第51代:平城天皇 〜情熱と病に翻弄され、古都・奈良に殉じた「平城(なら)の帝」

第51-75代

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、激動の平安初期において、偉大すぎる父・桓武天皇の巨大な影と、自らを苛む病、そして愛する存在との熱い絆のなかで、あまりにも壮絶なドラマを生き抜いた第51代:平城天皇(へいぜいてんのう)の御足跡へと迫ります。

平城天皇の人物像:愛に溺れた情熱の貴公子?

平城天皇は、その諱を「安殿親王(あてのみこ / あてのしんのう)」と言います。

「鳴くよ(794年)ウグイス平安京」で有名な、平安京への遷都を成し遂げた桓武天皇の第一皇子として生まれました。

若くして東宮(皇太子)の座に就きましたが、彼の人生は常に巨大なプレッシャーと、自らの肉体を苛む病弱さとの戦いだったといいます。

桓武天皇という、圧倒的なカリスマ性と冷徹な決断力で国家を強引に牽引した父親を持ったことは、繊細な感性を持つ安殿親王にとって、計り知れない精神的負担だったのかも知れません。

日々の政務や将来への不安からか、彼は青年期から原因不明の激しい頭痛や体調不良に悩まされ、それが時として感情の激しい起伏や、精神的な不安定さへと繋がっていったと言われています。

そんな彼の、苛烈なまでの情熱と執念を最もよく表しているのが、古代史最大のスキャンダルとも称される「藤原薬子(ふじわらのくすこ)」との許されざる恋です。

薬子は元々、安殿親王の正妃となった女性の母親であり、親王から見れば「義理の母(叔母)」にあたる人物でした。しかし、宮中の世話役として親王の身近に仕えるようになった薬子と安殿親王は、またたく間に激しい恋に落ちてしまいます。この倫理を越えた熱愛はすぐさま父・桓武天皇の知るところとなり、激怒した桓武天皇によって薬子は宮中から徹底的に追放されてしまいました。

しかし、安殿親王の薬子への想いは、年月が経っても、父親の威光をもってしても、決して消え去ることはありませんでした。

桓武天皇が崩御し、平城天皇として自らが即位を果たすと、彼は周囲の冷ややかな目や反対の声を一切無視し、即座に薬子を宮廷へと呼び戻して最高級の寵愛を与えたのです。

このエピソードからは、病弱で繊細な内面を持ちながらも、己の信じた愛や意志のためには国家の常識すら平然と覆してみせる、平城天皇の極端なまでの情熱家としての人物像がありありと伝わってきます。

官制の合理化・観察使の設置による地方行政刷新

平城天皇の政治的功績を振り返るとき、多くの人が抱く「病弱で引きこもりがち」というイメージは、良い意味で完全に裏切られることになります。

父である桓武天皇の治世は、平安京の造営や度重なる蝦夷(えみし)への征伐など、国家の威信をかけた巨大プロジェクトが並行して進められたため、華やかな見た目とは裏腹に、国家の財政は完全に火の車となっていました。

即位した平城天皇は、この逼迫した状況を救うため、驚くべき冷徹さと合理主義をもって、徹底的な緊縮財政と官僚制の縮小改革に自ら取り組んだのです。

まず彼が着手したのが、肥大化しすぎていた朝廷の官職や役人組織の大胆な整理・統合でした。

不要な部署を廃止し、定員を厳格に削減することで、人件費をはじめとする宮廷の無駄な支出を徹底的に削ぎ落としました。さらに、平城天皇が成し遂げた最大の地方政治改革が「観察使(かんさつし)」の設置です。それまでは地方官の不正をのちに審査する勘解由使(かげゆし)という職がありましたが、平城天皇はこれをさらに発展させ、中央の高官を直接各地方へと派遣して、リアルタイムで地方行政を監視・刷新する強力なシステムを作り上げました。

この観察使の導入により、地方の過酷な現状や利害関係がダイレクトに朝廷へ報告されるようになり、重税に苦しむ民衆の負担を一時的に軽減させることに成功したのです。

また、自らの治世の元号を冠した「大同格式(だいどうきゃくしき)」などの法整備にも着手し、緊密で機能的な官僚国家としての基礎を固めました。

のちに大政奉還や明治維新に至るまで日本の公的な枠組みとして機能し続ける平安朝の洗練された律令体制の土台は、実はこの平城天皇による、執念とも言える徹底した合理化改革によって形作られたものだったのです。

#3.時代背景と周辺エピソード

平城天皇が即位した9世紀初頭は、新都・平安京が造営されてからまだ10年余りしか経っておらず、国家の仕組みも人々の心も、新しい環境になじみきれず浮足立っていた時代でした。

巨大な建造物が立ち並ぶ平安京での暮らしは、一見華やかではありましたが、財政難からくる社会的な不安や、度重なる天候不順による飢饉、そして奇妙な疫病の流行などが重なり、宮廷内には常に不穏な空気が漂っていました。

このような張り詰めた時代背景のなかで、平城天皇が唯一、心穏やかに己を表現できたのが「和歌」の世界でした。彼はきわめて優れた詩的感性の持ち主であり、万葉集の素朴で力強い時代から、のちの古今和歌集に代表される洗練された王朝文化へと移り変わる過渡期において、重要な役割を果たした歌人でもあります。

彼の詠む和歌は、自らの病弱な体調を映し出したかのような繊細な美しさと、秘めたる情熱が同居しており、後世の勅撰和歌集にも数多く採録されています。

特に、引き裂かれた薬子への止まらない想いや、美しい大和の四季の情景を重ね合わせた歌の数々は、今読んでも胸を打つ抒情性に満ちています。

平城天皇陵からは、平城京の大極殿がすぐそばに見えます。

また、平城天皇にまつわる最大の周辺エピソードであり、彼の人生の拠り所となったのが、古都・奈良(平城京)への深い愛着と郷愁です。

新都・平安京で暮らす多くの貴族たちが新しい流行に飛びつくなかで、平城天皇は自分が生まれ育ち、天平文化の華麗な仏教文化が息づいていた奈良の静謐な佇まいを、誰よりも愛していました。

彼は即位からわずか3年後、激しい体調不良を理由に、弟の嵯峨天皇に皇位を譲って退位してしまいますが、平城上皇となった彼が静養の地として選んだのは、平安京ではなく、かつての旧都である奈良の地でした。

彼が奈良へ移り住んだことで、人々は彼のことを敬意と親しみを込めて「平城(なら)の帝」と呼ぶようになります。

現在、広大な敷地が復元され、当時の面影を今に伝える奈良の「平城宮跡」や、その周辺に広がる佐紀の地こそが、平城天皇にとって最も心が安らぎ、そして自らのプライドを取り戻せる魂の故郷だったのです。

 

平城天皇と関連氏族・敵対勢力

平城天皇の後半生の運命を決定づけたのは、皇位を譲った最愛の弟・嵯峨天皇との予期せぬ対立と、朝廷の権力を巡る豪族たちの熾烈な暗闘でした。

平城上皇が住まう「平城京(奈良)」と、現大王である嵯峨天皇が政務を執る「平安京(京都)」という、二つの都に二人の最高権力者が並び立つ異常事態は、やがて国家を揺るがす「二代の朝廷」という深刻な政治的決裂を生み出すことになります。

この対立に火をつけたのが、上皇の後ろ盾となって権力の絶対的復活を狙った、藤原薬子とその兄である藤原仲成ら「藤原式家(しきけ)」の勢力です。

薬子たちは上皇の体調が回復したことを見計らい、平安京を廃止して平城京へと再び遷都するという、驚くべき大計画を上皇に進言しました。

生まれ故郷への強い愛着を持っていた平城上皇もこの提案に強く賛同し、平城京遷都の詔を放ちます。しかし、この動きに強い危機感を抱いたのが、平安京にいる嵯峨天皇と、その側近として急速に台頭していた藤原冬嗣ら「藤原北家(ほっけ)」の勢力でした。

ここに、天皇家を二分する兄弟の決裂と、藤原氏の主導権をかけた式家と北家の全面戦争の火蓋が切って落とされたのです。これが、810年に勃発した「薬子の変(平城上皇の変)」です。

 

嵯峨天皇側の対応はきわめて迅速でした。冬嗣らの献策により、嵯峨天皇は平城京に繋がる関所を瞬時に封鎖し、さらにかつての征夷大将軍であり、応神天皇の治世の忠臣・武内宿禰を思わせるような圧倒的な軍事能力を持つ猛将・坂上田村麻呂を東国へと派遣しました。

平城上皇は薬子と共に自ら神輿に乗って東国へ赴き、兵を集めて対抗しようと試みましたが、田村麻呂らの完璧な兵力展開によって完全に退路を断たれ、もはやこれまでと悟ることになります。

最愛の弟と血を流して戦うことの愚かさと、自らの計画の挫折を悟った平城上皇は、その場で進軍を断念して大和へと引き返し、髪を剃って出家する道を選びました。

この決断により、激しい内戦の一歩手前で事態は終結し、後ろ盾を失った藤原仲成は射殺され、薬子は毒を飲んで自ら命を絶ちました。

この悲劇的な政変によって、平城天皇を支えた藤原式家は完全に没落し、代わって嵯峨天皇を支えた藤原北家が、のちの摂関政治へと繋がる圧倒的な栄華を極めていく契機となったのです。

出家後の平城上皇は、政治の表舞台から完全に身を惹き、奈良の地で和歌を詠みながら、824年に崩御するまで穏やかで静かな余生を過ごしたとされています。

 

平城京と楊梅陵(市庭古墳)の謎

平城天皇陵に治定される市庭古墳(楊梅陵)は、もともと前方後円墳ですが、前方部が平城京の建築の際に掘削され現在は後円部分のみが残っています。

…そうなんです。

勘の良い方は気づかれたと思いますが、平安時代初期を生きた(在位期間:806年 〜 809)平城天皇の御陵が平城京(710年に遷都)の建設の際に掘削されるのは時代的につじつまが合わないのです。

これには2つの説があり、

  • 宮内庁の治定が誤っている
  • 奈良を愛した平城天皇をもとあった古墳に追葬された

というものがあるそうです。現在の御陵の多くは江戸時代末期に治定されたもので、現代科学や各氏族が伝える伝承に則ると誤りであるケースもままあるのが実情だと思います。

再開発か、古墳の保護か?

ちなみに…実は平城京の太極殿があった場所も、別の古墳(神明野古墳)があったとされており、神明野古墳は、平城京の造営時に墳丘が完全に削平された「消滅古墳」となりました。

現代でも再開発に伴って古墳が破壊されるケースもままあるのですが、奈良時代からすでに古墳が破壊されてしまうこともあったようです。

もちろんですが「古墳を保護すべき」という動きもありました。

『続日本紀』では宝亀十一年(780)に光仁天皇(平城天皇の祖父にあたる)が、

「寺を作るときに古墳を壊し、その石材を用いていると聞くが、それは単に死者の魂を驚かせるだけではなく、子孫をも憂えさせることになるので、今後禁止せよ」

と命じています。当時は仏教全盛の時代だったとは思いますが、光仁天皇の発令こそが古墳の保護をうたった日本最古の事例だとも言われています。

 

平城天皇陵の基本情報

第五十一代・平城天皇に関する、御血統や歴史的な足跡をお辿りいただくための基本情報を以下の通りご紹介いたします。

天皇名:第五十一代 平城天皇(へいぜいてんのう)

御父:第五十代 桓武天皇

御母:皇后 藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)

御陵名:楊梅陵(やまもものみささぎ)

陵形:円墳

所在地:奈良県奈良市佐紀町

交通機関等:近畿日本鉄道(近鉄)奈良線・京都線・橿原線「大和西大寺駅」下車、北東へ徒歩約20分。または、同駅から奈良交通バスを利用し、「佐紀町」近辺のバス停から徒歩。静かな住宅街と水田のなかに、古都に殉じた帝の御霊が今もひっそりと眠っています。

御在位期間(西暦):806年 〜 809年(※譲位ののち、824年まで平城上皇として奈良の地で過ごされました)

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