「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、保元の乱に始まる動乱の時代の中で即位し、平清盛や源頼朝といった並み居る武将たちと渡り合いながら5代30年余りにわたって院政を揮った第77代:後白河天皇(ごしらかわてんのう)をご紹介します。
時代の荒波に揉まれながらも朝廷の尊厳を守り抜き、同時に今様という庶民の歌謡に情熱を傾けた帝の、激しくもどこか切ない生涯の足跡を辿ってみましょう。
後白河天皇の人物像・エピソード
第77代天皇である後白河(ごしらかわ)天皇は、1127年(大治2年)10月16日、第74代・鳥羽天皇の第4皇子として誕生しました。本名は雅仁(まさひと)と名付けられました。母は鳥羽天皇から深い寵愛を受けた中宮・藤原璋子(待賢門院)です。
若い頃の雅仁親王は、兄たちや他の皇子たちが存在したため、自らが皇位を継承する可能性は極めて低いと考えられていました。そのため政治的英才教育を受ける機会もなく、宮中の伝統的な学問や有職故実よりも、当時庶民や遊女たちの間で爆発的に流行していた歌謡である「今様(いまよう)」に深い情熱を傾ける日々を送っていました。その熱中ぶりは非常に凄まじいものであり、昼夜を問わず歌い続け、声を潰しては喉を治療し、再び歌い続けるという凄絶な生活を何年も繰り返したと伝えられています。当時の学者であり後に側近となった信西(藤原通憲)からは「文武にあらず、大不器用の人」と評されるほど、政治家としての資質を疑われていました。
しかし、1155年(久寿2年)に第76代・近衛天皇が16歳で急逝すると、朝廷の政治情勢は一変しました。近衛天皇の後継として本命視されていたのは、雅仁親王の第一皇子である守仁親王(後の第78代・二条天皇)でした。しかし守仁親王は当時まだ13歳と若年であったため、父である雅仁親王が「守仁親王が成長するまでの中継ぎ」という名目で、29歳にして急遽第77代天皇として即位することとなりました。
後白河天皇の人となりは、気まぐれで遊興を好む直情的な面を持ちながらも、土壇場において圧倒的な政治的勝負勘と驚異的な執念を発揮する人物でありました。退位して上皇、さらに出家して法皇となってからも今様への情熱は衰えず、宮中に市井の歌い手や傀儡(くぐつ)を呼び寄せて秘伝を伝授させ、自ら今様集である『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂しました。娯楽と見なされていた民間の歌謡を学術的な芸術の域まで高めると同時に、政治の表舞台では武士の力を巧みに操り、朝廷の頂点に君臨し続けた多面的な魅力を持つ帝でありました。
保元・平治の乱の収定と三十有余年に及ぶ院政の展開
後白河天皇が自ら主導し、日本史上に巨大な足跡を残した最大の実績は、公家政治の崩壊と武家政治の誕生という巨大な歴史のうねりの中で、30年以上にわたる長期間の院政を維持し、皇権の政治的存在感を防衛したことにあります。
即位の翌年である1156年(保元元年)、皇位継承問題と摂関家の内紛が結びついた「保元の乱」が勃発しました。崇徳上皇と藤原頼長の一派に対し、後白河天皇側は信西の主導のもと、平清盛や源義朝といった武士の軍勢を迅速に動員して夜襲を敢行し、短期間で勝利を収めました。この戦いを機に、武士の軍事力が国家の権力を左右することが明白となりました。
乱の収定後、後白河天皇は1158年(保元3年)に皇太子・守仁親王(二条天皇)へ皇位を譲り、太上天皇となりました。さらに1159年(平治元年)には「平治の乱」が発生し、宮中の政変によって一時幽閉される危機に直面しましたが、平清盛の迅速な武力介入によって脱出し、朝廷の主導権を迅速に奪還しました。
以後の後白河上皇(法皇)は、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、そして後鳥羽天皇という5代の天皇の治世にわたり、朝廷の最高権力者として「院政」を敷き続けました。平清盛率いる伊勢平氏の膨大な経済力と軍事力を背景に、京都の東山に膨大な伽藍と1000体の阿弥陀立像を誇る蓮華王院(三十三間堂)を造営するなど、国家的事業を次々と成功させました。
源平合戦(治承・寿永の乱)の時代に入ると、後白河法皇の政治的手腕は頂点に達しました。木曽義仲、源義経、そして鎌倉の源頼朝という新興の武家勢力を互いに牽制させ、朝廷の権威を盾にして高度な駆け引きを展開しました。鎌倉幕府の開創を目指す源頼朝に対しては、頼朝が切望していた征夷大将軍の補任を自身が崩御するまで拒み続けました。頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめたその強靭な政治的粘り強さは、武士の時代への完全な移行を遅らせ、朝廷の尊厳を最後まで守り抜く原動力となりました。
後白河天皇治世の時代背景
後白河天皇が治めた12世紀後半という時期は、古代の公家貴族による政治体制が実質的な終わりを告げ、平氏や源氏といった武士階級が歴史の主役に躍り出る、日本史上屈指の激動期にあたっていました。
政治の中心であった京都は、保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱といった相次ぐ武力衝突の舞台となり、内裏の焼失や大規模な政変が日常化していました。そのような緊迫した時代状況の中にありながら、後白河天皇の文化および宗教に対する情熱は衰えることがありませんでした。
天皇の宗教的な信仰心を象徴するのが「熊野詣(熊野御幸)」です。後白河法皇は生涯にわたって34回も紀伊国の熊野三山へ参詣し、過酷な霊場巡礼を重ねました。また、仏教への深い帰依から自ら出家して「法皇」となり、法住寺殿を中心に大規模な法要や経典の書写を積極的に推進しました。
食生活や日常の風流においては、貴族的な形式にとらわれず、身分の上下を問わず庶民的な文化を愛したことが知られています。宮中に市井の歌い手や遊女を招き入れ、今様を何日も歌い明かしながら、親しみやすい宴を主催しました。
天皇にとっての最大のゆかりの地は、自らの院政の拠点で政治の司令塔であった京都の「法住寺殿」と、平清盛の協力を得て寄進された「蓮華王院(三十三間堂)」です。また、少年期から退位後まで足繁く通った「熊野古道」や、平氏との攻防の舞台となった「鳥羽殿」なども、後白河天皇の激動の足跡を今に伝える重要な地域となっています。
後白河天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
後白河天皇を取り巻く人間関係は、実の肉親との凄絶な相克と、台頭する武家勢力との間で繰り広げられた血みどろの駆け引きによって形成されていました。
肉親との関係において最も悲劇的であったのは、同母兄である「崇徳上皇」との対立です。保元の乱で弟の後白河天皇に敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流され、怨念を抱いたまま没しました。また、実子である「二条天皇」との関係も良好とは言えず、正統な皇統の自負を持つ二条天皇の「親政派」と、後白河上皇の「院政派」との間で朝廷内は二分され、激しい主導権争いが展開されました。
武家勢力の中で最大の実力者であった「平清盛」との関係は、極めて複雑な同盟兼敵対関係でした。後白河上皇は平氏の武力と財力を利用して自らの政権基盤を固め、清盛の義妹である平滋子(建春門院)との間に高倉天皇を設けました。しかし、平氏の一門が朝廷の要職を独占して権力を固めると両者の関係は著しく悪化しました。1177年の鹿ケ谷の陰謀を経て、1179年(治承3年)には清盛のクーデター(治承三年の政変)によって後白河法皇は鳥羽殿に幽閉されるに至りました。
平氏の没落後は、「源頼朝」との緊張関係が続きました。法皇は源義経を利用して頼朝を牽制しようと「頼朝追討の宣旨」を出し、情勢が変わると今度は「義経追討の宣旨」を発するなど、武家の一強化を阻むための柔軟かつ冷徹な外交策を次々と打ち出しました。頼朝は法皇の政治的謀略を深く警戒しつつも、朝廷の権威を利用するために妥協と交渉を重ねざるを得ませんでした。
後白河天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 後白河天皇(ごしらかわてんのう) |
| 本 名 | 雅仁(まさひと) |
| 御 父 | 鳥羽天皇(とばてんのう) |
| 御 母 | 藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ) |
| 御 陵 名 | 法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ) |
| 陵 形 | 方形堂 |
| 所 在 地 | 京都府京都市東山区三十三間堂廻リ |
| 交通機関等 | (バス停) 博物館三十三間堂前から徒歩約3分 |
| 御在位期間 | 1155年~1158年 |
後白河天皇が静かに眠る法住寺陵は、京都市東山区の三十三間堂(蓮華王院)のすぐ隣、かつて自らが院政の拠点として栄華を極めた法住寺殿の跡地に築かれています。
1192年(建久3年)4月26日、後白河法皇は66歳で崩御されました。
保元・平治の乱から源平合戦という古代から中世への大転換期において、今様を歌い明かした若き日から、天下を動かす政治の巨頭:大天狗として君臨した晩年に至るまで、その生涯は破天荒かつ強大な意志に満ち溢れていました。
宮内庁によって厳重に管理されている聖域は、現在も静寂の中に包まれており、訪れる者に対して、激動の平家・源氏の時代を生き抜き、朝廷の威厳を守り抜いた大王の深い足跡を静かに語りかけています。
