ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、鎌倉幕府の成立に伴う武家社会の到来に対し、圧倒的な英明さと溢れ出る情熱をもって王朝の威光を取り戻そうと挑んだ第82代:後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の御生涯をご紹介します。
三種神器なき即位という異例の宿命を背負いながらも、美しき和歌の黄金期を創出し、遠く隠岐の波間に散っていった覇王の、凛とした切ない足跡を、ともに辿ってみましょう。
後鳥羽天皇の人物像・エピソード
後鳥羽天皇は、尊成(たかひら)と名付けられます。父は第80代:高倉天皇であり、御母は修理大夫・藤原信隆の娘である藤原殖子(後の七条院)です。
母方の藤原信隆の系統は、藤原北家勧修寺流に属していた、いわば中流貴族の家柄。摂関家のような強力な政治的・経済的基盤を持ち合わせていませんでした。
皇室のレガリア:三種の神器なき即位
後鳥羽天皇の即位は、日本史においても異例な政治的混迷の中で行われています。
1183年(寿永2年)、源義仲の軍勢が京都へ迫ると、平家一門は幼少の安徳天皇を擁し、天皇の正統性の証である三種神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)を携えて西国へと都落ちしていきました。
京都に遺された後白河法皇は、安徳天皇が不在となった朝廷の混乱を収めるため、神器が存在しない状態で新たな天皇を即位させる決断を下しました。
これによりわずか4歳(数え年)の尊成親王が第82代天皇として即位することとなりました。
しかし、皇位の象徴である三種の神器が揃わぬまま即位したという事実は、後鳥羽天皇の生涯において大きな葛藤となり、自らの王権の絶対的な正統性と威厳を証明せんとする執念の原点になったと考えられています。
十六菊花紋の起源にも繋がる、刀剣愛好家としての一面
成長した後鳥羽天皇は、圧倒的な頭脳の明晰さと、類まれなる身体能力を備えた文武両道のカリスマとして頭角を現します。
幼少期から学問や文芸に特異な才能を示しただけでなく、身の回りのあらゆる技芸や運動を極めようとしていたと伝わっていますが、特に執着と情熱を示す代表的なエピソードが、刀剣に対する深い関心でしょう。
後鳥羽天皇は自ら刃を鍛えるほどの刀剣愛好家であり、全国から高名な刀工を月替わりで京都に呼び寄せ、御所で刀を打たせました。これを御番鍛冶(ごばんかじ)と呼びます。
後鳥羽天皇自らが鍛造に関与した刀の銘には、皇室の紋章である十六弁の菊花紋が刻まれました。ちなみにこれが、皇室家を象徴する十六菊花紋の起源とされています。
武芸に対する情熱の炎
また、彼の武芸に対する情熱も特筆すべき特徴です。
流鏑馬や犬追物といった騎射の技に没頭し、相撲や水泳、囲碁、蹴鞠に至るまで、あらゆる技芸において専門の達人を凌駕する実力を保持していたとされています。
妥協を一切許さぬ強い自尊心と、あふれ出る自信を備えた後鳥羽天皇は、自らの意志を絶対的なものとして通す苛烈な政治的・個人的性格を形成していきました。
『新古今和歌集』の撰修と文武両道による王朝権威の再生
後鳥羽天皇の功績は、文化面における『新古今和歌集』の撰修と和歌黄金期の創出、ならびに政治・軍事面における親政および院政の強化による西面武士の創設にあります。
こだわりにこだわり抜いた、新古今和歌集の撰修
文化的な実績として名高いのが、和歌史における金字塔である『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』の撰修でしょう。
1198年(建久9年)、わずか19歳で長男の土御門天皇へ譲位して上皇となった後鳥羽院は、衰退しつつあった宮廷和歌の復興を目指し、1201年(建仁元年)に宮中に和歌所(わかんどころ)を再設します。
そして後鳥羽上皇は、藤原定家・藤原家隆・寂蓮・飛鳥井雅経・源通具、そして生母の兄である藤原有家という6名の当代最高峰の歌人を和歌所寄人・撰者に任命し、新たな勅撰和歌集の編纂を命じます。
さらに作業を委ねるのではなく、後鳥羽上皇みずからが和歌所に足を運び、掲載する歌の撰集や配列、推敲に対して自ら細かな指示を出したとされます。
彼の強い指導性と美意識───、言い換えるなら強いこだわりのもとで編纂された『新古今和歌集』は、象徴的かつ繊細、美艶でありながら深遠な余情を湛えた新しい歌風(新古今風)を確立するのでした。
自らも約300首におよぶ歌を載せるなど、圧倒的な歌人としての才能を発揮し、平安時代初期の『古今和歌集』に匹敵する和歌文化の絶対的黄金期を創出したとされています。
自身の近衛師団を目指した?”西面武士”の創設
政治および軍事面における功績は、鎌倉幕府の存在感が増す中で、朝廷の軍事力と財政権を再構築し、大王権力の絶対性を保持しようとした点にあります。
後鳥羽上皇は、従来の院の護衛組織であった北面武士に加え、自らに絶対的な忠誠を誓う直属の軍事組織として西面武士(さいめんのぶし)を新たに創設しました。
西面武士には、畿内や近国の有力な武士、ならびに幕府から離反した御家人らを幅広く登用し、自ら御所で流鏑馬や軍事演習を指揮して高度な錬度を保たせました。
同時に、全国に散在する八条院領などの膨大な皇室領荘園の管理を徹底し、朝廷の財政基盤を格段に強固なものといたしました。
文化の力をもって王権の聖性を高め、自前の軍事力をもって武家に対抗しようとした後鳥羽上皇の多角的な政策は、王朝の威光を再び天下に轟かせるための緻密かつ情熱的な国家再建の試みでありました。
後鳥羽天皇治世の時代背景
後鳥羽天皇が治世および院政を敷いた12世紀末から13世紀初頭という時代は、平家一門の滅亡、源頼朝による鎌倉幕府の開設という、日本史において政治の実権が公家から武士へと本格的に移行する未曾有の構造改革期でした。
承久の乱を通して、政治の実権は武士へと渡る
治世の初期においては、祖父である後白河法皇が院政を執り、関白・九条兼実らが幕府との協調を図りながら政務を進めていました。
しかし、1192年に後白河法皇が崩御し、さらに源頼朝が没すると、後鳥羽上皇は自ら院政を開始し、朝廷の独立性と権力を取り戻すための積極的な政治主導を展開します。
当時、鎌倉幕府は頼朝の死後に内部抗争が相次ぎ、源氏の将軍家が3代・源実朝の暗殺によって断絶するなど、大きな動揺の中にありました。
ちなみに後鳥羽帝自身が名付け親にもなった源実朝は、武断派であった2代将軍:頼家とは異なり、朝廷および京都文化への強い憧れと敬意を持っていた人物とされています。
後鳥羽上皇はこの好機を捉え、幕府の実権を握る執権・北条義時を排除し、朝廷を中心とするかつての政治秩序を奪還することを決意します。
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は全国の武士に対して北条義時追討の院宣を発し、挙兵(承久の乱)。
しかし、幕府方の迅速かつ大規模な動員と、北条政子らの団結を前にして朝廷軍は各地で完敗することになります。乱の敗北により、後鳥羽上皇は北条氏によって遠く日本海の孤島・隠岐島(島根県)へと配流されるという末路を辿ることとなりました。
後鳥羽天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
後鳥羽天皇を取り巻く人間関係は、公家ら朝廷内の権力闘争、そして新興の武家政権でもある鎌倉幕府との緊迫した政治的攻防によって形作られていました。
和歌を通した藤原定家との関係性
文化的なパートナーとして深い関係を持ちながらも、複雑な緊張関係にあったのが、和歌の巨匠である藤原定家(ふじわらのていか)であります。
後鳥羽上皇は定家の圧倒的な才能を認め、和歌所の撰者として重用しました。しかし、後鳥羽上皇の強引で妥協のない選歌や、自身の権限を振りかざす姿勢に対し、定家は日記『明月記』の中で時に冷ややかな不満や苦言を書き残しています。
二人の関係は、師弟でありながら互いの自尊心がぶつかり合う高度な精神的相剋の歴史でありました。
名付け子でもある鎌倉将軍:源実朝との絆
鎌倉幕府・武家勢力、特に幕府の創始者である源頼朝とは、互いに権威を認め合いながらも政治的な牽制を続けました。
一方、3代将軍である源実朝とは、先述した通り精神的・文化的師弟関係を結んでいたとされています。
源実朝は、後鳥羽上皇の和歌を深く敬愛し、上皇から送られた歌集を貪るように学んで歌人としての才能を花開かせました。
後鳥羽上皇自身も実朝を実の弟子のように目をかけており、実朝の存在こそが朝廷と幕府をつなぐ強力な平和の架け橋であったとされます。
実朝が生まれたのは父:源頼朝が征夷大将軍の宣下を受けた1192年のことであり、源平合戦や奥州合戦を終えて、物心がついた時には朝廷や公家との関係強化を図り始めた時代。
実朝の記憶にある父:頼朝は、武家の棟梁というより公家社会へ溶けこもうと努めていた背中だったと思われます。こうした経緯から、実朝自身も”武家の棟梁”という自負より皇室家への経緯や朝廷文化への憧れを強く持っていたのかも知れません。
政治の中心を鎌倉にしたい執権:北条義時との対立
しかし、1219年(建保7年)に源実朝が鶴岡八幡宮で突如暗殺されたことにより、朝廷と幕府の関係は根本から崩壊します。
実朝の暗殺と公暁の死により源氏嫡流の将軍家が3代で途絶えた後、幕府の実権を完全に掌握した2代執権:北条義時は、朝廷からの皇族将軍の派遣要請を拒絶するなど、強硬な姿勢を強めました。
後鳥羽上皇は、北条義時の独裁を幕府の暴走と見なし、1221年に北条義時討伐の院宣を発して挙兵します(承久の乱)。
しかし、北条泰時・時房らが率いる幕府大軍の前に朝廷軍は完敗を喫し、後鳥羽上皇は幕府によって朝敵の汚名を着せられ、隠岐島への永久配流という壮絶な政治的敗北を喫することとなったのでした。
さらに鎌倉幕府は、京都の武家をも配下に収めるため京都に六波羅探題を設置します。これにより実質的に鎌倉幕府が西日本まで統治範囲を広げ、武家政権が日本の中心に据えられることになるのでした。
後鳥羽天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 後鳥羽天皇(ごとばてんのう) |
| 御 父 | 高倉天皇(たかくらてんのう) |
| 御 母 | 藤原殖子(ふじわらのしょくし / 七条院) |
| 御 陵 名 | 大原陵(おおはらのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 京都府京都市左京区大原勝林院町 |
| 交通機関等 | (バス停) 大原から徒歩約11分 |
| 御在位期間 | 1183年~1198年 |
新古今和歌集という至高の美を紡ぎ、自ら刀剣を鍛えるほどの万能の才を持ったカリスマ、後鳥羽天皇。
武家政権との全面対決に敗れ、流刑の地である隠岐の海を眺めつつお隠れになりますが、その後京都の静寂な大原の地で、息子の順徳天皇の火葬塚と並ぶようにして祀られています。
実際にこの大原の地を訪れ、木々に囲まれた静謐な空間に身を置くことで、私たちは歴史の教科書に記された「承久の乱」という文字の奥にある、かつて平安の終焉を戦い、そして隠岐の波間に沈んでいった人々の生々しい息吹と、中世という時代の圧倒的なリアリティを、五感を通じて深く心に刻むことができるのです。















