第33代:推古天皇 〜初の女帝として聖徳太子と共に近代国家の礎を築く

第26-50代

「みささぎめぐり」へようこそ。日本の歴史を築いてきた歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、日本史上最初の公認女帝であり、激動の飛鳥時代を優れた政治手腕で舵取りした第33代:推古天皇(すいこてんのう)に焦点を当てます。

聖徳太子や蘇我馬子といった巨星たちを巧みに配し、東アジアの大国と対等に渡り合う中央集権国家の土台を築いた名君の足跡を、詳しく辿っていきましょう。

推古天皇の人物像・エピソード

南から見た推古天皇陵。美しい景色の中にあります

推古天皇の本名は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と言います。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)

父は仏教伝来の礎を築いた第29代:欽明天皇、母は蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)です。彼女はのちに異母兄である第30代・敏達天皇の皇后となりました。

『日本書紀』によれば、彼女の人となりは「姿色端麗(容姿が大変美しく)、進止軌制(立ち振る舞いが極めて理知的で上品であった)」と称えられています。単に美しいだけでなく、並み居る男系皇族や有力豪族を黙らせるほどの強い意志と、天性のカリスマ性を備えた女性でした。

日本初の女帝が生まれた経緯

北側から。太子町の開けた場所にある、壮大な御陵です。

そんな彼女が皇位に就くことになったきっかけは、宮廷を揺るがした凄惨な政変でした。

崇仏派の蘇我馬子と、排仏派の物部守屋による激しい内戦(丁未の乱)ののち、即位した第32代・崇順(すしゅん)天皇が、あろうことか実権を握る蘇我馬子の放った刺客によって暗殺されてしまったのです。大王(天皇)が暗殺されるという前代未聞の事態に、朝廷内は次の皇位を巡って血みどろの権力闘争が再発しかねない極限状態に陥りました。

この危機を収めるため、諸有力豪族や皇族たちが満場一致で白羽の矢を立てたのが、額田部皇女でした。彼女はこれ以上の血の粛清を防ぐため、周囲に乞われる形で豊浦宮(とゆらのみや)にて即位。ここに、日本史上初の公式な女性天皇が誕生することとなったのです。

 

聖徳太子・蘇我馬子との三頭政治

推古天皇が成し遂げた最大の功績は、身内の天才たちを巧みにコントロールし、それまでの氏族中心の古い政治から、法と能力に基づく「中央集権的な近代国家」への大改革を成し遂げたことです。

即位した推古天皇は、きわめて聡明な甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立て、国政の全権を委ねる「摂政」に任命しました。そして叔父である大臣:蘇我馬子を加えた、3人による日本史上で最も機能したハイレベルな共同統治(三頭政治)をスタートさせます。

冠位十二階の制定(603年)

それまでの「生まれ持った家柄(氏姓)」で役職が決まる古い慣習を打破。個人の「才能や功績」に応じて12の冠位を授ける画期的な実力主義の制度を導入し、有能な官僚組織の土台を作りました。

 

十七条憲法の発布(604年)

「一に曰く、和を以て貴しとし…」で有名な、日本初の成文法(道徳的規範)を制定。役人としての心得や、国家における天皇の絶対性を説き、バラバラだった諸豪族の意識を「一つの国家」へとまとめ上げました。

 

仏教興隆の詔(594年)

国家として正式に仏教の興隆を後押ししました。これにより、聖徳太子による法隆寺や四天王寺の造営が進み、日本初の輝かしい仏教文化である「飛鳥文化」が大きく花開くこととなったのです。

 

朝貢外交からの脱却をめざした遣隋使の派遣

また、外交面でも歴史的な足跡を残しています。中国大陸を統一した隋に対して「遣隋使」を派遣し、それまでの従属的な関係から脱却して、対等な立場での国交を樹立しようと試みました。

 

推古天皇治世の時代背景と周辺エピソード

推古天皇が国を治めた6世紀末〜7世紀初頭の飛鳥時代は、大陸において長年の分裂選挙に終止符を打ち、巨大な統一帝国となった隋が誕生した激動の国際情勢下にありました。この大国に対し、推古朝は驚くほど強気で知的な外交を展開します。

朝貢から対等外交へ──。遣隋使を派遣

西暦607年、女帝は小野妹子(おののいもこ)らを「遣隋使」として大陸へ派遣しました。その際、煬帝(ようだい)に手渡された国書には、あまりにも有名な次の一節が記されていました。

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや…」

(東の太陽が昇る国の天子が、西の太陽が沈む国の天子へ手紙を送ります。お元気ですか…)

当時の世界を支配していた隋の煬帝は、「倭(日本)のごとき東の蛮族の王が、自分と同じ『天子』の称号を使うとは何事か!」と激怒したと伝えられています。

しかし、推古天皇と聖徳太子の狙いは、中国を中心とする臣下の礼(朝貢)ではなく、「対等な主権国家としての国交」を結ぶことにありました。隋側も、高句麗との戦争を控えていたため日本を無視できず、結果としてこの対等外交は成功を収め、日本の国際的地位は劇的に高まりました。

小野妹子が見せた外交官としての優れた判断?

また、この時代の有名なエピソードとして、小野妹子の「国書紛失事件」があります。

妹子が隋の皇帝に謁見した際、皇帝は日本が対等な「天子」を名乗ったことに激怒し、無礼な内容の返書を書きました。これをそのまま持ち帰れば戦争になりかねないと判断した妹子は、帰国後に「暴風雨で返書を失くしました」と真っ赤な嘘をつきました。

本来なら死刑ものの失態ですが、戦争を防ごうとした彼の決死の覚悟を理解した朝廷は、逆に彼を二階級特進で昇進させたと言います。

 

推古天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

推古天皇の周囲は、親族である蘇我氏との絶妙なパワーバランスと、最愛の息子に捧げた生涯不滅の「母の愛」で結ばれています。

蘇我馬子との「公私のけじめ」

最高権力者である馬子は、推古天皇にとって叔父であり、自らを大王に押し上げてくれた恩人でした。ある時、馬子は「蘇我氏の先祖の土地である大和国の葛城県(かつらぎのあがた)を、私に譲ってほしい」と天皇に甘えを含んだ要求をします。

しかし、推古天皇はこれを毅然と拒絶しました。「私は蘇我の娘ですから、叔父上の頼みを聴いてあげたい。しかし、天皇の時代に国の土地を一部の氏族に私物化させてしまっては、後世の人々から『愚かな女が国を滅ぼした』と言われ、大王としての面目が立ちません」と言い放ったのです。どれほど親しい親族であっても、国家の公に私情を挟ませない、女帝の凄まじい政治家としてのプライドが窺えるエピソードです。

夭折した最愛の息子・竹田皇子への情愛

敏達天皇との間に生まれた最愛の皇子・竹田皇子は、将来の有力な皇位継承候補でしたが、推古天皇の即位前に若くして亡くなってしまいました。女帝はこの息子の死を生涯引きずり、深く深く哀しみました。

推古天皇36年(628年)、75歳で崩御する間際、彼女は遺言として「私は、先に逝った竹田皇子と同じお墓に合葬してください。重い天皇の責務を終えたら、最後はただの母親として息子の隣で眠りたい」と言い残したのです。天下を総べる偉大な女帝の胸の奥底に秘められていた、切ないまでの母の素顔でした。

 

推古天皇陵の基本情報

項 目 名 内容
天 皇 名 推古天皇(すいこてんのう)
本   名 豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)
御   父 欽明天皇(きんめいてんのう)
御   母 蘇我 堅塩媛 (そが の きたしひめ)
御 陵 名 磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)
陵   形 方丘
所 在 地 大阪府南河内郡太子町大字山田
交通機関等 (バス停) 推古天皇陵前から徒歩約6分
御在位期間 592年~628年

推古天皇は、崩御される際に激しい政治闘争の中で先立たれてしまった愛息・竹田皇子の墓をさらに大きくし、そこに私を合葬してほしい。厚葬(派手なお墓)にして民を苦しめてはならないと遺言したと言います。

そのため、この磯長山田陵は、歴代でも珍しい母子合葬墓となっています。

東西約59メートル、南北約55メートルの立派な方墳でありながら、激動の乱世を国家のために闘い抜いた女帝が、最期は一人の母親として、愛する我が子の隣で静かに眠りについている慈愛の聖地でもあります。

 

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