第59代:宇多天皇 〜臣下から皇位へ。猫を愛し寛平の治を敷いた帝

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、一度は臣下(源氏)に降りながら、再び皇族に戻って即位した数奇な運命を持つ、第59代:宇多天皇(うだてんのう)をご紹介します。

彼は、肥大化する藤原氏の権力に歯止めをかけるべく、あの学問の神様・菅原道真を抜擢し、理想の親政(天皇自らが行う政治)を目指した「挑戦者」でした。

宇多天皇の人物像・エピソード

宇多天皇の本名は定省(さだみ)と言います。

第58代・光孝天皇の第七皇子として生まれましたが、父の光孝天皇は即位した際、有力貴族である藤原氏との無用な政争を避けるため、自らの子どもたち全員を皇族から外し、臣下の身分(源氏)としました。そのため、彼は長らく「源定省」という一介の役人として朝廷に仕えることになります。

この臣下時代の経験が、宇多天皇の人物像を大きく形成しました。彼が仕えていた第57代・陽成天皇の御代では、天皇の気性の激しさから宮中で凄惨な事件が引き起こされます。定省は自らの同僚が陽成天皇の眼前で殴り殺されるという恐ろしい光景を目の当たりにしました。絶対的な権力の下で理不尽に命を奪われる恐怖や、身分の低い者たちの辛さを、彼は一人の臣下として骨の髄まで味わったのです。

しかし、陽成天皇が退位し、父である光孝天皇が崩御の間際を迎えると、後継者不足から定省は急遽皇族に復帰し、第59代・宇多天皇として即位することになります。臣下から天皇へと数奇な運命を辿った彼は、身分や家柄にとらわれず、実力で下から這い上がってきた有能な人物の苦労を深く理解し、適材適所で重用する極めて稀有な大王となりました。

 

藤原氏を牽制し「寛平の治」を展開

宇多天皇が政治の舞台で成し遂げた最大の功績は、藤原氏の権力独占を抑え、天皇自らが政治を主導する親政(寛平の治)を展開したことです。即位当初、彼を天皇に推挙した関白・藤原基経が存在感を放っていましたが、基経の死後、宇多天皇は新たな関白を置くことをしませんでした。

天皇は自らの手で国政を動かすため、身分はそれほど高くなくとも学才と実務能力に秀でていた学者・菅原道真を大抜擢し、側近として重用します。これこそが、臣下としての苦労を知る宇多天皇ならではの「下から這い上がってきた人間を登用する」という信念の表れでした。道真の助言を容れて遣唐使の白紙撤回(894年)を決定するなど、国風文化の発展に繋がる歴史的な決断も下しています。

さらに、地方の治安維持や税収の安定化など、民政にも目を向けた数々の改革を実施しました。特定の有力氏族に過度に依存せず、道真のような学者官僚や、能力のある源氏の廷臣たちをバランス良く配置することで、朝廷内に健全な緊張感をもたらし、政治の腐敗を防ぐ体制を構築したのです。

 

宇多天皇治世の時代背景

宇多天皇が国を治めた9世紀末は、東アジアにおいて長らく繁栄を誇った唐が衰退し、日本の対外政策が大きな転換点を迎えた時代でした。遣唐使の停止により、日本独自の気候風土や感情を表現する文化が宮廷内で花開き始めます。

宇多天皇自身も非常に文化的な素養が深い人物であり、彼が遺した日記『寛平御記』には、当時の宮中行事や政治の舞台裏のみならず、彼の極めて個人的な日常が綴られています。中でも有名なのが、深い愛情を注いでいた「黒猫」の記述です。父・光孝天皇から譲り受けたというその黒猫について、宇多天皇は「墨のように真っ黒で美しい」「丸くなって眠る姿は黒い宝玉のようだ」「ネズミを捕るのがとても上手い」と、現代の愛猫家と全く変わらない溺愛ぶりを書き記しています。これは日本における最古の具体的な猫の飼育記録としても知られています。

また、仏教への信仰が極めて篤かったことも大きな特徴です。在位わずか10年、31歳の若さで第一皇子の醍醐天皇に譲位し、その後は出家して「法皇」となりました。彼が父の遺志を継いで完成させた仁和寺(京都市右京区)は「御室御所」と呼ばれ、宇多天皇はここで仏道修行と風雅な文化活動に没頭しました。彼以降、皇族が仁和寺の門跡(住職)を務める伝統が長く続くこととなります。

 

宇多天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

宇多天皇の生涯において、藤原北家との関係は常に複雑で緊張を孕むものでした。即位直後には、藤原基経との間で「阿衡の紛議(あこうのふんぎ)」と呼ばれる深刻な政治的対立が発生しています。宇多天皇が出した詔の文言(阿衡という言葉)に基経が言いがかりをつけて一切の政務を放棄し、朝廷の機能が完全に麻痺してしまったのです。最終的に宇多天皇が自身の非を認めて詔を取り消す形で事態は収束しましたが、この屈辱的な出来事は、藤原氏の権力がいかに強大であるかを天皇に痛感させました。

この教訓があったからこそ、基経の死後は藤原氏の筆頭である藤原時平を牽制し、菅原道真を重用するという絶妙な権力均衡を図ったのです。しかし、宇多天皇が仏道に専念し始めたのち、若き醍醐天皇の御代において、藤原時平の策謀により菅原道真は大宰府への左遷を命じられてしまいます。この一報を聞いた宇多法皇は、愛する側近を救うべく裸足で御所へと駆けつけ、醍醐天皇に面会を求めました。しかし、時平の手の者によって御所の門は固く閉ざされ、法皇の切実な訴えが聞き入れられることはありませんでした。道真を救えなかった悲しみと無念は、その後の法皇の生涯に暗い影を落とすこととなりました。

 

宇多天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 宇多天皇(うだてんのう)
本   名 時康(ときやす)
御   父 光孝天皇(こうこうてんのう)
御   母 班子女王(はんし(なかこ)じょおう
御 陵 名 大内山陵(おおうちやまのみささぎ)
陵   形 方丘
所 在 地 京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷
交通機関等 (バス停) 原谷農協前から徒歩約11分
御在位期間 887年~897年

宇多天皇の御陵は仁和寺から少し離れた、静かな山の中にあります。非常に質素な形式ですが、周囲の自然と調和したその場所は、法皇として仏道に生きた晩年の彼にふさわしい静謐さに満ちています。

宇多天皇は、臣下から天皇へ、そして天皇から法皇へと、めまぐるしく立場を変えながらも、常に日本のあるべき姿を模索し続けました。

彼が愛した黒猫や、彼が信じた道真。その物語は、1100年以上経った今も、京都の街のどこかに息づいているようです。

 

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