第4代(北朝):後光厳天皇 〜三種の神器なき即位、京都を逃れ続けた悲運の帝

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、南北朝の動乱が最高潮に達した14世紀半ば、京都から天皇も三種の神器も消え去るという前代未聞の危機の中で即位し、北朝の存続と王朝文化の維持に生涯を捧げた北朝第4代:後光厳天皇(ごこうごんてんのう)の御生涯をご紹介します。

幾度もの避難生活や兄との葛藤に晒されながらも、凛とした気品をもって時代の波乱と向き合った帝の足跡を、ともに辿ってみましょう。

後光厳天皇の人物像・エピソード

北朝第4代天皇である後光厳(ごこうごん)天皇の本名は、弥仁(いやひと)と名付けられました。1338年(延元3年/建武5年)3月23日、北朝第1代・光厳天皇の第二皇子として誕生しました。母は内大臣・正親町三条公秀の娘である三条秀子(陽禄門院)です。同母の兄には北朝第3代・崇光天皇がいます。

弥仁親王が幼少期を過ごした時期は、北朝と南朝が全国の武士団を巻き込んで対立する南北朝時代の只中にありました。当初、弥仁親王は皇位継承の表舞台に立つ予定はなく、兄の崇光天皇が持明院統(北朝)の正統な帝として即位していました。

しかし、1352年(観応3年/正平7年)、室町幕府内部の抗争である「観応の擾乱」に伴い、足利尊氏が南朝と一時的に講和する「正平の一統」が成立したことで事態は一変しました。講和の隙を突いて京都へ侵入した南朝軍により、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、そして皇太子の直仁親王が捕らえられ、大和国の賀名生へと連行されました。

この前代未聞の事件により、京都の朝廷からは天皇、上皇、皇太子のすべてが不在となり、さらに三種の神器までもが南朝軍によって持ち去られました。北朝の存続が完全に途絶える危機に直面した室町幕府の足利尊氏は、京都に残されていた15歳の弥仁親王を新天皇として擁立することを画策しました。

当初、弥仁親王自身も祖母の広義門院(西園寺寧子)も、三種の神器が存在しないことや、異例の即位手続きに対する懸念から固辞し続けました。しかし、朝廷の血脈と北朝体制を絶やすわけにはいかないという政治的判断と幕府からの度重なる懇請を受け入れ、広義門院の太天后宮宣旨という変例の措置を経て、三種の神器がない状態のまま1352年(観応3年)に即位しました。

後光厳天皇の人となりは、極めて誠実で温厚、かつ自己の役割を粛々と果たす忍耐強さを備えていたと伝えられています。本来ならば背負うはずのなかった重責を若くして課され、治世の多くを戦乱と都落ちの中で過ごすこととなりましたが、取り乱すことなく宮中儀礼の護持と学問に精進しました。

北朝体制の防衛と『新千載和歌集』の編纂ならびに書法の大成

後光厳天皇が自らの治世において主導し、達成した最大の歴史的功績は、三種の神器を欠くという異例の事態から北朝の朝廷組織と有職故実を死守したこと、正統な勅撰和歌集の編纂を通じて王朝文学を継承したこと、そして書道における優れた美意識を後世に残した点にあります。

第一の実績は、戦乱の渦中における朝廷機能と格式の維持です。後光厳天皇の在位中、京都は南朝軍や反幕府勢力の襲撃によって四度にわたり占領されました。そのたびに天皇は足利義詮らの護衛を受け、近江国の武佐や美濃国の小島(現在の岐阜県揖斐川町)などへ避難(都落ち)を余儀なくされました。仮の御所(頓宮)にあっても政務と神事を絶やすことなく執り行い、室町幕府との緊密な連携を通じて、京都朝廷の法的な正統性を保ち続けました。

第二の実績は、文化面における勅撰和歌集の完成です。後光厳天皇は自らも優れた歌人であり、1359年(延文4年)、二条為定に命じて第18番目の勅撰和歌集である『新千載和歌集(しんせんざいわかしゅう)』を編纂させました。さらに治世の後半には『新拾遺和歌集』の編纂にも着手させました。武力が支配する荒廃した時代にあって、伝統的な和歌文化の灯火を守り抜いた功績は極めて高い評価を受けています。

第三の実績は、書道における深い精進です。天皇は伏見天皇(伏見院)を祖とする「伏見院流」の書風を深く学び、その技量を磨き上げました。後光厳天皇の書は、力強さと洗練された優美さを兼ね備えた名筆として称えられ、後の公家社会や筆道において重要な規範となりました。

後光厳天皇治世の時代背景

後光厳天皇が在位した1352年から1371年という時期は、室町幕府の足利尊氏・足利義詮の時代にあたり、南北朝の戦乱が日本全国で最も激しく展開された時代でありました。

政治的には、南朝の武将である楠木正儀や足利直冬(尊氏の庶子)らが頻繁に京都へ侵攻し、幕府軍との間で激しい争奪戦が繰り広げられました。京都の街はたびたび戦火に見舞われ、朝廷の財政も極めて逼迫していました。

このような緊迫した情勢下にあって、後光厳天皇の日常や心寄せる関心は、和歌の詠作、書道の書写、そして有職故実の研究に向けられていました。避難先の美濃国小島頓宮などにおいても、地元の自然や旅の情景を和歌に詠み込み、精神の静寂を保ちました。

食生活や日常の暮らしにおいては、度重なる移動や朝廷の財政難から、かつての全盛期のような豪華な御膳を食することは叶いませんでした。避難先や宮中においては、質素な精進料理や地元の献上品を中心に食し、華美を排した慎み深い生活を徹底しました。

天皇にとっての最大のゆかりの地は、即位と執政の舞台となった京都の「土御門東洞院内裏(京都御所)」です。また、南朝軍の攻撃を逃れて滞在した滋賀県近江八幡市の「武佐頓宮跡」や岐阜県揖斐川町の「小島頓宮跡(野輪寺周辺)」、そして崩御の後に御霊が静かに祀られている京都府京都市伏見区の「深草北陵」も、後光厳天皇の波乱に満ちた生涯を今に伝える重要な歴史的聖地となっています。

後光厳天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

後光厳天皇を取り巻く人間関係は、北朝の断絶を防いだ祖母の庇護、室町幕府将軍家との強固な武家同盟、兄・崇光上皇との間に発生した深刻な皇統対立、そして南朝勢力との熾烈な敵対関係によって形成されていました。

皇室内部における最大の恩人であり、即位の後押しとなったのは、祖母である「広義門院(西園寺寧子)」です。上皇や天皇が軒並み南朝へ連行された際、広義門院は朝廷の最高長老として太天后宮宣旨を発し、三種の神器がない状態での弥仁親王の即位を承認しました。この決断が北朝の存続を決定づけました。

武家政権との関係においては、室町幕府第2代将軍・「足利義詮」との強い信頼関係が築かれました。義詮は後光厳天皇を忠実に警護し、京都占領の危機に際しても天皇を安全な地域へ避難させ、北朝の権威を防衛することに全力を注ぎました。また、第3代将軍・「足利義満」の初期においても、幕府は後光厳天皇の立場を全面的に支持しました。

一方、私生活および皇室内部において最も深刻な対立となったのが、南朝の抑留から解放されて帰京した兄・「崇光上皇」との関係です。崇光上皇は、「後光厳の即位は異例の緊急措置であり、本来の皇統は自分の第一皇子(栄仁親王)へ戻されるべきである」と強く主張しました。

これに対し、長年苦難に耐えて朝廷を守ってきた後光厳天皇は、自らの第一皇子である緒仁親王(後の後円融天皇)への譲位を譲りませんでした。この兄弟間の深い断絶と皇位継承争いは、最終的に室町幕府(足利義満)の裁定によって後光厳天皇の系統が正統と認められることで決着しました。この一連の経緯により、崇光上皇の血統は後に「伏見宮家」を創始することとなり、皇室の分家として存続していくこととなりました。

敵対勢力としては、後村上天皇や長慶天皇率いる「南朝軍」、および南朝に与して京都を襲撃した「足利直冬」らの反幕府勢力が挙げられます。後光厳天皇はこれらの脅威に晒されながらも、公武一体の協力関係をもって北朝の地位を確立していきました。

後光厳天皇陵の基本情報

北朝第4代・後光厳天皇の御陵および基本情報は以下の通りです。

後光厳天皇の本名は弥仁(いやひと)であり、御父は北朝第1代・光厳天皇、御母は陽禄門院・三条秀子(内大臣・正親町三条公秀の娘)です。

後光厳天皇が静かに眠る御陵名は「深草北陵(ふかくさのきたの・みささぎ)」と指定されており、その陵形は「円丘」の形式をとっています。所在地は京都府京都市伏見区深草坊町に位置しています。交通機関としては、京阪本線「墨染駅」から下車して東へ徒歩約15分、またはJR奈良線「JR藤森駅」から下車して北西へ徒歩約10分ほどの、伏見の豊かな緑と深い静寂に包まれた聖地に築かれています。御在位期間は西暦で1352年9月25日から1371年4月9日(旧暦:観応3年8月17日〜応安4年3月23日)に至るまでの約18年半でありました。

1374年(応安7年/文中3年)3月12日、後光厳上皇は37歳の若さで崩御されました。

三種の神器がないという前代未聞の事態の中で即位し、度重なる戦火と都落ちを耐え抜きながら、北朝の正統と王朝文化の灯火を守り抜いた後光厳天皇。宮内庁によって神聖かつ厳重に管理されている深草北陵の円丘は、今も伏見の静謐な空気の中に佇んでおり、訪れる人々に対して、乱世の荒波を気高く駆け抜けた帝の静かな足跡を語り続けています。

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