「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、黒船来航から始まる激動の幕末において、徹底した攘夷の志を貫き通した第121代:孝明天皇(こうめいてんのう)にスポットライトを当てます。
未曾有の国難に対し、武家と朝廷の融和を図りながら日本の伝統を守り抜こうとした帝の足跡を辿りましょう。
孝明天皇の人物像・エピソード
孝明天皇の本名は統仁(おさひと)と申します。1831年7月11日に誕生されました。そのお人柄を象徴するのは、極めて真面目で信仰心に厚く、古き良き日本の伝統を何よりも重んじた保守的な思想です。
孝明天皇は、外国の文化や外敵が日本に入り込むことを「国土の穢れ」として強く嫌悪していました。そのため、江戸幕府が日米修好通商条約の勅許(天皇の許可)を求めてきた際には、これを断固として拒否しました。
天皇は自らの身を削るようにして国家の安泰を祈願し続けました。条約締結問題や国内の動乱に際しては、石清水八幡宮や賀茂神社などの有力な神社へ幾度も祈祷を命じ、時には自ら絶食して神仏にすがるほどでした。また、政治的な心労から体調を崩すことも多く、その深い憂国は遺された多くの書簡や御製(和歌)からも読み取ることができます。1866年末(西暦では1867年初頭)に天然痘により35歳の若さで急死を遂げますが、そのあまりに突然の崩御は、倒幕派による暗殺説が現代に至るまで囁かれるほど、当時の政治的均衡の中心に立っていた人物でした。
公武合体の推進と朝廷権威の復興
孝明天皇が幕末の政治において果たした最大の功績は、長らく政治の表舞台から遠ざかっていた朝廷を、再び国政の中心へと引き戻したことです。天皇は外国勢力を排斥する「攘夷」を強硬に主張しましたが、幕府を倒す「倒幕」は望んでいませんでした。むしろ、朝廷の権威と幕府の武力を結びつけることで国難を乗り越えようとする「公武合体」を推進しました。
その最も象徴的な出来事が、妹である和宮(和宮親子内親王)の将軍家への降嫁です。天皇は初め、和宮を関東に下向させることに難色を示していましたが、幕府が「10年以内の攘夷実行」を約束したことを条件に、身を切る思いで妹を第14代将軍・徳川家茂の正室として送り出しました。この政略結婚によって公武の結びつきは強まりました。
さらに天皇は、家茂に対して上洛を命じました。将軍が天皇に拝悦するために上洛するのは、実に約230年ぶりの異常事態でした。天皇は将軍に直接攘夷の実行を命じ、幕府はこれに従わざるを得なくなりました。武力を持たない朝廷が、勅命という絶対的な権威を用いることで、江戸幕府を政治的に従わせる形を作り上げたのです。
孝明天皇治世の時代背景
孝明天皇の在位期間は1846年から1866年です。この時期は、まさに日本の歴史が中世から近代へと転換する激動の時代でした。在位中の1853年にペリー率いる黒船が浦賀に来航し、日本は200年以上続いた鎖国から開国への道を強制されることになります。安政の大獄や桜田門外の変など、政治的な血の雨が降る中、尊王攘夷を掲げる武士たちが全国から京都へと集まり、市中の治安は極度に悪化していました。
天皇の住まいであった京都の御所は、幕末の騒乱の中心地となりました。孝明天皇は日本の伝統をこよなく愛し、異国のものを目にするだけでも体調を崩すほどであったと言われています。天皇が好んだのは、静かな宮中の儀式や和歌などの伝統文化でしたが、時代は彼に平穏を許しませんでした。外国船の来航のたびに心を痛め、絶え間なく続く政治闘争の調停に追われる日々は、天皇にとって途方もない重圧とストレスの連続であったと推測されます。
孝明天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
孝明天皇は、仁孝天皇を父とし、正親町雅子を母として生まれました。彼の治世を語る上で欠かせないのが、京都の治安維持を任された会津藩主・松平容保との強い絆です。天皇は、長州藩を中心とする過激な尊王攘夷派(倒幕派)の武士たちを「暴発して朝廷の秩序を乱す者」として非常に嫌悪していました。
1864年に起きた禁門の変(蛤御門の変)では、御所に武力で攻め込んできた長州藩兵に対して、天皇は激しい怒りを露わにし、長州を朝敵として追討する命を下しました。この時、御所を身を挺して守り抜いたのが会津藩や薩摩藩の兵たちでした。天皇は特に松平容保の忠誠心を深く信頼し、彼に対して自らの感謝と信頼の念を記した「御宸翰(ごしんかん)」という直筆の書簡と和歌を密かに与えました。この書簡は、後に幕府が崩壊し会津藩が朝敵とされた戊辰戦争の最中でも、容保が肌身離さず持ち歩き、自らの忠義の証として生涯大切に守り抜いたことで知られています。
孝明天皇陵の基本情報
- 天皇名:第121代 孝明天皇(こうめいてんのう)
- 諱(本名):統仁(おさひと)
- 御父:仁孝天皇
- 御母:正親町雅子御陵名:後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)
- 陵形:円丘(えんきゅう)
- 所在地:京都府京都市東山区今熊野泉山町(泉涌寺内)
- 交通機関等:JR奈良線・京王線(京阪本線)「東福寺駅」から徒歩約15分。
- 御在位期間(西暦):1846年 〜 1866年
