ようこそ「みささぎめぐり」へ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、歴史の足跡を辿る旅。
今回は、仁徳天皇という偉大な父の影の下で、即位直前に実弟の凄惨な裏切りと難波宮の焼失に見舞われながらも、法と記録の力で朝廷の秩序を立て直そうとした第17代:履中天皇(りちゅうてんのう)の御生涯をご紹介します。
桜の花弁が舞う市磯池のほとりに刻まれた、波乱と哀愁に満ちた足跡を、ともに辿ってみましょう。
履中天皇の人物像・エピソード
履中天皇は、第16代:仁徳天皇の第一皇子として、母は強力な豪族・葛城氏の血を引く磐之姫命(いわのひめのみこと)と間に誕生し、大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)と名付けられました。
ちなみに『古事記』では大江之伊邪本和気命と表記されます。
履中天皇は、身の丈が高く堂々たる体躯を備え、容姿端麗で人望に恵まれていたと伝えられています。
性格は概して温厚であり、風流や酒宴を好む雅な面を持っていましたが、その反面、人に対する警戒心が浅く、身内の甘さから重大な危機を招くという人間的な隙もありました。
皇后をめぐる住吉仲皇子との争いと即位
彼が即位する直前に勃発した住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の乱は、そうした彼の甘さと、古代日本における凄惨な身内同士の権力闘争を象徴する出来事として知られています。
父である仁徳天皇が崩御した後、皇太子であった大兄去来穂別尊は、羽田矢代宿禰の娘である黒媛(くろひめ)を后に迎えようとしました。
イザホワケは、自ら赴く代わりに同母弟である住吉仲皇子を求婚の使者として遣わせました。しかし、住吉仲皇子は黒媛の美しさに目を奪われ、太子の名を偽って黒媛と密通してしまいます。
さらに、自らの悪行が露呈することを恐れた住吉仲皇子は、太子を殺害して自ら帝位を奪おうと企て、暗殺の軍勢を率いて太子の居城である難波高津宮を暗夜に包囲し、火を放ちました。
泥酔したイザホワケを救った平群木菟
このときイザホワケは大酒を飲んで泥酔しており、宮殿が激しい炎に包まれても深く眠り込んでおり、絶体絶命のピンチに….
異変に気づいた側近の平群木菟(へぐりのつく)は、寝入ったままの太子を間一髪で抱き上げ、馬に乗せて命からがら難波宮を脱出させました。
途中で目を覚ました太子は、振り返ると難波の空が真っ赤に染まっているのを目にし、実弟の裏切りと自らの不覚に激しいショックを受けたと伝えられています。
追撃の手から逃れるため、太子一行は龍田山を越えて大和へ逃れ、石上神宮へと身を寄せました。
体制を立て直した太子は、もう一人の同母弟である瑞歯別尊(みずはわけのみこと / 後の第18代・反正天皇)の忠誠を確かめた上で彼を派遣し、住吉仲皇子とその側近たちを討伐させました。
身内同士の生々しい裏切りと鮮血の惨劇を経て、大兄去来穂別尊は第17代:履中天皇として即位することとなりました。
史部の設置と文字行政による国家統治基盤の確立
履中天皇の歴史的功績は、全国の主要地に記録官である史部(ふひとべ)を配置して文字による行政記録体系を本格的に導入したこと、ならびに蔵(官蔵)の体制を再編して王権の財政統制を強化した点にあります。
史部を創設し、文字による行政記録を開始
第一の功績は、日本初とされる組織的な公式記録制度である史部(ふひとべ)の創設です。
履中天皇は、地方の豪族たちの動向や貢納物、朝廷の公事を口伝だけに頼る限界を痛感していました。
そこで、全国の諸国に「史部」と呼ばれる書記官を配置し、国々の出来事や諸豪族の言動、国境の争いなどを逐一記録して朝廷へ報告させる仕組みを構築しました。
この施策は国史(こくし)の始まりと位置づけられており、ヤマト王権が口頭伝承の段階から、文字による記録と法の手続きに基づいた国家統治へと踏み出す決定的な契機となりました。
実務官僚の採用と財政機構の整備
第二の功績は、渡来系技術者や実務官僚の積極的な活用による財政機構の整備であります。
住吉仲皇子の乱において、手綱を取って逃亡を助けた阿智使主(あちのおみ)をはじめとする漢系渡来人集団を重用し、朝廷の財物を管理する蔵の体制を整えさせました。
これにより、地方からの貢納物や土地の収益が正確に管理されるようになり、父・仁徳天皇の代に拡大した王権の財政基盤がより実務的かつ強固に固められました。
身内の乱を受け、武力による鎮圧にとどまらず、制度と記録の整備を通じて朝廷の権威を再構築しようとした履中天皇の施策は、後の律令国家へと続く行政機構の先駆けとして正当に評価されるべき成果であります。
履中天皇治世の時代背景
履中天皇が在位した5世紀前半(400年代初頭)という時期は、巨大な前方後円墳が堺や羽曳野の地に次々と造営された河内王朝の最盛期にあたり、大阪湾を通じた朝鮮半島や中国大陸との外交・貿易が非常に活発な時期でした。
くすぶり始める豪族たちの権力争いの火種
政治的には、父・仁徳天皇の強力なリーダーシップによって王権の支配領域が列島各地へ広がった反面、王権が巨大化しすぎたゆえに、皇位継承を巡る皇子たちの野心や豪族層の思惑が激しく交錯する危険な過渡期でもありました。
鉄器や土木技術の飛躍的向上に伴い、豪族たちの経済力も高まっていたため、朝廷内部の統一を維持することが至急の課題とされていました。
桜の花びらにまつわる風流なエピソード
履中天皇の風流な人となりを象徴するエピソードとして、磐余の市磯池(いちしのいけ)における舟遊びの伝承が存在します。
11月という冬の時期に、天皇が皇后とともに池に舟を浮かべて遊宴を楽しんでいたところ、季節外れの桜の花びらが一片、天皇の乗る酒杯へと舞い落ちてきました。
天皇はその風情に深く感動し、臣下の羽田矢代宿禰に命じて冬に咲く桜の由来を尋ねさせ、この吉兆を記念して自らの宮殿の名を稚桜宮(わかざくらのみや)と改めさせたと言います。
過酷な権力闘争の余波に晒されながらも、自然の美と酒宴を愛した彼の優雅な生活ぶりが窺えるエピソードではないでしょうか
履中天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
履中天皇を取り巻く人間関係は、母方である絶対的豪族・葛城氏からの手厚い支援、裏切りと忠誠に分かれた兄弟たちとの生々しい確執、ならびに朝廷を支えた渡来人や武家豪族によって形作られていました。
母方の大豪族:葛城氏の後ろ盾と兄弟間の関係性
母方の葛城氏は、大和盆地の南西部に強大な地盤を持ち、大王家に多くの妃を送り込んでいた朝廷最高の豪族であり、履中天皇の即位と政権運営を足元から強力に支えました。
同母兄弟との関係においては、劇的な光と影が存在しました。
前述の通り、同母弟の住吉仲皇子は黒媛を巡る騙し討ちと難波宮への放火という凶行に及び、履中天皇にとって最大の敵対勢力となりました。
一方で、もう一人の同母弟である瑞歯別尊(反正天皇)は、住吉仲皇子の刺客であった隼人(刺柴)を寝返らせて討伐を成功させるなど、極めて高い忠誠心と軍事手腕を発揮して履中天皇の盾となりました。
さらに下にあたる同母弟の稚子藻城尊(允恭天皇)も含め、兄弟間の愛憎と権力の分散は、その後の皇位継承に深い尾を引くこととなりました。
平群氏・阿智氏ら側近との協力体制
側近や臣下との関係においては、平群木菟(へぐりのつく)と阿智使主(あちのおみ)との関係が知られています。
平群木菟宿禰は平群氏の祖であり、難波宮の炎上時に泥酔した太子を救い出した生命の恩人であります。
また、阿智使主は東漢氏(やまとのあやうじ)の祖となる渡来人であり、逃亡の際に馬の手綱を引いて太子を護衛し、後に史部の設置や蔵の管理という実務面で履中天皇の構想を具現化させました。
しかし、履中天皇の治世はわずか5年(400年〜405年)で幕を閉じました。
天皇には市辺押磐皇子(いちのべのおしわののみこ)や御馬皇子といった優秀な皇子たちが存在していましたが、天皇の崩御に際して皇子たちが未だ若かったこと、そして激しい政局の動揺を避けるため、皇位は弟の瑞歯別尊(反正天皇)へと継承されました。
この皇位の傍系への移動は、後に履中天皇の第一皇子である市辺押磐皇子が雄略天皇によって謀殺されるという凄惨な血族粛清を引き起こし、さらにはその遺児である億計王・弘計王(仁賢天皇・顕宗天皇)の流亡と、飯豊青皇女による執政という王権断絶の危機へ繋がる遠因となりました。
履中天皇の短い治世と後継不全は、古代皇室の血塗られた歴史の扉を開く伏線ともなったのです。
履中天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 履中天皇(りちゅうてんのう) |
| 本 名 | 大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと) |
| 御 父 | 仁德天皇(にんとくてんのう) |
| 御 母 | 磐之媛(いわのひめ) |
| 御 陵 名 | 百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ) |
| 陵 形 | 前方後円墳 |
| 所 在 地 | 大阪府堺市西区石津ケ丘 |
| 交通機関等 | JR 上野芝駅から徒歩約6分 |
| 御在位期間 | 400年~405年 |
大阪府堺市の百舌鳥古墳群の南端には、日本で3番目の巨大さを誇る全長約365メートルの威風堂々たる前方後円墳・ミサンザイ古墳(百舌鳥耳原南陵)が静かに水を湛えて佇んでいます。
強大な父の影と、実弟からの刃という過酷な骨肉の争いをくぐり抜け、巨大な武力と誇りを胸に河内王朝の最盛期を駆け抜けた剛毅なる大王。
広大な水濠越しに美しい陵丘を眺め、百舌鳥の野を吹き抜ける風に身を委ねるとき、盃に舞い散る桜を愛でた風流な心と、毒蛇の如き権力闘争の狭間で命を燃やした覇王の熱き想いを感じられるかも知れません。














