ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、平安京を開いた桓武天皇の長子でありながら、病を理由に弟の嵯峨天皇へ譲位したのち、古都・平城京においてもう一つの朝廷を興し、国家を大きく揺るがした第51代:平城天皇(へいぜいてんのう)の御生涯をご紹介します。
奈良の地に漂う権力への執着と悲恋の影、そして律令国家の構造改革に挑んだ帝の複雑で悲運に満ちた足跡を、ともに辿ってみましょう。
平城天皇の人物像・エピソード
平城天皇は、その諱を安殿親王(あてのみこ / あてのしんのう)と言い、桓武天皇の第一皇子として藤原式家出身の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)との間に生まれました。
皇后との第一皇子ということもあり、安殿親王は若くして東宮(皇太子)の座に就きますが、彼の人生は常に巨大なプレッシャーと、自らの肉体を苛む病弱さとの戦いだったといいます。
桓武天皇という、圧倒的なカリスマ性と冷徹な決断力で国家を強引に牽引した父親を持ったことは、繊細な感性を持つ安殿親王にとって、計り知れない精神的負担だったのかも知れません。
日々の政務や将来への不安からか、彼は青年期から原因不明の激しい頭痛や体調不良に悩まされ、それが時として感情の激しい起伏や、精神的な不安定さへと繋がっていったと言われています。
古代史最大のスキャンダル?藤原薬子との恋
彼の人間性と人生の軌跡を語る上で避けて通れない最大の事件が、尚侍・藤原薬子(ふじわらのくすこ)との恋愛関係にあります。
藤原薬子は、安殿親王の妃となった藤原帯子の母であり、親王にとっては義理の母にあたる女性でした。
容姿端麗で野心に満ちた薬子に深く溺れた安殿親王は、東宮でありながら彼女と密通を重ねるという前代未聞のスキャンダルを引き起こしてしまいます。
この不徳の行動に対し、父である桓武天皇は激怒。国家の秩序と皇室の尊厳を乱すものとして、桓武天皇は藤原薬子を東宮御所から完全に追放します。
しかし、安殿親王の薬子に対する執着と愛好は消えることがありませんでした。
806年(延暦25年)に桓武天皇が崩御し、自らが即位すると、周囲の冷ややかな目や反対の声を一切無視し、即座に薬子を宮廷へと呼び戻して最高級の寵愛を与えたのです。
このエピソードからは、病弱で繊細な内面を持ちながらも、己の信じた愛や意志のためには国家の常識すら平然と覆してみせる、平城天皇の極端なまでの情熱家としての人物像がありありと伝わってくるかのようです。
しかし、この愛執の復活こそが、後に国家を激震させる惨劇の伏線となってしまうのでした。
官制の合理化・観察使の設置による地方行政刷新
平城天皇の政治的功績を紐解いていくと、父・桓武天皇の代に肥大化した国家財政と行政機構を根本から見直し、徹底的な緊縮政治と行政の効率化を推進した大同の改革、ならびに地方政治の監視機能を画期的に強化した観察使(かんさつし)の設置が挙げられます。
第一の功績は、地方行政の監察と中央政治の連動を図った観察使の創設であります。
806年(大同元年)、平城天皇は従来の参議の機能を一時的に停止・統合し、畿内および七道(東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)の各大区分に観察使と呼ばれる高官を配置いたしました。
これは、中央の参議級の官人が自ら地方へ赴き、地方官(国司や郡司)の治績や税の徴収状況、民衆の困窮度を直接監察する革新的な制度でした。
地方の不正を公正に処罰するとともに、中央の政策を迅速に現場へ反映させるこの試みは、名実ともに律令行政の弛緩を正す画期的な地方統治改革となりました。
第二の功績は、重複する行政機構の廃止と官人削減による緊縮財政の断行であります。
父・桓武天皇の治世においては、平安京の建設(造作)と東北での対蝦夷戦争(軍事)という二大事業が長年継続し、民衆の負担と国家の財政赤字は限界に達していました。
平城天皇は即位直後から行政の無駄を徹底的に削ぎ落す方針を打ち出しました。
中務省に属していた不要な官司や、時代にそぐわなくなった重複する寮司(尚書監など)を相次いで廃止・統合いたしました。定員オーバーとなっていた官人の削減を断行し、国庫の支出を大幅に圧縮いたしました。
第三の功績は、民生安定のための賑給(しんきゅう)と税制の緩和であります。
平城天皇は地方の困窮する農民に対して公米を分け与える賑給を頻繁に行い、雑用や不当な重税の負担を軽減する不補の措置を講じました。
武力を誇示する拡大路線を捨て、内政の充実と庶民の生活安定を第一とする実理的な執政を貫いた点において、平城天皇の行政手腕は極めて優れたものでありました。
平城天皇治世の時代背景・周辺エピソード
平城天皇が即位した9世紀初頭は、新都・平安京が造営されてからまだ10年余りしか経っておらず、国家の仕組みも人々の心も、新しい環境になじみきれず浮足立っていた時代でした。
巨大な建造物が立ち並ぶ平安京での暮らしは、一見華やかではありましたが、財政難からくる社会的な不安や、度重なる天候不順による飢饉、そして奇妙な疫病の流行などが重なり、宮廷内には常に不穏な空気が漂っていました。
このような張り詰めた時代背景のなかで、平城天皇が唯一、心穏やかに己を表現できたのが「和歌」の世界でした。彼はきわめて優れた詩的感性の持ち主であり、万葉集の素朴で力強い時代から、のちの古今和歌集に代表される洗練された王朝文化へと移り変わる過渡期において、重要な役割を果たした歌人でもあります。
彼の詠む和歌は、自らの病弱な体調を映し出したかのような繊細な美しさと、秘めたる情熱が同居しており、後世の勅撰和歌集にも数多く採録されています。
特に、引き裂かれた薬子への止まらない想いや、美しい大和の四季の情景を重ね合わせた歌の数々は、今読んでも胸を打つ抒情性に満ちています。
また、平城天皇にまつわる最大の周辺エピソードであり、彼の人生の拠り所となったのが、古都・奈良(平城京)への深い愛着と郷愁です。
新都・平安京で暮らす多くの貴族たちが新しい流行に飛びつくなかで、平城天皇は自分が生まれ育ち、天平文化の華麗な仏教文化が息づいていた奈良の静謐な佇まいを、誰よりも愛していました。
彼は即位からわずか3年後、激しい体調不良を理由に、弟の嵯峨天皇に皇位を譲って退位してしまいますが、平城上皇となった彼が静養の地として選んだのは、平安京ではなく、かつての旧都である奈良の地でした。
彼が奈良へ移り住んだことで、人々は彼のことを敬意と親しみを込めて「平城(なら)の帝」と呼ぶようになります。
現在、広大な敷地が復元され、当時の面影を今に伝える奈良の「平城宮跡」や、その周辺に広がる佐紀の地こそが、平城天皇にとって最も心が安らぎ、そして自らのプライドを取り戻せる魂の故郷だったのです。
平城天皇と関連氏族・敵対勢力
平城天皇の後半生の運命を決定づけたのは、皇位を譲った最愛の弟・嵯峨天皇との予期せぬ対立と、朝廷の権力を巡る豪族たちの熾烈な暗闘でした。
平城上皇と嵯峨天皇、藤原式家と藤原北家
平城上皇が住まう平城京(奈良)と、現大王である嵯峨天皇が政務を執る平安京(京都)という、二つの都に二人の最高権力者が並び立つ異常事態は、やがて国家を揺るがす政治的決裂を生み出すことになります。
この対立に火をつけたのが、上皇の後ろ盾となって権力の絶対的復活を狙った、藤原薬子とその兄である藤原仲成ら藤原式家(しきけ)の勢力です。
薬子たちは上皇の体調が回復したことを見計らい、平安京を廃止して平城京へと再び遷都するという、驚くべき大計画を上皇に進言しました。
生まれ故郷への強い愛着を持っていた平城上皇もこの提案に強く賛同し、平城京遷都の詔を放ちます。しかし、この動きに強い危機感を抱いたのが、平安京にいる嵯峨天皇と、その側近として急速に台頭していた藤原冬嗣ら藤原北家(ほっけ)の勢力でした。
ここに、天皇家を二分する兄弟の決裂と、藤原氏の主導権をかけた式家と北家の全面戦争の火蓋が切って落とされたのです。これが、810年に勃発した薬子の変(平城上皇の変)だったのでした。
嵯峨天皇側の対応はきわめて迅速でした。冬嗣らの献策により、嵯峨天皇は平城京に繋がる関所を瞬時に封鎖し、さらにかつての征夷大将軍であり、応神天皇の治世の忠臣・武内宿禰を思わせるような圧倒的な軍事能力を持つ猛将・坂上田村麻呂を東国へと派遣しました。
平城上皇は薬子と共に自ら神輿に乗って東国へ赴き、兵を集めて対抗しようと試みましたが、田村麻呂らの完璧な兵力展開によって完全に退路を断たれ、もはやこれまでと悟ることになります。
最愛の弟と血を流して戦うことの愚かさと、自らの計画の挫折を悟った平城上皇は、その場で進軍を断念して大和へと引き返し、髪を剃って出家する道を選びました。
この決断により、激しい内戦の一歩手前で事態は終結し、後ろ盾を失った藤原仲成は射殺され、薬子は毒を飲んで自ら命を絶ちました。
この悲劇的な政変によって、平城天皇を支えた藤原式家は完全に没落し、代わって嵯峨天皇を支えた藤原北家が、のちの摂関政治へと繋がる圧倒的な栄華を極めていく契機となったのです。
出家後の平城上皇は、政治の表舞台から完全に身を惹き、奈良の地で和歌を詠みながら、824年に崩御するまで穏やかで静かな余生を過ごしたとされています。
平城京と楊梅陵(市庭古墳)の謎
平城天皇陵に治定される市庭古墳(楊梅陵)は、もともと前方後円墳ですが、前方部が平城京の建築の際に掘削され現在は後円部分のみが残っています。
…そうなんです。
勘の良い方は気づかれたと思いますが、平安時代初期を生きた(在位期間:806年 〜 809)平城天皇の御陵が平城京(710年に遷都)の建設の際に掘削されるのは時代的につじつまが合わないのです。
これには2つの説があり、
- 宮内庁の治定が誤っている
- 奈良を愛した平城天皇をもとあった古墳に追葬された
というものがあるそうです。現在の御陵の多くは江戸時代末期に治定されたもので、現代科学や各氏族が伝える伝承に則ると、高確率で治定が誤りと思われるケースもままあるのが実情です。
治定と真の陵墓が異なると推定される天皇陵
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都市の再開発か、古墳の保護か?
ちなみに…実は平城京の太極殿があった場所も、別の古墳(神明野古墳)があったとされています。しかし神明野古墳は、平城京の造営時に墳丘が完全に削平された”消滅古墳”となってしまいました。
現代でも再開発に伴って古墳が破壊されてしまうケースがあるのですが、似たような事情で奈良時代からすでに古墳が破壊されてし待っていたのかも知れません。
一方で、「古墳を保護すべき」という動きもありました。
『続日本紀』では宝亀十一年(780)に光仁天皇(平城天皇の祖父にあたる)が、
「寺を作るときに古墳を壊し、その石材を用いていると聞くが、それは単に死者の魂を驚かせるだけではなく、子孫をも憂えさせることになるので、今後禁止せよ」
と命じています。
奈良時代末期の当時、おそらく仏教全盛の時代だったと推察されますが、この光仁天皇の発令こそが古墳の保護をうたった日本最古の事例だとも言われています。
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平城天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 平城天皇(へいぜいてんのう) |
| 本 名 | 安殿親王(あてのみこ / あてのしんのう) |
| 御 父 | 桓武天皇(かんむてんのう) |
| 御 母 | 藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ) |
| 御 陵 名 | 楊梅陵(やまもものみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 奈良県奈良市佐紀町 |
| 交通機関等 | (バス停)平城宮跡・遺構展示館から徒歩約5分 または「大和西大寺駅」下車、北東へ徒歩約20分。 |
| 御在位期間 | 806年~809年 |
古都・奈良の穏やかな風が渡る佐紀の地に、平城天皇が静かに眠る楊梅陵はひっそりと佇んでいます。
すぐ近くには太古の佐紀盾列古墳群の巨大な墳丘が連なり、かつて都として栄えた平城宮跡の広大な空を望んでいます。
父・桓武の影を追い、愛する薬子とともに旧都の栄華を取り戻そうと苦闘しながらも、時代の激流と弟・嵯峨天皇の迅速な政略の前に敗れ去った平城天皇。










