第4代(北朝):後光厳天皇 〜三種の神器なき即位、京都を逃れ続けた悲運の帝

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、南北朝の動乱が最も激しかった時期、兄たちが敵方に拉致されるという未曾有の緊急事態の中で、北朝の火を絶やさぬために担ぎ出された第4代・後光厳(ごこうごん)天皇をご紹介します。

1. 人物像・エピソード

後光厳天皇は、諱(いみな)を弥仁(いやひと)といいます。北朝初代・光厳天皇の第二皇子として誕生しました。

彼を一言で表すなら、「神器なき、不屈のピンチヒッター」です。

1352年、南朝軍が京都を占領し、父・光厳や兄・崇光ら「北朝のトップ層」を全員拉致するという事件が起きました。北朝は消滅の危機に陥りますが、足利尊氏はすぐさま当時15歳だった彼を擁立します。

しかし、本物の「三種の神器」は南朝側に持ち去られていました。彼は「神器なし」という、天皇としては極めて異例かつ不安定な状態で即位式を強行せざるを得ませんでした。そのため、生涯を通じて「自らの正統性」というプレッセンスに晒され、何度も京都を追われては近江(滋賀県)へ避難するという、落ち着かない日々を過ごしました。

2. 功績:北朝の存続と室町幕府との「運命共同体」

後光厳天皇の最大の功績は、「北朝という枠組みを消滅させず、室町幕府の正統性を支え続けたこと」にあります。

北朝の維持:

兄たちが不在の間、北朝の旗印として立ち続けました。彼がいなければ、足利幕府は「朝敵」として滅んでいた可能性もあり、彼こそが室町時代の継続を可能にしたキーマンでした。

幕府との強力な連携:

足利尊氏・義詮(よしあきら)親子と深く協力し、幕府から全面的な軍事支援を受ける代わりに、幕府に政治的な権威を与えるという「持ちつ持たれつ」の関係を完成させました。

3. 時代背景と周辺エピソード

後光厳天皇の治世は、まさに「逃亡と帰還」の繰り返しでした。

「流浪の御所」

南朝軍の攻撃により、彼は在位中に何度も京都を脱出しています。比叡山や近江の武佐(むさ)など、仮の御所を転々とする姿は、権力者というよりは「戦火の中を生き抜く一人の青年」のようでもありました。

兄・崇光との確執

後に拉致されていた兄・崇光上皇が京都に戻ってくると、兄弟の間で「どちらの系統が正統か」という深刻な対立が起こります。後光厳天皇は、自らの息子(後円融天皇)に皇位を継がせることに成功しましたが、この時の兄弟喧嘩が、後の皇室に長く影を落とすことになります。

4. 関連氏族・敵対勢力との関係性

光厳天皇(父): 拉致された先から、息子・後光厳の即位を(渋々ながらも)認める院宣を送りました。

崇光天皇(兄): 皇位をめぐる最大のライバルとなってしまった実の兄。

足利尊氏・義詮: 彼の最大のパトロンであり、文字通り「命を守ってくれる」守護者でした。

楠木正儀(南朝): 度々京都に攻め込み、彼を敗走させた南朝側の武将。

5. 基本情報

項目内容天皇名北朝第4代 後光厳天皇(ごこうごんてんのう)御父北朝第1代 光厳天皇御母三条秀子(陽禄門院)御陵名深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)陵形円丘所在地京都府京都市伏見区深草坊町交通機関等京阪本線「墨染駅」下車 徒歩約15分御在位期間1352年〜1371年(北朝として)後光厳天皇が眠る深草北陵は、歴代の持明院統の天皇たちが共に祀られている聖地です。

神器もなく、常に逃げ回るような人生でしたが、彼が「北朝の灯」を消さなかったからこそ、後の足利義満による南北朝合一へと道が繋がりました。

今回の「みささぎめぐり」、最もストレスフルな状況で即位した天皇の物語はいかがでしたか?

もしあなたが当時の足利尊氏だとしたら、神器がない状態でも、迷わず彼を天皇として立てたと思いますか?

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