ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、南北朝の動乱という激動の時代において、父・後醍醐天皇の遺志を固く受け継ぎ、吉野や河内、和泉の地を転々としながらも南朝の灯火を護り抜いた第97代:後村上天皇(ごむらかみてんのう)の御生涯をご紹介します。
戦火の中で幼少期を送り、即位後も絶え間ない試練に直面しながら、最後まで皇統の正統性を諦めなかった帝の、切なくも気高い足跡を辿ってみましょう。
後村上天皇の人物像・エピソード
後村上天皇は、初め義良(のりよし/のりなが)と名付けられ、即位後に憲良(読み同じ)に改めたとされます。
父は、鎌倉幕府を倒して建武の新政を開いた、中世日本屈指のカリスマ天皇:後醍醐天皇であり、母は後醍醐天皇から深い寵愛を受けたと伝わる阿野廉子(藤原廉子、新待賢門院)です。
義良親王の幼年期は、父が推し進めた建武政権の混乱と崩壊、そして足利尊氏の挙兵という国家規模の激動とともに始まりました。
わずか6歳で関東-東北を統治する陸奥将軍府の主柱へ
1333年(元弘3年/正慶2年)、なんとわずか6歳という若さで東北地方を統轄する陸奥将軍府の主柱として擁立されます。
若き秀才である北畠顕家とともに陸奥国多賀城へと下向し、東北地方(陸奥・出羽の2国)および北関東(下野・上野・常陸の3国)を管轄する統治機構である陸奥将軍府にて、幼少でありながら東国の武士団を束ねる象徴とされたのでした。
しかし、やがて足利軍の襲来によって陸奥を追われ、霊山城での籠城や太平洋上の海路による決死の脱出など、死と隣り合わせの試練を経験することになります。
そして1339年(延元4年/暦応2年)、父である後醍醐天皇が吉野の山中において病に倒れ、死の間際に激しい執念とともに譲位したことで、わずか12歳で第97代天皇として即位するのでした。
穏やかで寛容、品格を備えるとされた後村上帝
父・後醍醐天皇が苛烈で直接的な親政を志向し、周囲との衝突を恐れなかった性格であったのに対し、後村上天皇の人となりは誠に穏やかで寛容であり、周囲の意見を聴く品格を備えていたと伝えられています。
しかし、その穏やかな人柄の裏には、南朝の皇帝としての高い使命感と固い意志が秘められていました。
南朝の厳しい経済的困窮や敗戦の重圧の中でも取り乱すことなく、軍勢の指揮や家臣への恩賞授与を粛々と執り行いました。
また、戦乱の最中にあっても学問や歌道、管弦の嗜みを忘れず、高い文化的教養を保ち続けました。素朴な人間性と、帝としての断固たる誇りを同居させた人物でありました。
吉野朝廷の維持、正平の一統における正統性主張
後村上天皇の功績は、室町幕府の強大な武力に圧迫される中で30年間の長きにわたり吉野朝廷の組織と理念を維持し続けたこと、そして正平の一統を通じて一時的であれど南朝による皇統の一元化と三種の神器の回収を成し遂げた点にあります。
楠木一族・懐良親王の協力を得て吉野朝廷の維持
父・後醍醐天皇の崩御後、南朝は軍事的・経済的に極めて厳しい窮地に立たされていました。
1348年(正平3年/貞和4年)の四條畷の戦いでは、南朝の主力であった楠木正行(楠木正成の長男)が足利軍の高師直に敗れて討死し、吉野の行宮も焼き払われるという壊滅的打撃を受けます。
後村上天皇は賀名生へと逃れざるを得なくなりましたが、南朝の思想的支柱であった北畠親房や、楠木正行の弟である楠木正儀らを深く頼り、崩壊寸前であった南朝の再組織化を強力に推進しました。
さらに、同母弟の懐良親王を征西将軍として九州へ派遣し、九州地方における南朝勢力の拡大を成功させるという遠略を示しました。
正平の一統:一時的なものに終わった南北朝統一
最大の政治的転機となったのが、1351年から1352年(正平6年〜7年/観応2年〜文和元年)にかけて発生した正平の一統です。
室町幕府内部で足利尊氏と弟の足利直義が対立した観応の擾乱により窮地に陥った尊氏が、南朝へ一時的な降伏と講和を申し入れてきたのでした。
後村上天皇はこの機会を捉え、北朝の元号を廃止させ、北朝の光厳・光明・崇光の3上皇および皇太子の直仁親王の身柄を拘束して南朝の拠点へ幽閉します。
そしてさらに北朝側が保持していた三種の神器を回収し、南朝主導による南北朝の統一を一時的に成立させたのでした。
その後、南朝軍は京都を一時的に奪還・占領することに成功しますが、足利側の反撃を受けて京都の維持は叶わず、再び撤退を余儀なくされました。
北朝側の上皇らを長期間にわたって幽閉し続けた強硬な姿勢は、北朝側や京都の公家社会から大きな反発を招く結果ともなりましたが、南朝が単なる地方の反乱勢力ではなく、正統な皇権を保持する朝廷であることを天下に知らしめことになったのでした。
後村上天皇治世の時代背景
後村上天皇が在位した1339年から1368年は、足利尊氏が創設した室町幕府が武家政権としての基盤を固めようとする一方で、幕府内部の派閥抗争や全国的な武士団の離合集散が繰り返された、南北朝動乱の真っ只中にありました。
政治的には、京都の北朝と吉野の南朝という二つの朝廷が存在しており、日本全国の武士がそれぞれの利害関係に基づいて陣営を移り変える混迷の時代でもありました。
しかし、このような緊迫した情勢下にあっても、後村上天皇は、学問や和歌の詠作、管弦の演奏など文化的部分にもしっかりと向けられていました。
後村上天皇は自ら和歌を多く詠み、その御製は後に作られた南朝方の勅撰和歌集『新葉和歌集』に数多く収められています。極限の苦難の中にありながらも、宮中伝統の風雅を重んじ、精神の矜持を保ち続けたとも言えます。
後村上天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
後村上天皇を取り巻く人間関係は、父から受け継いだ強い血縁、宮中と軍事を支えた側近や武士団、そして時代とともに揺れ動いた忠義と敵対の構造によって形成されていました。
大覚寺統(南朝)の関係性
皇室内部における最大の存在は、父である後醍醐天皇だと言えるでしょう。父の遺志である京都奪還と南朝による天下統一は、後村上天皇の生涯を縛る最大の宿命となりました。
母である阿野廉子(藤原廉子、新待賢門院)は、後醍醐天皇の寵姫として南朝の宮中で大きな影響力を持っていましたが、自らの実子である後村上天皇(義良親王)の権威を高めようとするあまり、護良親王などの異母兄弟との間に微妙な不協和音を生じさせる要因ともなっていました。
【関連記事】護良親王 〜鎌倉幕府打倒の火種を掲げ、武家社会に抗った後醍醐帝の皇子
兄弟関係においては、九州に赴いて南朝勢力を一時に築き上げた弟の懐良親王や、東国で奔走した宗良親王らが、各地で後村上天皇の政権を支えました。
南朝を支えた公卿の北畠、武家の楠木一族
南朝の政治・軍事を支えた最大の側近が公卿の北畠親房です。
親房は名著『神皇正統記』を執筆して南朝の正統性を理論化し、後村上天皇の即位から崩御に至るまで政権の最高指導者として補佐しました。
北畠親房の存在があったからこそ、数々の敗戦の中でも南朝は組織としての統一感を保つことができました。また、北畠顕家、北畠顕信、北畠顕能ら北畠一族が軍事面で全力を尽くしました。
武士団においては、楠木氏一族との関係が極めて重要な位置を占めていました。四條畷の合戦で楠木正行が討たれると、正行の弟である楠木正儀が南朝軍の最高指揮官として後村上天皇を手厚く守ります。
正儀は優れた軍略家であると同時に、戦乱の長期化による疲弊を懸念して和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当するなど、室町幕府との現実的な和平を模索したため、主戦論を主張する南朝内部の過激派公家たちと対立することもありました。
室町幕府、後ろ盾である北朝勢力(持明院統)との対率
後村上天皇に敵対した勢力としては、室町幕府を開いた足利尊氏・直義の兄弟、そして第2代将軍の足利義詮、さらに北朝の光厳天皇・光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇が挙げられます。
足利尊氏は南朝の武力を警戒しつつも、政治的打撃を与えるために正平の一統などの外交交渉を巧みに利用しました。
後村上天皇は、これらの敵対勢力からの政治的・軍事的な圧力に晒され続けたものの、自らの正統性を決して売ることなく、南朝の自尊心を死守し続けました。
後村上天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 後村上天皇(ごむらかみてんのう |
| 本 名 | 義良(のりよし/のりなが) ※即位後に憲良(読み方は同じ) |
| 御 父 | 後醍醐天皇(ごだいごてんのう) |
| 御 母 | 新待賢門院 藤原廉子(ふじわらのれんし) ※阿野廉子 |
| 御 陵 名 | 檜尾陵(ひのおのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 大阪府河内長野市寺元 観心寺内 |
| 交通機関等 | (バス停)観心寺から徒歩約4分 |
| 御在位期間 | 1339年~1368年 |
1368年(正平23年/応安1年)3月29日、後村上天皇は住吉行宮において、41歳で崩御されました。
父・後醍醐天皇の遺志を背負い、吉野や河内、和泉の行宮を転々としながら、約30年にわたって南北朝の動乱を駆け抜けた後村上天皇。
後村上天皇が静かに眠る檜尾陵は、観心寺の境内の緑豊かな樹木と神聖な静寂の中に包まれています。
円丘の御陵は、現在も苔むす静謐な空気の中に佇んでおり、訪れる人々に対して、時代の荒波の中で皇統の誇りを守り抜いた帝の気高き足跡を静かに語り続けているかのようです。
















