第43代:元明天皇 〜平城京遷都と和同開珎の鋳造を成し遂げた、中継ぎの女帝

第26-50代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は飛鳥から奈良への橋渡しを行い、日本史上最も華やかな「奈良時代」の扉を開いた第43代:元明天皇(げんめいてんのう)をご紹介します。

彼女は天智天皇の娘であり、文武天皇の母にあたります。息子の急逝を受け、孫である首皇子(後の聖武天皇)が成長するまでの中継ぎとして即位しましたが、その治世は「中継ぎ」という言葉では片付けられないほど、歴史的な大事業のオンパレードでした。

元明天皇の人物像・エピソード

第43代天皇である元明天皇の本名は阿閇皇女(あへのみこ)と名付けられました。彼女は第38代:天智天皇の娘であり、後に天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子の正妃となっています。

しかし、夫である草壁皇子は即位を目前にしながらも若くしてこの世を去ってしまいます。その後、彼女の息子である珂瑠皇子が第42代:文武天皇として即位しましたが、文武天皇もまた25歳という若さで崩御するという度重なる悲劇に見舞われました。

 

首皇子の即位を願い皇統を繋いだ元明・元正天皇

当時の慣習では、次期天皇となるべき文武天皇の第一皇子である首皇子(後の第45代:聖武天皇)はまだ幼少であり、即位することができませんでした。

そのため、首皇子が成長して皇位を継承できる年齢に達するまでの「中継ぎ」として、母親である阿閇皇女が即位することとなりました。これが元明天皇の誕生です。

奈良時代前半における女性天皇の多くは、天皇家直系の血統を守るための中継ぎとしての役割を強く求められており、元明天皇自身、最愛の夫や息子の早世という深い悲しみを抱えながらも、血統の存続と国家の安定という重い使命感を担って玉座に就きました。

さらに715年には、首皇子が成人するまでのさらなる中継ぎとして、娘である氷高皇女(第44代:元正天皇)へ皇位を譲り、日本史上初となる女帝から女帝への皇位継承を行いました。

みずからの私情を排し、天皇家全体の未来のために生涯を捧げた気高き女性であったと言えます。

 

平城京への遷都と貨幣鋳造、歴史編纂の断行

元明天皇は中継ぎの天皇という立場でありながら、その治世において日本古代史の方向性を決定づける極めて重大な国家事業を次々と成し遂げました。

具体的には「平城京遷都」「貨幣制度の整備」、そして「国家の歴史書および地誌の編纂」です。

 

平城京への遷都

第一の功績は、七一〇年に断行された「平城京遷都」です。それまでの藤原京から、唐の都である長安城をモデルとした壮大で計画的な都城である平城京へと首都を移しました。

これにより、日本の政治、経済、文化の中心が飛鳥から奈良へと移り、華やかな天平文化が花開く「奈良時代」が名実ともに幕を開けることとなりました。

この遷都は、天皇を中心とする律令国家の権威を国内外に誇示するための国家的な一大プロジェクトでした。

 

日本初の流通貨幣:和同開珎の鋳造を開始

第二の功績は、七〇八年に武蔵国から良質な銅が献上されたことを契機とした貨幣鋳造です。天皇はこの瑞祥を大いに喜び、元号を「和銅」へと改めました。

そして、この献上された銅を用いて、日本初の本格的な流通貨幣とされる和同開珎の鋳造を開始しました。国家が公式に銭貨の価値を保証し、流通を促進するために、銭を貯蓄した額に応じて位階を授ける「蓄銭叙位令」などの法律も整備しました。

なお、近年の考古学的発見により、和同開珎以前にも「富本銭」や天智天皇期の「無文銀銭」が存在していたことが確認されていますが、律令制度の枠組みの中で全国的な流通を目的として組織的に発行された貨幣としては、和同開珎の創出は極めて先駆的な経済政策であったと評価されています。

 

古事記と風土記の編纂

第三の功績は、歴史書および地誌の編纂事業の推進です。

国家の成り立ちと天皇家の正統性を内外に明確に示すため、元明天皇は太安万侶に命じて七一二年に『古事記』を完成させました。

さらに翌七一三年には、日本全国の諸国に対して、各地の産物、地理的特徴、土地の由来、長年にわたり伝わる伝承などを詳細に記録した『風土記』の編纂を命じました。

これらの事業により、日本という国家の歴史的アイデンティティと行政的な統治基盤が同時に確立されることとなりました。

 

元明天皇治世の時代背景

元明天皇が在位した八世紀初頭は、大宝律令が施行されてから間もない時期であり、日本が中国風の高度な法治国家(律令国家)へと急速に生まれ変わりつつあった激動の過渡期にあたっていました。

遣唐使を通じて大陸の最先端の技術、仏教文化、政治思想が絶え間なく流入し、それまでの豪族連合的な社会体制から、天皇を頂点とする中央集権的な統治システムへと国家のあり方が根本から再編されていました。

また、この時代の統治は、目に見える都市建設だけでなく、民衆の生活を法と経済の制度によって管理するという実務的な側面が重視されていました。

貨幣の流通や、律令に基づく戸籍・計帳の整備などは、すべて国家が民衆から確実に税を徴収し、財政を安定させるための施策でした。

元明天皇の治世は、華やかな都の繁栄の陰で、国家全体の行政機構を冷徹かつ効率的に稼働させるための、厳格な法治社会の基盤が整えられた時代であったと言えます。

 

元明天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

元明天皇の数々の壮大な国家事業を実務面で強力に支え、実質的に政権を牽引した最大の関連氏族は、藤原氏の祖である藤原不比等でした。

 

藤原不比等による権力の掌握

不比等は大宝律令の編纂にも関与した宮廷随一の実力者であり、元明天皇の治世下においては右大臣の地位にあって絶大な権力を掌握していました。

不比等の政治的手腕において特筆すべきは、あえて最高位である左大臣への昇進を望まず、右大臣の地位に留まり続けた点です。

これは、自らが左大臣に就任した場合、慣習によって空席となった右大臣のポストに他の有力な貴族氏族が登用され、結果として権力が分散してしまうことを避けるための高度な政治的計算でした。

不比等は右大臣という立場のまま、朝廷の実務を完全に掌握し、さらに『古事記』やその後の『日本書紀』の編纂事業にも深く関与することで、未来永劫にわたる藤原氏の繁栄と権威の土台を強固なものにしていきました。

元明天皇は、不比等との間に強固な信頼関係を築き、二人三脚で新都の造営や法制度の確立を推し推めました。

 

元明天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 元明天皇(げんめいてんのう)
本   名 阿閇皇女(あへのひめみこ)
御   父 天智天皇(てんぢてんのう)
御   母 姪娘(めいのいらつめ)
御 陵 名 奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)
陵   形 山形
所 在 地 奈良県奈良市奈良阪町
交通機関等 JR/近鉄「奈良駅」よりバス
(バス停) 奈保山御陵から徒歩約5分
御在位期間 707年〜715年

元明天皇が静かに眠る奈保山東陵は、彼女自身が建設を主導した平城京の北側に広がる穏やかな丘陵地に位置しています。

そのすぐ東側には、自らの意志を継いで即位した娘・元正天皇の奈保山西陵が並んでおり、激動の時代において皇統を守り抜いた母娘の深い絆を今に伝えています。

幾多の悲しみを乗り越え、日本の法と歴史、放置国家としての新たな都の基礎を完成させた女帝の御陵は、現在も静寂に包まれ、訪れる者に律令国家黎明期の壮大な歴史を静かに語りかけています。

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