太子であり、母方の実家である藤原北家九条流の強力な政治的影響力が背景に存在していたことが伺えます。

不思議系キャラの美男子だった?

冷泉天皇の人となりを語る上で避けて通れないのが、幼少期から抱えていたとされる精神の病と数々の奇行のエピソードです。

古記録や後世の説話集には、天皇の常軌を逸した振る舞いが数多く記されています。

例えば、清涼殿の屋根に登って降りなくなったり、御所の中で火を焚こうとしたり、一日中狂ったように蹴鞠をし続けたり、大声を張り上げて叫び続けたりといった行動が伝えられています。また、自らの手で巻物に奇怪な絵を描き散らしたという伝承も残されています。

一方で、冷泉天皇の容姿は大変美しく、端正な顔立ちをした眉目秀麗な美男子であったとも言われています。

しかし、このような奇行のエピソードについては、政敵や後世の史家によって意図的に強調・誇張された可能性も指摘されています。

生後まもなく政治闘争の矢面に立たされ、幼少期から過度な緊張と抑圧に晒され続けた結果として心身のバランスを崩したのかも知れません。

967年(康保4年)、父・村上天皇の崩御に伴い18歳で即位したものの、精神的な不安定さから政務を自ら執ることは難しかったようで、わずか2年足らずで弟の守平親王(円融天皇)に譲位することとなります。

退位後は「冷泉院」として約42年間に及ぶ長い上皇生活を静かに送り、1011年(寛弘8年)に62歳で崩御されることになります。

安和の変を経て、藤原北家による他氏排斥の完成

冷泉天皇は若くして即位・譲位したため、天皇みずからが主体となって断行した政治的業績や固有の政策はほとんど存在していません。

しかし、その短い在位期間(967年〜969年)に起きた政治的事件は、日本の古代政治史における決定的な転換点となるものもありました。

安和の変の背景

まず、治世における最大の出来事は、969年(安和2年)に勃発した安和の変(あんなのへん)です。

冷泉天皇の即位に伴い、政務の実権を握ったのは藤原北家の嫡流・藤氏の長者であり、関白にも就任していた藤原実頼でした。

一方、左大臣には醍醐天皇の皇子であり、学識と名望に秀でたとされる源高明(みなもとのたかあきら)が就任していました。

当時、源高明は冷泉天皇の異母弟である為平親王に娘を嫁がせており、将来的に為平親王が即位すれば源高明が外戚として朝廷の権力を掌握する可能性があったとされます。

7歳で臣籍降下し源氏朝臣を賜っていた源高明ですが、血統としては先述の通り醍醐天皇の皇子です。

 

藤原北家一族による対抗勢力排除の完成

これを激しく警戒した藤原北家(藤原実頼、藤原伊尹、藤原兼家ら)は、源高明が密かに反乱を企て、為平親王を擁立しようとしているという密告を利用します。

この嫌疑により、源高明は左大臣の職を追われ、大宰権帥へと左遷・配流されることとなりました。これが安和の変です。

源高明の失脚によって、古代から続いてきた他氏族(源氏や菅原氏など)による皇室への関与や藤原氏への対抗勢力は完全に排除され、藤原北家による摂政・関白の常置と政権独占の道が完成することとなりました。

 

冷泉天皇治世の時代背景

拝殿から見える景色

冷泉天皇が治めた960年代後半の平安京は、父である村上天皇の「天暦の治」と呼ばれた天皇親政の時代が終わりを告げ、貴族社会が本格的な摂関政治へ移行する大きな境目にありました。

村上天皇の治世においては、摂政や関白を長期間置かずに天皇自らが朝政を司る形が維持されていましたが、冷泉天皇の即位によってその平衡は崩れました。

天皇が病弱かつ精神的不安を抱えていたため、政務の全権は関白の藤原実頼に委ねられました。これにより、朝廷の意思決定は天皇親政から摂関家主導の体制へと不可逆的に変化していきました。

 

冷泉天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

冷泉天皇を取り巻く人間関係は、強大な外戚である藤原北家と、排除されていった他氏族との過酷な権力抗争によって彩られていました。

 

外戚の座を固めた藤原北家

天皇の最大の支持基盤であり、その後ろ盾となったのは外祖父である藤原師輔や、その兄である藤原実頼をはじめとする藤原北家九条流および小野宮流の一族です。

母の藤原安子が村上天皇の愛を受けたこともあり、藤原北家は冷泉天皇を幼少期から擁立し、自らの権力基盤を確固たるものにするための象徴として最大限に活用しました。

一方で、明確な敵対勢力(あるいは排除された対象)となったのが、左大臣・源高明をはじめとする異姓の重臣たちでした。

源高明は学問に深く通じ、宮廷の有職故実にも精通していましたが、藤原北家にとっては最大の障害であったため、安和の変によって政治生命を絶たれることとなりました。

さらに、この冷泉天皇の即位と退位は、後世の皇位継承に長きにわたる分裂と対立をもたらしました。冷泉天皇が退位した際、皇位は弟の守平親王(第64代:円融天皇)へと引き継がれました。

 

冷泉流と円融流の”二統更迭”体制へ

これにより以後の皇室はしばらく冷泉天皇の血統(冷泉流)円融天皇の血統(円融流)の二つに分裂することとなりました。

冷泉流からはのちに第65代:花山天皇や第67代:三条天皇が即位し、円融流からは第66代:一条天皇や第68代:後一条天皇らが即位しました。

この二つの系統が交互に皇位を競い合う「二統更迭」の構図が形作られ、平安時代中期の宮廷内に複雑な派閥争いを生み出す原因となります。

冷泉天皇の存在は、藤原北家の政権独占を確定させると同時に、皇統の枝分かれという歴史的な課題を残すこととなりました。

 

冷泉天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 冷泉天皇(れいぜいてんのう)
本   名 寛明(ひろあきら)
御   父 村上天皇(むらかみてんのう)
御   母 藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ))
御 陵 名 櫻本陵(さくらもとのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 京都府京都市左京区鹿ヶ谷法然院町・鹿ヶ谷寺ノ前町
交通機関等 (バス停) 法然院町から徒歩約4分
(バス停) 錦林車庫前から徒歩約20分
御在位期間 967年~969年

冷泉天皇が静かに眠る櫻本陵は、京都市左京区の東山連峰の麓、鹿ヶ谷の静謐な環境の中に位置しています。

わずか18歳で即位し、心身の苦悩と安和の変という凄絶な政変の渦中に置かれながら、20歳前にして玉座を去った冷泉天皇。退位後は「冷泉院」として62歳まで長寿を全うしました。

その過酷で波乱に満ちた御生涯を象徴するように、現在の御陵は緑豊かな木々に包まれ、静かな時を刻み続けています。

宮内庁により管理されている聖域は、訪れる人々に対して、平安時代中期の宮廷政治の影と、摂関政治確立の陰に消えた一人の天皇の足跡を静かに伝えています。

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