第33代:推古天皇 〜聖徳太子・蘇我馬子と共に国家の礎を築いた日本初の女帝

第26-50代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。日本の歴史を形作ってきた歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、日本史上最初の公認女帝であり、激動の飛鳥時代を優れた政治手腕で舵取りした第33代:推古天皇(すいこてんのう)に焦点を当てます。

聖徳太子や蘇我馬子といった巨星たちを巧みに配し、東アジアの大国と対等に渡り合う中央集権国家の土台を築いた名君の足跡を、詳しく辿っていきましょう。

推古天皇の人物像・エピソード

南から見た推古天皇陵。美しい景色の中にあります

推古天皇の本名は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と言います。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)。

父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘である蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)との間に生まれ、同母兄には用明天皇がいました。

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日本初の女帝として即位するまで

額田部皇女の生涯は、幼少期から権力闘争と身内の流血劇に囲まれた波乱に満ちたものでした。

18歳の時、異母兄である敏達天皇の妃となり、のちに皇后として政務を支えた彼女でしたが、敏達天皇の崩御、そして次代の大王として嘱望していた愛息・竹田皇子の急死という状況に直面します。

敏達天皇が崩御した後、同母兄の用明天皇、異母弟の崇峻天皇が相次いで即位します。しかし、崇仏・排仏を巡る葛藤や蘇我氏と物部氏の激突(丁未の乱)を経て、大臣・蘇我馬子の権力は肥大化していくことになります。

そして592年、蘇我馬子と激しく対立した崇峻天皇が、馬子の刺客である東漢駒(やまとのあやのこま)によって暗殺されるという、古代史上前代未聞の惨劇が勃発しました。

大王暗殺という国家崩壊の危機に直面し、皇室の分裂と混乱を収拾できる人物として白羽の矢が立ったのが、敏達天皇の皇后であり、皇室家の長老格であり、さらには時の有力者でもある蘇我氏の血を引いていた額田部皇女だったのでした。

592年12月、彼女は周囲からの強い要請を受け入れる形で飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)にて即位します。

これが、日本史上初となる女性天皇(女帝)誕生の経緯なのでした。

 

容姿端麗で品格に満ちた立振る舞い?

史書に記された額田部皇女の人となりは「容姿端正にして、挙止言語すべて典雅なり(顔立ちが美しく、立ち振る舞いや言葉遣いがきわめて品格に満ちていた)」と讃えられています。

こう聞くと柔和な印象を与えますが、その内面にはいかなる権力者にも屈しない強靭な意志と冷徹な政治的洞察力を備えていたとされます。

 

それを裏付けるのが、蘇我馬子との葛城県をめぐるエピソードです。

蘇我馬子は、自身の本貫地であり蘇我氏の先祖の地である大和国の葛城県(かつらぎのおあがた)を、自らの私有地として譲り渡してほしいと推古天皇へ請願しました。

これに対して推古天皇は次のように語り、馬子の要求を拒絶します。

「臣(馬子)が私と同族であり、私の伯父であることは事実です。しかし、だからと言って国家の土地(公地)を私情で臣下に与えてしまえば、後世の皇達から『あの女帝は愚かにも私情で先祖の土地を割譲した』と不名誉な評価を受けるでしょう。私は大王として、国家の土地を割譲することはできません」

 

甥の聖徳太子、叔父の蘇我馬子と協力した三頭政治

推古天皇が成し遂げた最大の功績は、身内の天才たちを巧みにコントロールし、それまでの氏族中心の古い政治から、法と能力に基づく中央集権的な近代国家への大改革を成し遂げたことです。

 

摂政に聖徳太子を抜擢し、政治機構を刷新

一つ目の功績は、皇太子・摂政に聖徳太子(厩戸皇子)を抜擢し、政治機構を刷新したことが挙げられます。

即位の翌年である593年、推古天皇は甥にあたる聡明な厩戸皇子を皇太子・摂政に任命し、内政・外政の全権を委ねました。

推古天皇が大権を保持しつつ、実務を聖徳太子が担い、重臣であり叔父でもある蘇我馬子がこれを支えるという、絶妙なバランスのもとでの三頭政治(共同統治)が確立されました。

 

氏姓制度に変わる冠位十二階を制定、人材登用の道を拓く

さらに、603年(推古天皇11年)に制定された冠位十二階の法の制定です。それまでの氏姓制度では、豪族の家柄によって身分や官職が固定化されていました。

これに対し、徳・仁・礼・信・義・智の6つの徳目を大小に分けた12の冠位(紫・青・赤・黄・白・黒の冠)を設定し、個人の才能や功績に応じて冠位を授与する新しい官僚機構を導入いたしました。

これにより、門閥に囚われない人材登用の道が拓かれることになるのでした。

 

十七条憲法の発布(604年)

604年(推古天皇12年)に発布された十七条憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)でしょう。これは聖徳太子(厩戸皇子)が制定したとされる、日本最古の成文法(道徳規範)です。

「憲法」と名がついているものの、内容としては近代的な価値観でいう憲法とは少し異なります。官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されており、行政法・行動規範と呼ぶ方が実態に近いです。

第1条「和を以て貴しと為し、忤ふこと無きを宗とせよ」、第2条「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」、第3条「詔を承りては必ず謹め」などに示されるように、豪族同士の無用な争いを戒め、仏教道徳と天皇中心の国家統治理念を明確に言語化したのでした。

 

朝貢外交からの脱却をめざした遣隋使の派遣

小野妹子の墓。推古天皇陵や聖徳太子の墓とされる叡福寺北古墳と同じ大阪府太子町にあります。

そして、東アジアの情勢に対応した自立外交(遣隋使の派遣)も大きな功績の一つです。

607年、中国大陸を統一した巨大な帝国であった隋に対し、小野妹子らを遣隋使として派遣しました。

ちなみにこの際、隋の煬帝へ送られた国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなくや…」は、中国を中心とする冊封体制から離脱し、対等な対外関係を宣言した歴史的な外交文書でありました。

中国からの高度な律令制度や仏教文化を直接導入するルートが、ここに開かれることになるのでした。

 

仏教興隆の詔による三宝の興隆と飛鳥文化の創出

そして三宝(仏教)の興隆と飛鳥文化の創出です。

推古天皇は三宝興隆の詔を発し、仏教を国家の発展と平穏のための信仰として公認しました。

仏教を公認したことにより、日本初の本格的伽藍を持つ飛鳥寺(法興寺)の完成や、聖徳太子による斑鳩寺(法隆寺)の建立が相次ぎ、渡来人の技術を結集させた格調高い飛鳥文化が華咲くこととなるのでした。

 

推古天皇治世の時代背景と周辺エピソード

推古天皇が国を治めた6世紀末〜7世紀初頭の飛鳥時代は、大陸において長年の分裂選挙に終止符を打ち、巨大な統一帝国となった隋が誕生した激動の国際情勢下にありました。

先述の通り、推古朝は隋に対しては驚くほど強気で知的な外交を展開します。

朝貢から対等外交へ──遣隋使を派遣

西暦607年、女帝は小野妹子らを遣隋使として大陸へ派遣しました。

その際、煬帝(ようだい)に手渡された国書には、あまりにも有名な次の一節が記されていました。

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや…」
(東の太陽が昇る国の天子が、西の太陽が沈む国の天子へ手紙を送ります。お元気ですか…)

当時の世界を支配していた隋の煬帝は「倭(日本)のごとき東の蛮族の王が、自分と同じ『天子』の称号を使うとは何事か!」と激怒したと伝えられています。

しかし、推古天皇と聖徳太子の狙いは、中国を中心とする臣下の礼(朝貢)ではなく「対等な主権国家としての国交」を結ぶことにありました。

隋側も、高句麗との戦争を控えていたため日本を無視できず、結果としてこの対等外交は成功を収め、日本の国際的地位は劇的に高まったのでした。

 

小野妹子が見せた外交官としての優れた判断?

小野妹子の墓。拝所。

また、この時代の有名なエピソードとして、小野妹子の国書紛失事件があります。

妹子が隋の皇帝に謁見した際、皇帝は日本が対等な「天子」を名乗ったことに激怒し、無礼な内容の返書を書きました。

これをそのまま持ち帰れば戦争になりかねないと判断した妹子は、帰国後に「暴風雨で返書を失くしました」と真っ赤な嘘をついたそうです。

外交文書である国書を紛失する、という本来なら死刑ものの失態ですが、戦争を防ごうとした彼の決死の覚悟を理解した朝廷は、逆に彼を二階級特進で昇進させたと言います。

 

推古天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

推古天皇を取り巻く人間関係は、父・欽明天皇から受け継いだ王権の威光、外戚である蘇我氏との強力な協力と牽制、最良の政治的伴侶であった聖徳太子との絆、ならびに死後に表面化した皇位継承を巡る不穏な暗闘によって形作られていました。

 

外戚となった蘇我氏の後ろ盾、甥でもある上宮太子との協力

政権を足元から絶対的に支えたのが、伯父にあたる大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)でした。

蘇我馬子は強大な経済力と兵力を背景に推古天皇を支え、自らの姪である推古天皇の治世において全盛期を謳歌します。

しかし推古天皇は、馬子の忠誠を受け入れつつも、前述の葛城県の割譲要求を突っぱねるなど、蘇我氏の独走を厳格に抑え込んでいました。

そして、政治と思想の絶対的パートナーとなったのが、摂政である聖徳太子(厩戸皇子・上宮太子)です。

聖徳太子は推古天皇の意を体し、中央集権化と仏教文化の開花に向けて不眠不休の執政を行いました。

二人の間には固い信頼関係が存在し、622年に聖徳太子が49歳で早世した際、推古天皇の嘆きと失意はあまりにも深かったとされています。

 

後継者を明確に指名しないままの崩御

628年(推古天皇36年)、推古天皇は75歳で崩御いたしました。

崩御の直前、病床に伏した推古天皇は、後継者として有力視されていた田村皇子(後の第34代・舒明天皇)と山背大兄王(聖徳太子の皇子)の双対に対し、双方に配慮するような含みのある遺言を残して息を引き取ったとされています。

この後継者指名の不在は、推古天皇の崩御直後、馬子の息子である蘇我蝦夷による政治的暗闘と山背大兄王の悲劇を引き起こす不穏な暗雲となって朝廷に垂れ込めることとなるのでした。

 

推古天皇陵の基本情報

項 目 名 内容
天 皇 名 推古天皇(すいこてんのう)
本   名 豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)
御   父 欽明天皇(きんめいてんのう)
御   母 蘇我 堅塩媛 (そが の きたしひめ)
御 陵 名 磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)
陵   形 方丘
所 在 地 大阪府南河内郡太子町大字山田
交通機関等 (バス停) 推古天皇陵前から徒歩約6分
御在位期間 592年~628年

推古天皇は、崩御される際に「愛息子である竹田皇子の墓をさらに大きくし、そこに私を合葬してほしい。厚葬(派手なお墓)にして民を苦しめてはならない」と遺言したと伝わります。

そのため、推古天皇が眠る磯長山田陵は、歴代でも珍しい母子合葬墓となっています。

東西約59メートル、南北約55メートルの立派な方墳でありながら、激動の乱世を国家のために闘い抜いた女帝が、最期は一人の母親として、愛する我が子の隣で静かに眠りについている慈愛の聖地とも言えます。

 

 

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