ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、蘇我氏討伐という古代史最大級の政変を経て即位し、日本初の元号:大化を定めて新たな国家の骨組みを築こうと挑みながらも、時代の激流と身内の離反の中で非運の最期を遂げた第36代:孝徳天皇(こうとくてんのう)の御生涯をご紹介します。
孝徳天皇の治世は、まさに古い豪族中心の政治体制を打ち破り、天皇を中心とする新しい律令国家へと日本が生まれ変わるための、最初の大いなる一歩でした。
孝徳天皇の人物像・エピソード
孝徳天皇は、軽皇子(かるのおうじ/かるのみこ)と名付けられました。和風諡号は天万豊日尊(あめのよろずとよひのすめらみこと)と言います。
茅渟王(ちぬのおう)を父に持ち、敏達天皇からみて男系のひ孫にあたります。母は桜井皇子の女である吉備姫王(きびひめのおう)、同母姉には皇極天皇(齊明天皇)が存在します。
乙巳の変を経て、孝徳天皇として即位
即位前の軽皇子の人となりは、穏やかで慎み深く、仏法を深く崇信し、柔和な性格の持ち主として記録されています。
争い事を好まず、政治的な野限から距離を置いて過ごしていた軽皇子でしたが、645年(大化元年)に勃発した乙巳の変によって、その運命は激変することとなりました。
中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らによって蘇我入鹿が刺殺され、父の蘇我蝦夷が自害して蘇我氏本宗家が滅亡すると、時の皇極天皇は避位の意を示します。
当初、クーデターの指導者であった中大兄皇子の即位が検討されましたが、中臣鎌足らの進言により「若い皇太子が直ちに即位するのは時期尚早であり、長老格である叔父を立てるべきである」との判断が下されました。
こうして軽皇子は、自ら望むことなく棚ぼた的に皇位へと擁立され、第36代・孝徳天皇として即位しますが、政権の現実的な主導権や軍事力は、皇太子となった甥の中大兄皇子や中臣鎌足の手中に握られていました。
孝徳天皇は、旧体制の破却と新体制の創出という激動の過渡期において、大王としての神聖な威厳を求められつつも、実権を握る若い変革者たちの意向に左右されるという、傀儡的かつ複雑な政治的立場を背負わされることとなったのです。
“大化の改新”の発布、難波長柄豊碕宮への遷都
孝徳天皇が達成した功績は、日本史上初の元号:大化を制定したこと、畿内と海の接点である難波へ都を移して難波長柄豊碕宮を造営したこと、改新の詔を発布して律令中央集権国家の礎を築いたことが挙げられます。
日本初の元号:大化(たいか)の制定
一つ目の功績は645年における日本初の元号:大化(たいか)の制定であります。
日本の歴史上初めて年号制度を導入し、時の流れを国家が統制する宣言を行ったのでした。続いて行われたのが、飛鳥の地を離れ、大阪湾に面した難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)への遷都です。
孝徳天皇は、諸外国(唐や新羅)との外交や海上貿易の要衝であった難波に、中国の都城建築を取り入れた豪華絢爛な内裏と大極殿を完成させます。
難波宮は、それまでの素朴な飛鳥の宮殿とは一線を画す威容を誇り、大王の絶対的権力と国家の近代化を国内外へ強力に示しつける舞台となったのでした。
改新の詔による公地公民制への移行
646年(大化2年)正月に発布された改新の詔(かいしんののりと)です。
全4箇条からなるこの政治綱領は、それまで豪族たちが土地と民を私有していた制度(部民制・屯倉など)を全廃し、公地公民制へと転換することを宣言します。
さらに、京師や畿内、国郡制などの地方行政組織の整備、班田収授の法による田地の再分配、ならびに租・庸・調を基礎とする公平な税制の確立が掲げられました。
また、政治機構の刷新として、従来の大臣・大連の制を廃止し、国家の最高機関として左大臣・右大臣・内臣を新設します。左大臣には阿倍内麻呂、右大臣には蘇我石川麻呂が起用され、天皇と皇太子の補佐のもとで組織的な行政運営が開始されました。
これらの改革は、豪族連合体であったヤマト王権を、天皇を中心とする律令国家へと脱皮させる決定的な足跡となったのでした。
孝徳天皇治世の時代背景・周辺エピソード
孝徳天皇が在位した645年から654年という7世紀半ばの時代は、東アジア全体が緊迫した対外緊張の中にあり、国内においては旧来の氏族社会から中央集権的な律令国家へと移行する激動の時代でした。
国際的には、唐の太宗が急激に勢力を拡大し、朝鮮半島の高句麗への侵攻を開始していました。
さらに新羅や百済も生き残りをかけて激しい合戦を繰り広げており、倭国(日本)にとっても対外的な防衛力の強化と、外交の窓口となる港湾都市の整備が急務となっていました。
難波への遷都は、こうした国際情勢に即応するための安保上の軍事決断でもあったと考えられています。
難波長柄豊碕宮での政務
難波長柄豊碕宮での都市生活は、渡来人の技術を結集させた非常に格調高いものでありました。
外国からの使節を迎えるための広い街路や港湾設備が整えられ、宮中では中国風の儀式や華やかな宴が催されました。
孝徳天皇自身の日常や暮らしにおいては、前述の通り仏法に対する造詣が深く、宮中に多くの僧侶を招いて法会を催し、国家の平穏を祈願することを日課としていたと伝えられます。
孝徳天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
孝徳天皇を取り巻く人間関係は、甥・中大兄皇子との相剋、実姉である皇極(齊明)上皇の存在、自らを見捨てて去った皇后・間人皇女との悲劇的な夫婦関係、ならびに新政権を支えた大臣たちによって多層的に形作られていました。
皇極天皇の弟であり、天智・天武らの叔父
皇室内部および血縁関係に目を向けると、甥には天智天皇(中大兄皇子)および天武天皇(大海人皇子)が存在しました。
孝徳天皇の皇后として迎えられたのは、舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた皇女であり、孝徳天皇から見ると姪、中大兄皇子の同母妹にあたる間人皇女です。この婚姻は、新政権と大王家との結束を強化するための政治的婚姻だったと思われます。
しかし、治世が下るにつれて、政策や主導権を巡り、孝徳天皇と皇太子・中大兄皇子との間の確執は決定的な破局へと向かいました。
皇極上皇・中大兄皇子との静かな対立
653年(白雉4年)、東アジアの緊張感の高まりや政治的利害を理由に、中大兄皇子は都を難波から再び旧来の飛鳥へ戻すことを強く進言します。孝徳天皇がこの提案を固く拒絶すると、中大兄皇子は天皇の意思を完全に無視して強行措置に出ました。
中大兄皇子は、母である皇極皇太后や弟の大海人皇子を引き連れ、さらに文武百官(臣下たち)の大部分を率いて難波宮を去り、飛鳥へ戻ってしまったのでした。
さらに悲惨であったのは、孝徳天皇の最愛の妃であった皇后・間人皇女までもが、夫である天皇を難波宮に置き去りにし、実の兄である中大兄皇子に同行して飛鳥へ去ってしまったのです。
臣下のみならず、肉親や妻にまで見捨てられ、巨大な難波宮にたった一人取り残された孝徳天皇の孤独と絶望は、凄惨なものでありました。
孝徳天皇は深い憤りと悲嘆のなかで自暴自棄となり、無人の御所に「柄刀(つかたな)の伐(き)られし柄(つか)の不悪(ふあく)不悪(ふあく)述べていけたらば…」という虚しさを詠んだ歌を遺しました。
一人難波宮で寂しく病床に伏した孝徳天皇は、離反劇からわずか1年後の654年11月24日(旧暦:白雉5年10月10日)、失意と怒りの果てに病のために崩御いたしました。
中大兄皇子らによって実権を奪われ、最後は身内全員に見捨てられるというこの悲劇的な幕引きは、古代王権の権力闘争における冷酷さを象徴しています。
孝徳天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 孝德天皇(こうとくてんのう) |
| 本 名 | 天万豊日尊(あめのよろずとよひのみこと) |
| 御 父 | 茅渟王(ちぬのおおきみ / ちぬのみこ) |
| 御 母 | 蘇我 堅塩媛 (そが の きたしひめ) |
| 御 陵 名 | 大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 大阪府南河内郡太子町大字山田 |
| 交通機関等 | (バス停) 六枚橋東から徒歩約12分 |
| 御在位期間 | 645年~654年 |
大阪府南部、聖徳太子の御廟が鎮座する叡福寺に隣接し、二上山の山麓の静寂に包まれた地に孝徳天皇が眠る大阪磯長陵は佇んでいます。
日本初の元号を掲げ、難波の海に面した絢爛たる宮殿で新しい国の形を夢見ながらも、時代の激流と肉親たちの冷酷な離反の中で一人取り残され、無念のまま世を去った孝徳天皇。
陵丘を渡る爽やかな風の音と、緑深い樹々の揺らぎの中に立つとき、巨大な変革の影で理想と孤独の狭間に命を燃やし尽くした悲運の大王の志と、太古の寂寥が、いまも時を超えて深く胸へと迫ってきます。
















