ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、室町幕府第3代将軍・足利義満が圧倒的な権力を掌握していく激動の時代において、北朝の第5代として即位された北朝第5代:後円融天皇(ごえんゆうてんのう)の御生涯をご紹介します。
叔父と甥が皇位を巡って醜く争う皇統分裂の過渡期。武家の巨大な威光に圧迫され、愛執と狂気の狭間で胸を痛めながらも、北朝の尊厳を保とうと苦闘した帝の、切なくも哀愁に満ちた足跡を、ともに辿ってみましょう。
後円融天皇の人物像・エピソード
北朝第5代天皇である後円融(ごえんゆう)天皇の本名は、緒仁(おひと)と名付けられました。
御父は北朝第4代・後光厳天皇であり、御母は太政大臣・三条公秀の女である藤原仲子(後の崇賢門院)であります。藤原仲子は日野時光の養女として後宮に入りました。父系を遡れば第93代・後伏見天皇、第89代・後深草天皇へと至る持明院統の正統な男系血脈を引き継ぐ皇子でありました。
緒仁親王の即位は、皇室内部における凄惨な血統抗争の渦中でもたらされました。父である後光厳天皇には、兄である北朝第3代・崇光上皇が存在しました。本来の取り決めでは、後光厳天皇の後は崇光上皇の第一皇子である栄仁親王(後の伏見宮家創始者)へ皇位が返還されるのが既定路線でありました。しかし、後光厳天皇は自らの直系へ皇位を継承させることに強く固執し、崇光上皇の猛反発を押し切って我が子・緒仁親王の擁立を強行いたしました。この内紛により、朝廷は後光厳流と崇光流の二つに分裂し、激しい確執が生じることとなりました。最終的に、1371年(応安4年/建徳2年)、室町幕府管領・細川頼之や若き足利義満の承認を得て、13歳の緒仁親王が北朝第5代天皇として即位いたしました。
後円融天皇の人となりは、幼少期から学問や有職故実、和歌、書道に優れた才能を示した文化人でありました。しかし、血統抗争の重圧と、急速に威光を強める足利義満からの政治的圧力に晒され続けたことで、その精神は次第に強烈な猜疑心と感情の乱れに蝕まれていきました。
彼の精神的葛藤が最悪の事件として表面化したのが、1383年(至徳元年/元中元年)の「厳子殴打事件」であります。後円融上皇は、自らの愛妃である三条厳子(通陽門院 / 後小松天皇の生母)が、足利義満と密通しているのではないかという狂気じみた疑心を抱きました。取り乱した上皇は御所において、妊娠中であった厳子を刀の峰で叩いて重傷を負わせるという痛ましい事件を起こしました。さらに自らも切腹を図りましたが、側近や義満らの制止によって未遂に終わりました。妃への過激な暴力と自殺未遂という凄惨な出来事は、武家権力の前で自立性を奪われた帝が抱えた病的な苦悩を物語っています。
後小松天皇への譲位と室町幕府との協調・相剋を通じた北朝の儀礼確立
後円融天皇が自らの治世および院政において主導し、達成した最大の歴史的功績は、我が子・幹仁親王(後小松天皇)への譲位を遂げて後光厳流の皇統を確実なものとしたこと、足利義満との協調を通じて北朝の安定を図ったこと、ならびに衰退していた宮中儀礼や有職故実の継承に尽力した点にあります。
第一の功績は、1382年(永徳2年/弘和2年)における皇太子・幹仁親王への皇位譲与と、院政の開始であります。崇光上皇側からの激しい抗議を退け、足利義満の全面的な支持を取りつけることで、我が子を第100代・後小松天皇として即位させました。これにより、北朝における皇位の継承権は後光厳流へと絞られ、後に南北朝統一(明徳の和約)を果たす足がかりが形成されました。
第二の功績は、足利義満との協調による北朝朝廷の存続と公家社会の秩序維持であります。南北朝の動乱によって経済的に疲弊していた朝廷は、幕府の庇護なしには儀礼の挙行すら不可能な状態にありました。後円融天皇は義満を太政大臣に任じるなど武家権力を朝廷の体系内に取り込み、朝廷の財政基盤を確保いたしました。
第三の功績は、文化と宮中儀礼の再建であります。後円融天皇は自ら『後円融院御集』などの和歌集を残すとともに、内裏における年中行事の再興に尽力いたしました。朝廷の存在意義を伝統と文化の最高権威として保持しようとした試みは、後の室町文化の結実へ繋がることとなりました。
後円融天皇治世の時代背景
後円融天皇が在位した1371年から1382年(北朝年号)、ならびに院政を敷いた時期は、南北朝の分裂抗争が収束に向かい、室町幕府の全盛期が形成されていった時期にあたっていました。
政治的には、室町幕府第3代将軍・足利義満が「花の御所」を造営し、武家でありながら公家の最高職を兼ね、政権の実権を掌握していました。南朝勢力(長慶天皇・後亀山天皇)は吉野の山中に追い詰められ、軍事的な衰退が顕著となっていましたが、北朝内部での崇光上皇派との血統争いは継続していました。
都は「土御門東洞院殿(現在の京都御所の前身)」に置かれました。朝廷の日常は常に足利義満の意向に左右され、自理的な政治判断の余地は著しく狭められていました。
後円融天皇の日常や暮らしにおいては、重い政治的ストレスから逃れるように、宮中での和歌の会や茶宴、書道、仏道への帰依に没頭する日々が送られました。彼は優れた書家でもあり、自ら筆を執って写経や歌集の書写を行いました。
食生活においては、足利義満から献上される全国の海産物や山菜、近隣からの米や酒、京都の洗練された御膳を食していたと考えられます。
ゆかりの地としては、執政の舞台となった「土御門東洞院殿跡」、御霊が葬られた泉涌寺山内の「雲龍院」、義満によって造営された「相国寺」があげられます。
後円融天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
後円融天皇を取り巻く人間関係は、父・後光厳天皇の執念の継承、母方の実家である公家豪族の支援、皇室内部で対立した叔父・崇光上皇との激突、ならびに足利義満との絶対的な主従・愛憎関係によって形作られていました。
皇室内部において、御父は「後光厳天皇」、御母は藤原仲子(「崇賢門院」)であります。前述の通り、叔父の「崇光上皇」およびその皇子「栄仁親王」とは、皇位の正統性を巡って生涯にわたり冷酷な敵対関係にありました。崇光上皇派は幕府へ働きかけを行い、後円融天皇の即位の正統性を揺るがそうと画策いたしました。
後宮においては、三条公忠の女である「三条厳子(通陽門院)」を妃として迎え、二人の間には第一皇子の「幹仁親王(後の後小松天皇)」が誕生いたしました。しかし三条厳子との関係は、前述の義満との密通疑惑による暴力事件という凄惨な悲劇によって破綻いたしました。
政権の絶対的な庇護者であり、最大の圧迫者となったのが「足利義満」であります。義満は後円融天皇の即位を後押しし、北朝を全面的に支えました。しかし義満の権力が増大し、宮中の政務や女性関係にまで介入するようになると、後円融天皇との間には深刻な不信感と確執が渦巻くこととなりました。
外部の敵対勢力としては、吉野に拠点を置く「南朝(長慶天皇・後亀山天皇)」があげられます。三種神器を保持する南朝の存在は、北朝の帝であった後円融天皇にとって永久の葛藤であり続けました。
後円融天皇陵の基本情報
| 項目 | 内容 |
| — | — |
| 天皇名 | 後円融天皇(ごえんゆうてんのう) |
| 本名 | 緒仁(おひと) |
| 御父 | 後光厳天皇(北朝第4代天皇) |
| 御母 | 藤原仲子(ふじわらのちゅうし / 崇賢門院) |
| 御陵名 | 深草北陵(ふかくさのきたの・みささぎ) |
| 陵形 | 破籠形(石造九重塔) |
| 所在地 | 京都府京都市伏見区深草坊町 |
| 交通機関等 | 京阪本線「墨染駅」下車、東へ徒歩約15分、またはJR奈良線「JR藤森駅」下車、北西へ徒歩約15分 |
| 御在位期間(西暦) | 1371年 〜 1382年(※北朝として) |
1393年、後円融上皇は35歳という若さで崩御されました。崇光流との過酷な皇位継承争い、足利義満の圧倒的な権勢による圧迫、そして自らの激しい情念が生み出した私生活の悲劇など、その御生涯は終始波乱に満ちたものでした。
しかし、自らの血統を守り抜いて息子の後小松天皇へ繋いだ実績は、南北朝の統合と以後の正統な皇統の確立という大きな実りをもたらしました。
宮内庁により管理されている円丘の御陵は、現在も深く落ち着いた静寂に包まれており、訪れる者に対して、南北朝末期の動乱と宮廷政治の過酷な影、そして王朝文化の洗練を遺した帝の足跡を静かに伝えています。
