第28代:宣化天皇 〜二つの朝廷を統合し、激動の筑紫の乱を収めた王

第26-50代

「みささぎめぐり」へようこそ。日本の歴史を築いた歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、第28代:宣化天皇(せんかてんのう)をご紹介します。

歴史の授業でもあまり語られることのない、知る人ぞ知る存在かもしれませんが、彼が担った役割は古代日本の「国体」を維持する上で極めて重要なものでした。

宣化天皇の人物像

宣化天皇の本名は、諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)、または建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)と言います。

父は越前国から迎えられて皇位を継承した第26代:継体天皇であり、母は尾張氏の娘である尾張目子媛です。

兄である第27代・安閑天皇が崩御した際、後継となる御子がなかったため、69歳という当時としては高齢で皇位に就くこととなったと言います。

宣化天皇の人となりを伝える特徴は、聡明さと事態を見極める決断力です。

高齢での即位にもかかわらずリーダーシップを発揮し、対外危機に対して迅速に行動しました。また、歴史学的にはこの時代、安閑・宣化天皇の朝廷と、欽明朝の二つの朝廷が同時に独立して存在していたという「朝廷並立説」が有力視されています。

宣化天皇は、天皇家が二つに分かれていた不安定な政治状況の中に身を置きながらも、軍事的な衝突を回避し、国家の調停者として振る舞いました。

自らの権力欲に溺れることなく大局的な視点から和国の行く末を案じ、次代へ血統を繋ぐための基盤作りに徹した姿からは、理性的で思慮深い人物像が浮かび上がってきます。

 

筑紫の官家整備と兵糧確保の功績

宣化天皇がその短い治世の中で成し遂げた最大の功績は、危機管理能力の発揮による「筑紫の官家(みやけ)整備」と「兵糧の迅速な集積」です。

即位の翌年、朝鮮半島の任那や百済が新羅の侵攻を受け、危機的状況にあるとの報せが届きました。和国にとっても、半島での権益を失うことは国防上の重大な脅威であり、即座の軍事的な備えが必要不可欠でした。

 

兵站の重要性を理解していた?

そこで宣化天皇は、大臣の蘇我稲目らに命じ、国家規模の兵糧確保に乗り出します。

大王は軍事行動を支えるのは何よりも食糧であると見抜き、国内の直轄地(官家)から大量の米を集めさせました。建策された方針に基づき、外交・軍事の最前線となる筑紫の那津(なのつ、現在の福岡県博多周辺)へと一斉に米を輸送させたのでした。

那津の官家は米を保管する大規模な兵糧基地として機能し、半島への支援を円滑に行うための要衝となりました。この那津の官家整備は一時的な食糧集積に留まらず、後の時代に九州の政治・外交・国防の中心的機関となる「大宰府」の源流となったと評価されています。

大王の先見の明と蘇我稲目らとの緊密な協力体制が、対外的な危機に対する防衛線を築くことに成功したのです。

 

宣化天皇統治の時代背景と周辺エピソード

宣化天皇が治めた6世紀前半の和国は、内外で大きな転換期を迎えていました。

国内では豪族たちの勢力図が変化し、前述の通り安閑・宣化天皇の朝廷と、欽明天皇を擁立する勢力による「朝廷並立」という内憂を抱えていた時代です。

国外では、朝鮮半島の任那日本府が新羅の圧迫によって崩壊の危機に瀕しており、百済との同盟関係を維持しながら新羅に対抗するという対外緊張の中にありました。

 

食への信念

このような緊迫した時代背景の中で、大王の思想を反映しているのが、その食に対する強い信念です。

宣化天皇が発した有名な詔には、「食は天下の本である。黄金が万宝であっても、飢えを癒すことはできない。真珠が千箱あっても、寒さを防ぐことはできない」という言葉が遺されています。

これは、大王自身が華美な宝物よりも、民や兵の命を直接支える米という実質的な食べ物を重視していたことを示しています。

 

宣化天皇と関連氏族・敵対勢力宣

宣化天皇の治世を政治的・軍事的に支えたのは、当時の有力豪族である大伴氏や物部氏、そして新たに台頭しつつあった蘇我氏です。

天皇直属の軍事氏族であり、いわば近衛師団のような役割をもっていた大伴氏の大伴金村(おおとものかなむら)は、父の継体天皇を迎え入れた立役者であり、朝廷において強い発言力を持っていたとされています。

また、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)は大連として軍事面を統括し、国内の安定に寄与しました。物部氏はモノノフ=武士の語源となったとも言われる軍事・祭祀の一族で、現代でいう防衛大臣のような役割があったと言います。

蘇我氏台頭の芽生え

そして最も重要な存在が、大臣に就任した蘇我稲目です。蘇我氏は、蔵の管理=現代の感覚で言うと財務大臣のような役割を持っていたとされます。

また、高句麗や百済の渡来人と協力して政治をすすめたことから外務大臣的な役割も兼務していたことも伺えます。宣化天皇は優秀な蘇我稲目を信頼し、筑紫の那津における官家整備という国家的なプロジェクトの総指揮を委ねました。

この強力な布陣があったからこそ、高齢の大王は短期間で確かな政績を挙げることができたのだと思われます。

 

宣化天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 宣化天皇(せんかてんのう)
本   名 檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)
建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)
御   父 繼體天皇(けいたいてんのう)
御   母 尾張目子媛(おわりのめのこひめ)
御 陵 名 身狹桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)
陵   形 前方後円墳
所 在 地 奈良県橿原市鳥屋町
交通機関等 近鉄 橿原神宮西口駅から徒歩約15分
(バス停) 船付山口から徒歩約3分
御在位期間 535年~539年

 

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