第79代:六条天皇 〜生後数ヶ月で即位し、政治の波間に消えた史上最年少の帝

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今回は、わずか生後数ヶ月で帝位に就き、自らの意思を述べる間もなく激動の政治闘争の中で退位へと追い込まれた第79代:六条天皇(ろくじょうてんのう)の御生涯をご紹介します。

幼き身でありながら歴史の渦に巻き込まれ、短くも儚い生涯を駆け抜けた帝の足跡と、その背景にある激動の平安末期へと思いを馳せてみましょう。

六条天皇の人物像・エピソード

第79代天皇である六条(ろくじょう)天皇の本名は、順仁(のぶひと)と名付けられました。1164年(長寛2年)12月28日、第78代・二条天皇の第二皇子として誕生しました。母は伊賀局(いがのつぼね)であり、権大納言・藤原成親の妹、あるいは伊賀守・藤原光房の娘と伝えられています。

順仁親王の誕生は、父である二条天皇が深刻な病に倒れ、自らの命数が長くないことを自覚していた時期と重なっていました。二条天皇は自らの血統に皇位を継承させることを強く望み、誕生したばかりの順仁親王をただちに皇太子へと立てました。そして1165年(永万元年)6月25日、順仁親王は生後わずか7ヶ月(数え年で2歳)という異例の若さで第79代天皇として即位しました。これは日本の歴史上、最年少での天皇即位となります。

六条天皇の人となりや個人的な性格を示す記録は、そのあまりの幼さゆえに歴史上にほとんど存在しません。即位式の儀式においても、自らの足で立つことは叶わず、側近や抱き親に抱きかかえられた状態で執り行われたと伝えられています。政治の決定や日常の宮中行事の執政はすべて周囲の大人たちによって進められました。

1168年(仁安3年)2月19日、六条天皇はわずか3歳2ヶ月(満3歳3ヶ月、数え年で5歳)で、叔父にあたる憲仁親王(第80代・高倉天皇)へ皇位を譲ることとなりました。これにより、六条天皇は史上最年少で「太上天皇(上皇)」となりました。

退位後の六条上皇は、政治の表舞台から完全に遠ざけられ、宮中の一角で静かに幼少期を過ごしました。しかし、生まれつき身体が弱かったこともあり、1176年(安元2年)7月8日、わずか11歳(満11歳6ヶ月)の若さで崩御されました。自らの意思で言葉を発し、政策を決定する機会を得られぬまま幼くして世を去った姿は、権力闘争に翻弄された悲運の帝として、後世の史家や人々に深い哀切を感じさせています。

二条親政派の悲願と後白河院政復権への政治的架け橋

六条天皇自らが主導して決断した政策や政治的業績は存在しませんが、六条天皇の即位と退位という歴史的事実は、平安時代末期における朝廷の権力構造を劇的に変化させる決定的な役割を果たしました。

六条天皇が即位した最大の要因は、父である二条天皇と、その祖父である後白河上皇との間に繰り広げられていた深刻な政治的対立にありました。二条天皇は、上皇が政治を行う「院政」を否定し、天皇自身が政治を動かす「親政」の確立を目指していました。二条天皇の周囲には、藤原成親や藤原尹明といった実務派の公卿(二条親政派)が集まり、後白河上皇の政治的影響力を排除しようと画策していました。

しかし、二条天皇が倒れると、親政派は自らの政治的立場を失うことを激しく恐れました。後白河上皇が再び権力を握るのを阻止するため、生後間もない順仁親王(六条天皇)を急遽即位させ、二条天皇の直系による統治の継続を強行したのです。

ところが、即位からわずか1ヶ月後に二条天皇が崩御すると、生後数ヶ月の幼帝を支える親政派の基盤は急速に脆弱化しました。朝廷内の実権は再び後白河上皇の手へと戻り、上皇は自らの立場を盤石にするため、新興勢力である伊勢平氏の棟梁・平清盛と接近しました。

後白河上皇と平清盛は、清盛の妻の妹である平滋子(建春門院)と上皇との間に生まれた憲仁親王(高倉天皇)を即位させることで合意しました。この政治的協定により、1168年に六条天皇は退位を余儀なくされました。六条天皇の短い治世は、二条親政派の衰退と、後白河院政の復権、そして平氏政権が全盛期を迎えるための不回避な架け橋となったのです。

六条天皇治世の時代背景

六条天皇が在位した1165年から1168年という時期は、保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)を経て、武士の軍事力が公家社会の均衡を左右するようになった激動の過渡期にあたっていました。

都の中心であった京都では、平清盛率いる伊勢平氏が急速に政治的台頭を果たしていました。平清盛は後白河上皇や二条天皇の双方と巧みな関係を築きながら、一門の者を次々と朝廷の要職に就かせました。六条天皇の在位中である1167年(仁安2年)には、平清盛が武士として初めて最高官職である「太上大臣」に就任し、武家による政治支配の基礎が確実に固められました。

政治の表舞台では、幼い六条天皇に代わり、後白河上皇が実質的な判断を下していました。宮中では年中行事や神事が従来通り執り行われていたものの、政治的な緊張感は常に漂っており、公卿たちは後白河上皇と平氏一門の動向に深い関心を寄せていました。

幼少の六条天皇自身がどのような生活を送り、何を好んだかという詳細な個人的記録は遺されていません。しかし、乳母や宮中の内侍たちに慈しまれながら、京都の穏やかな御所で幼少期を過ごしたと推測されています。

六条天皇にとっての最大のゆかりの地は、即位の儀式が執り行われた「平安京内裏」や、幼少期を過ごした宮中の内裏・御所跡です。また、崩御の地であり、現在その御霊が祀られている京都東山の「清閑寺(せいかんじ)」も、六条天皇の儚い足跡を今に伝える重要な地域となっています。清閑寺は、後に即位した叔父の高倉天皇の御陵とも隣接しており、平安末期の皇室の悲劇的な運命を静かに物語っています。

六条天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

六条天皇を取り巻く人間関係は、自らの意思とは無関係に、父を中心とする二条親政派、祖父を中心とする後白河院政派、そして主導権を握ろうとする平氏一門という、3つの政治勢力の力関係によって決定づけられました。

六条天皇の最大のろ盾であったのは、実父である「二条天皇」とその側近たちです。二条天皇は後白河上皇への対抗意識から、自らの系統への皇位定着を切望し、死に際に幼い六条天皇の即位を断行しました。母方の叔父にあたる藤原成親らも六条天皇を支えましたが、二条天皇の没後は後白河上皇の権勢に押され、政権の主導権を維持することができませんでした。

一方、六条天皇にとって最大の制衡軸となったのが、祖父である「後白河上皇」です。後白河上皇は、自らの政治権力を制限しようとした二条天皇の試みに不満を抱いており、六条天皇の即位を一時的な過渡期の措置とみなしていました。上皇は自らの最愛の息子の1人である憲仁親王(高倉天皇)への皇位継承を強く望み、六条天皇の早期退位を推進しました。

この後白河上皇の意向を強力にバックアップしたのが、「平清盛」率いる伊勢平氏です。平清盛は、自らの義妹である平滋子の生んだ憲仁親王が即位することによって、自らが天皇の外戚となり、朝廷内での地位を絶対的なものにできると考えました。清盛は後白河上皇と協力して憲仁親王の擁立を進め、六条天皇を退位へと追い込む政治的圧力を形作りました。

六条天皇自身には、誰かを敵として認識する主体性はありませんでしたが、二条親政派の残留勢力と、後白河・平氏の連合勢力という、朝廷を二分する過酷な権力闘争の挟間に置かれた象徴的な存在でありました。

 

六条天皇陵の基本情報

項 目 名 内容
天 皇 名 六條天皇(ろくじょうてんのう)
本   名 雅仁(まさひと)
御   父 二條天皇(にじょうてんのう)
御   母 伊岐致遠の娘
御 陵 名 淸閑寺陵(せいかんじのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 京都府京都市東山区淸閑寺歌ノ中山町
交通機関等 (バス停)清閑寺山之内町から徒歩約11分
御在位期間 1165年~1168年

六条天皇が眠る清閑寺陵は、京都・東山の「歌の中山」と呼ばれる風光明媚な高台にあります。

高倉天皇の御陵とも近いこの場所は、平氏の興亡を見守り続けた静かな聖域です。

 

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