第13代:成務天皇 〜国郡の境を定め、地方統治の礎を築いた実務化の帝

初代-25代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。御陵やその周辺地域の写真とともに歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、父・景行天皇や兄・日本武尊(ヤマトタケル)が武力で広げた領土を、見事な仕組みづくりで整理・統治した事務方の天才、第13代:成務天皇をご紹介します。

派手な征討談はありませんが、彼がいなければ日本の地方行政は始まらなかったと言っても過言ではありません。

のちの時代に「古代日本を形作った4つの大偉業」として、古事記の序文にも記載される”近淡海天皇(ちかつおうみのすめらみこと/成務天皇)”の業績を振り返ってみましょう。

成務天皇の人物像・エピソード

成務天皇の本名は、日本書紀において稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)と記録されています。

父は日本武尊の父でもある第12代:景行天皇であり、母は美濃の有力豪族の血を引く八坂入媛命(やさかいりひめのみこと)です。

成務天皇の人物像を語る上で欠かせない最大のエピソードは、日本史上屈指の忠臣として名高い武内宿禰(たけうちのすくね)との間に結ばれた深い絆にあります。

 

全く同じ日に生まれた?武内宿禰との逸話

伝承によると、成務天皇と武内宿禰は全く同じ日に誕生したとされています。

古代の習慣においては、天皇家に双子が生まれること、あるいはそれに準じる同日生の存在は忌まわれる傾向があったため、武内宿禰は別の氏族へ養子に出されるような形で育てられたのでは?という説もあるようです。

二人は幼少期から青年期にかけて非常に仲が良く、常に緊密な関係を保っていました。

宮廷の警備や政務の場においても行動を共にし、お互いの気心を完全に知り尽くした無二の親友、あるいは兄弟のような関係であったと伝えられています。

 

兄でもある古代日本の英雄:ヤマトタケルとは対照的な性格

また、武力によって国土を次々と征服していった父の景行天皇や、兄にあたる日本武尊(やまとたけるのみこと)とは対照的に、成務天皇自身は非常に理知的で穏やかな人柄であったとされています。

過度な争いを好まず、すでに獲得された広大な領土をどのようにして効率的かつ平和的に統治するかという、内政の充実に知恵を絞る官僚的な資質を備えた人物でした。

この思慮深さと、幼馴染である武内宿禰への絶対的な信頼が、彼の治世における大いなる安定をもたらす原動力となりました。

 

国造・県主の制定と地方行政組織の確立

成務天皇の功績は、全国規模で国・郡・県・邑という行政区画の境界を明確に画定したこと、各地に国造・県主を正式に任命して地方支配網を確立したこと、ならびに忠臣・武内宿禰を棟梁(大臣)に抜擢して中央集権化の基礎を固めた点にあります。

 

山や川などの自然地形に基づき、行政区画を明確化

一つ目の功績は国郡の境および県邑の掟の画定です。

父であり先代の景行天皇や、兄:日本武尊の時代では、武を持ってヤマト王権の影響力は九州から関東に至る広大な地域へ広がりました。しかしそれらはあくまでも武力による一時的な服属関係に過ぎず、土地や民の境界は曖昧な状態にありました。

成務天皇は即位5年、東西南北の各地へ勅使を派遣し、山川の自然地形に基づいて行政区画の境界を正確に引かせました。これにより、王権の支配領域が明確な国土として定義されることとなりました。

 

地方官職を任命し、田畑の面積を統一

そして、地方官職である国造や県主を定めます。

成務天皇は、各地の有力な土着豪族や王権ゆかりの皇族を国造や県主として正式に補任しました。その際、それぞれの官職の権威と管轄権を証明する標識として造の柄や県の柄などの印符を下賜したとされています。

さらに、田畑の面積や税の基準を揃えるため、広さの単位である長狭短狭(ながさみじかさ)や畝長畝短(せながせみじか)という規格を導入し、日本史上で最初となる統一的な度量衡と行政支配の制度を整備いたしました。

 

初代棟梁ノ臣:武内宿禰との二人三脚体制

さらに成務天皇は朝廷の最高宰相として、自らの即位と同時に棟梁ノ臣(大臣)として武内宿禰を任命します。

記紀では、この時から仁徳天皇の治世まで大臣(武内宿禰)は中央の政務や地方行政の実務、軍事の総指揮を担当し、成務天皇の手足となって国家制度の構築を推進していくことになります。

大王が制度の理念を掲げ、有能な臣下(大臣や大連など)が現場の実務を精力的に執り行うという、効率的な執政体制がここに完成し、これは645年の大化の改新で廃止されるまで運用される仕組みとなるのでした。

【コラム】武内宿禰 〜大王家と共に古代日本の基盤をつくった”棟梁ノ臣”

 

成務天皇治世の時代背景と周辺エピソード

成務天皇の時代は、地域の小国家がヤマト王権を中心とする政治連合へと収斂していく時期であり、父の景行天皇と違って軍事行動の記述はほとんどありません。つまり、ひたすら国内の体制整備に注力する内政の時代でした。

力・武力による征服だけでは長大な維持が不可能です。征服した各地の富や集落を組織的に管理し、朝廷へ納めさせる税(調や貢物)の体系を構築することが焦眉の急となっていました。

つまりこの時代は、”武”による征服の時代から、”文”による統治の時代への転換期であったと考えられます。

また成務天皇は、都を琵琶湖の南岸にあたる近江国の志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太周辺)に置いていました。

この場所は父の景行天皇が晩年に都を置いた地であり、成務天皇もそれを踏襲する形になっています。志賀高穴穂宮は、北陸や東国へと通じる陸路の要衝であると同時に、琵琶湖の水運を活用して全国の物資を集積できる交通・軍事の最大拠点でありました。

成務天皇と関連人物・関係性

成務天皇を取り巻く人間関係において、最も強固な結びつきを持っていたのは、言うまでもなく武内宿禰とその一族でしょう。

棟梁ノ臣に抜擢した武内宿禰との強固な絆

朝廷の中枢を足元から絶対的に支えたのが、大臣の武内宿禰です。

武内宿禰は孝元天皇の曾孫にあたり、朝廷の軍事・行政・神事を統括する最高幹部として成務天皇を支えました。関係は極めて良好であり、後世の摂関政治のような権力闘争とは無縁の、強い信頼に基づく共同統治が行われました。

また、御母の実家である美濃の豪族や、大和盆地の名門:和邇氏も成務天皇の強固な後ろ盾となりました。和邇氏は朝廷の外交や将軍職を代々担う氏族であり、成務天皇の安定した治世を政治的にバックアップいたしました。

 

記紀には、敵対勢力や外敵の記録はみられない

一方、朝廷に公然と敵対するような、大規模な国内勢力や外敵の記録はありません。

これは、成務天皇が地方の有力豪族に対して強圧的な態度を取るのではなく、彼らを国造などの世襲の官職に任命することで、その土地の実質的な支配権を公認し、王権の権威の下にうまく懐柔に成功しつつあったものと考えられます。

敵を作らず、制度によって味方を増やしていく巧妙な政治的アプローチが、成務天皇の人間関係と勢力図の根幹にあったのかも知れません。

 

成務天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 成務天皇(せいむてんのう)
本   名 稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)
御   父 景行天皇(けいこうてんのう)
御   母 八坂入媛命(やさかいりひめのみこと)
御 陵 名 狭城盾列池上陵(さきたたなみのいけがみのみささぎ)
陵   形 前方後円墳
所 在 地 奈良県奈良市山陵町
交通機関等 近鉄 平城駅から徒歩約7分
御在位期間 131年~190年

成務天皇が静かに眠る狹城盾列池後陵は、奈良盆地の北部に位置する佐紀盾列古墳群(さきたたたなみこふんぐん)の一角を占める美しい前方後円墳です。

この古墳群の周辺には、彼のゆかりの深い一族や後世の天皇たちの御陵が点在しており、古代ヤマト王権の中心地としての神聖な雰囲気を今も色濃く残しています。

生涯を通じて武力に頼ることなく、無二の友である武内宿禰とともに机の上で地図を広げ、法と境界によって日本という国家の枠組みを定め上げた理知的な大王の御陵は、現在も豊かな緑と静寂に包まれています。

訪れる人々に対して、激動の征服戦争の後に訪れた、穏やかで秩序ある建設の時代の足跡を静かに語りかけているかのようです。

春先に訪れた時は、御陵のまわりにタンポポが咲いていました。

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