ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、わずか2歳で即位し、宮中での不慮の事故によって10歳という若さで崩御された第87代:四条天皇(しじょうてんのう)をご紹介します。
時代は執権・北条泰時による『御成敗式目』の制定など、武家政権が盤石化していく過渡期。そんな時代を駆け抜けた幼き帝の生涯を辿っていきましょう。
四条天皇の人物像・エピソード

四条天皇は、寛喜3年(1231年)2月12日、第86代:後堀河天皇の第一皇子として誕生し、諱を秀仁(みつひと)と名付けられました。
母は摂政・関白を歴任した有力公卿である九条道家の娘、藤原藻子(そうし/藻璧門院)です。
後堀河天皇が21歳という若さで譲位したことに伴い、秀仁親王は寛喜4年(1232年)に、わずか2歳という年齢で第87代天皇として皇位を継承することとなりました。
イタズラ好きな一面…まさかの悲劇へ

その人となりについては、まだ幼い少年であったため、無邪気でいたずら好きな一面があったことが記録に残されています。
彼の生涯において最も有名であり、かつ悲劇的な結末をもたらしたエピソードが、宮中で発生した滑石(かっせき)のいたずらと呼ばれる事件です。
仁治3年(1242年)1月、数え年で12歳、満年齢でいえばわずか10歳に達したばかりの四条天皇は、御所の廊下に滑りやすい石を撒き、そこに仕える女房たちや近臣たちが足を滑らせて転倒する様子を見て楽しもうという、子供らしい悪戯を思いつきました。
天皇は自ら廊下に滑石を撒いて準備を整えましたが、皮肉にもその直後、自らがその廊下を通った際に誤って足を滑らせてしまいました。
幼き天皇は激しく転倒し、頭部などを強く打ち付けたことが原因で、なんとその日のうちに息を引き取ってしまうのでした。
この予期せぬ最期は、朝廷のみならず鎌倉幕府をも大きな動乱の渦に巻き込むこととなります。
当時10歳の天皇には当然ながら子供がいなかったため、皇統の継承を巡る深刻な政治的混乱が引き起こされ、中世の歴史を大きく変える契機となっていくのでした。
御寺:泉涌寺との縁

武家政権の法秩序確立と王朝文化の結実

四条天皇はその在位期間を通じて常に幼少であったため、天皇自らが直接的に政治的な主導権を握って改革を断行したという事績はありません。
しかし、彼の治世下においては、日本の法制史および文化史において二つの金字塔が、朝廷と幕府の協力や、優れた文化人の手によって成し遂げられました。
稀代の名君:北条泰時による御成敗式目の制定

第一の実績は、即位の年である寛喜4年(1232年)に、鎌倉幕府の第三代執権・北条泰時らによって制定された『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』、またの名を『貞永式目(じょうえいしきもく)』の誕生です。
これは、承久の乱以降に激増していた御家人たちの土地争いや、裁判の基準を明確にするために作られた、日本初の本格的な武家独自の法律です。
この式目において特筆すべき点は、20年間にわたって他人の土地を実質的に支配し続けていれば、その土地が正式に自身の所有物になるという「年期法」の規定が盛り込まれたことです。
この画期的な法理は、現代の日本国における民法の「時効取得」という制度の根本的な源流となっており、中世に生まれた法秩序が、時を越えて現代の社会システムにまで続いていることがわかります。
また、武家独自の合理的な裁定基準がここで確立されたことは、列島全体の安定に多大な寄与を果たすこととなっていくのでした。
小倉百人一首の撰定と和歌文化の成熟

第二の実績は、文暦2年(1235年)頃に、公卿であり当代随一の歌人であった藤原定家(ふじわらのていか)によって『小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)』が撰されたことです。
定家は、飛鳥時代の天智天皇の和歌を筆頭に置き、自身の父である藤原俊成の和歌や、定家自身の作品も含めた、歴代の優れた歌人百人の秀歌を厳選して一首ずつ集めました。
この百人一首の完成は、平安時代から鎌倉時代へと至る宮廷文化の精華を美しく集大成したものであり、四条天皇の治世が、武の台頭の一方で、洗練された王朝文化の伝統を後世へと伝える極めて重要な結実の時代であったことを物語っています。
四条天皇治世の時代背景

四条天皇が国を治めた1230年代から1240年代初頭にかけての日本は、承久の乱(1221年)の終結から10年ほどが経過し、朝廷と鎌倉幕府の力関係が完全に逆転した後でした。
朝廷の政治的権威は大きく失墜しており、京都には幕府の出先機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)が置かれるなど、宮廷や西国の武士たちの動向は武家政権である鎌倉幕府によって厳しく監視されている状態でした。
公家たちによる穏健路線の維持

その一方で、京都の朝廷内では、幕府との全面的な対立を避け、穏健な協調路線を維持することによって王権の存続を図ろうとする、実務的な公家政治が展開されていました。
このような緊迫感の漂う時代背景において、四条天皇は宮中という極めて限定された空間で、周囲の大臣や女房たちに囲まれて育ちました。
天皇は幼少であったため、大人の貴族が行うような高尚な漢詩の創作や有職故実の研究といった趣味の記録はほとんど残されていません。
彼の日常は、御所の中での純粋な遊びや、前述したような無邪気ないたずらが中心だったのでしょうか。
四条天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

四条天皇の身辺における一族や諸勢力との関係性は、承久の乱後の朝廷を掌握した有力公家と、それをさらに上空から統制していた鎌倉幕府との間の、極めて複雑な権力構造を反映していました。
藤原北家の嫡流:九条家と西園寺家

四条天皇の最大の政治的後ろ盾となったのは、母方の実家である九条家(くじょうけ)と、それに連なる西園寺家(さいおんじけ)でした。
外祖父である九条道家は、朝廷の第一人者として絶大な発言権を誇り、幼い天皇に代わって国政の実務を主導していました。
また、西園寺公経は鎌倉幕府との公式な交渉窓口である関東申次(かんとうもうしつぎ)の役職を務めており、この二つの強力な公家一族が幾重にも婚姻関係を結ぶことで、四条天皇の王権を全面的に支える盤石な体制を構築していました。
北条得宗家・執権と鎌倉幕府

しかし、外部に目を向けると、朝廷を完全に圧倒する実質的な敵対勢力とも言うべき存在として、北条泰時率いる鎌倉幕府が厳然として君臨していました。
四条天皇が10歳で急逝した際、この両者の間の圧倒的な力関係の差が白日の下に晒されることとなります。
後ろ盾であった九条道家らは、次の天皇として、承久の乱で佐渡島へ流罪となっていた順徳上皇の皇子である忠成王を即位させようと画策しました。
しかし、幕府に対して強い反抗心を持っていた順徳上皇の血統が再び皇位に就くことを激しく嫌った鎌倉幕府は、この人事を強硬に拒否します。
承久の乱に対して比較的穏健な立場を取っていた土御門上皇の皇子である邦仁王(くにひとおう、後の後嵯峨天皇)を強引に指名し、即位を強行させたのです。
この皇統交代劇により、四条天皇を支えていた九条家の権勢は一転して大きく失墜することとなり、朝廷の最高人事権さえも幕府の意向ひとつで決定されるという、中世日本の厳しい現実が決定づけられることとなりました。
四条天皇の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 四条天皇(しじょうてんのう) |
| 本 名 | 秀仁(みつひと) |
| 御 父 | 後堀河天皇(ごほりかわてんのう) |
| 御 母 | 藤原藻子(ふじわらのそうし) ※藻璧門院 |
| 御 陵 名 | 月輪陵(つきのわのみささぎ) |
| 陵 形 | 九重塔 |
| 所 在 地 | 京都府京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 |
| 交通機関等 | JR奈良線・京阪本線「東福寺駅」下車、東へ徒歩約20分、 または京都市バス「泉涌寺道」バス停下車、東へ徒歩約15分 |
| 御在位期間 | 1232年~1242年 |
四条天皇が眠る月輪陵は、京都の東山、泉涌寺(せんにゅうじ)の境内にあります。
多くの歴代天皇と共に祀られているこの地を訪れるとき、いたずら好きの少年が突然の事故で歴史の表舞台から去った悲哀と、その短い治世に結実した「百人一首」という不滅の文化の輝きを、同時に感じることができるでしょう。

