第36代:孝徳天皇 〜大化の改新の旗手にして、「難波の都」に消えた悲劇の帝

第26-50代

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、日本の歴史において極めて大きな転換点となった「大化の改新」の時代に即位し、日本初の年号を定めた第36代・孝徳天皇のご生涯をご紹介します 。

孝徳天皇の治世は、まさに古い豪族中心の政治体制を打ち破り、天皇を中心とする新しい律令国家へと日本が生まれ変わるための、最初の大いなる一歩でした。

孝徳天皇の人物像・エピソード

第36代・孝徳天皇は、即位前を軽皇子(かるのみこ)と称され、本名は天万豊日尊(あめのよろずとよひのみこと)です。

気品高く聡明で、儒教的な教養にも深く通じた人物であったと伝えられていますが、若き日は政治の表舞台で目立つような過激な動きは見せず、穏やかに時を過ごされていました。しかし、時代の大きなうねりは彼を平穏のままにはしておきませんでした。

皇位をめぐる凄惨な争いや、蘇我氏による権力の専横が極まりつつあった645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らが朝廷のど真ん中で蘇我入鹿を暗殺するという、前代未聞のクーデター「乙巳の変」が勃発します。

この政変により、当時の皇極天皇(軽皇子の同母姉)が退位することとなり、次代の天皇として白羽の矢が立ったのが、他ならぬ軽皇子、すなわち孝徳天皇でした。

当時まだ若かった中大兄皇子は、自ら皇位に就くことによる政治的反発を避け、叔父にあたる軽皇子を立てることで、政治刷新の正当性とクリーンなイメージを世に示そうとしたのです。

 

孝徳天皇の功績

孝徳天皇が成し遂げた最大の功績は、何と言っても日本の歴史上初となる独自の年号「大化(たいか)」を定めたことが挙げられるでしょう。

それまでの日本には独自の年号がなく、独自の崩年や中国大陸の年号に頼らざるを得ない状況でした。

しかし、孝徳天皇が「大化」という年号を公式に掲げたことによって、日本は「中国の属国ではなく、東アジアにおいて対等な独立主権国家である」という強い意志を国内外に示しました。

この「大化」から始まった年号の伝統は、千三百年以上の時を経た現代の「令和」に至るまで、一度も絶えることなく脈々と受け継がれています。私たちが今も日常的に使用している年号という文化の礎を築いたことこそ、孝徳天皇の不滅の功績と言えるでしょう。

さらに、即位の翌年である646年には、国家の構造を根本から変革する「大化の改新の詔(みことのり)」を発布しました。

これにより、それまで各地の有力豪族が私有していた土地や人民をすべて国家(天皇)のものとする「公地公民制」が宣言され、班田収授の法や新しい税制(租・庸・調)の基盤が整えられることとなりました。

また奈良盆地である飛鳥の地を離れ、大阪の「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)」への遷都を敢行しました。

古い豪族たちの因習や勢力、権力闘争の垢が染み付いた飛鳥から離れ、海の玄関口であり外交の要所でもある難波の地に最先端の都を築く…

この大胆な遷都の決断は、古い時代を完全に終わらせ、天皇を中心とする新しい律令国家へと日本を生まれ変わらせるという、新政府の凄まじい執念とビジョンの現れだったのかも知れません。

 

孝徳天皇治世の時代背景と周辺エピソード

孝徳天皇が在位した7世紀半ばは、東アジア全体が激動の渦中にあった時代でした。

大陸では強大な中央集権国家である「唐」が誕生して周辺諸国への圧力を強め、朝鮮半島でも高句麗・百済・新羅の三つの国が覇権を争っていました。

日本が独立を保ち、大陸の脅威に対抗するためには、豪族たちが地方各地で割拠する古い政治体制を捨て、一刻も早く天皇を中心とする強力な中央集権国家を完成させなければならないという、極めて切迫した時代背景があったのです。

このような緊迫した時代に行われた大化の改新ですが、その舞台裏や実務者たちにまつわるエピソードには、現代の私たちにとっても非常に身近で興味深いものがたくさんあります。

大化の改新によって日本史上初めて、従来の慣例を破って大臣の座に就いた左大臣・阿倍内麻呂(あべのうちまろ)は現代の安倍元総理の先祖であり、右大臣として新政府を支えた蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)は麻生太郎氏の先祖であるとされているのです 。

千三百年以上前の「大化の改新」という国家の命運をかけた大改革の局面で、左大臣と右大臣として朝廷のツートップを張っていた二人の豪族のDNAが、現代の日本政府においても国政の最高中枢を支え合っていたという事実は、まさに歴史の壮大なロマンと言わざるを得ません 。難解な過去の出来事に見える歴史が、実は私たちの「今の暮らしや文化」の礎として地続きであるということを、これほど鮮やかに教えてくれる周辺エピソードはないでしょう 。

 

 

孝徳天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

孝徳天皇の朝廷は、古い特権を握り潰そうとする新勢力と、それに抵抗する守旧派、そして激しい身内の主導権争いが複雑に絡み合う、極めてスリリングな人間関係の上に成り立っていました。

まず、最大の敵対勢力であり、改革の最大の障害であったのが、朝廷内で絶対的な独裁権力を握っていた蘇我氏の本宗家(蘇我入鹿など)でした。彼らを打倒した「乙巳の変」によって新政府は誕生したわけですが、蘇我氏の影響力を完全に排除することは容易ではありませんでした。

そこで孝徳天皇の新体制では、それまで武内宿禰の子孫である豪族が代々独占していた朝廷の最高職「大臣(おおおみ)」の地位に、初めてそれ以外の氏族である安倍氏から阿倍内麻呂を左大臣として抜擢するという、革新的な人事を行っています。これにより、古い豪族の特権を破壊する姿勢を明確にしたのです。しかし、一変してすべての蘇我氏を敵に回すのは危険であるため、右大臣には蘇我氏の分家でありながらクーデター側に協力した蘇我石川麻呂を据えるという、絶妙な融和策と後ろ盾の構築を試みました。

しかし、この政権内の均衡は、皇太子である中大兄皇子の権力が肥大化していくにつれて、急速に崩壊へと向かいます。中大兄皇子は極めて冷徹な権力政治家であり、自らの理想とする国家像の邪魔になる者は、たとえ協力者であっても容赦なく排除していきました。現に、天皇の後ろ盾であり、新政府の右大臣であった蘇我石川麻呂も、後に謀反の冤罪をかけられて非業の死を遂げることとなります。

このように、天皇を支えるはずの豪族や親族が次々と失脚、あるいは離反していき、最終的には実の姉である皇極上皇や、最愛の妻である間人皇女までもが中大兄皇子の派閥へと寝返って、都を去っていきました。孝徳天皇を取り巻いた関連氏族や勢力との関係性は、一見すると華々しい近代化の盟友たちの集まりに見えますが、その実態は、若き天才政治家・中大兄皇子の影に翻弄され、最後はすべてを奪い去られていく天皇の、孤独な防戦の歴史であったのです。

 

孝徳天皇陵の基本情報

天皇名:第36代 孝徳天皇(諱:軽皇子 / 天万豊日尊)

御父:押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)

御母:糠手姫皇女(田村皇女)

御陵名:畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)※なお、『歴代天皇一覧表』の底本における記載や、大阪の地との関連から、天皇が永遠の眠りについていらっしゃる墓所は「大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)」として現在管理されています 。

陵形:円墳

所在地:大阪府南河内郡太子町山田

交通機関等:近鉄南大阪線「上ノ太子駅」下車、または近鉄長野線「喜志駅」から金剛バスに乗り換え、「孝徳天皇陵前」バス停下車すぐ

御在位期間(西暦):645年 〜 654年

 

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