ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、父・天智天皇の遺志を継ぎながらも、古代史上最大の内乱である壬申の乱の激流に飲み込まれ、わずか数ヶ月の在位で命を散らすことになった第39代:弘文天皇(こうぶんてんのう)の御生涯をご紹介します。
湖国の風が吹き抜ける近江大津宮に漂う儚き夢と、時代の波乱に命を懸けた若き帝の不屈の足跡を、ともに辿ってみましょう。
弘文天皇の人物像・エピソード
弘文天皇は大友皇子(おおとものみこ)、あるいは母の出身地から伊賀皇子と呼ばれていました。
648年(大化4年)、乙巳の変を経て大化の改新を主導した第38代:天智天皇の長男であり、母は伊賀国の地方豪族の娘である伊賀采女宅子娘でした。
天智天皇にも愛された、聡明で人望のある教養人
大友皇子の人物像は、古代の史書『日本書紀』や日本最古の漢詩集『懐風藻』において、非常に聡明で博学多才、かつ武芸にも長けた優れた人物として記されています。
性格は寛大で人望があり、若くして古典や学問に精通。
特に詩文の才に長けており、『懐風藻』には大友皇子が詠んだ優雅で格調高い漢詩が収められており、学問や文化を深く愛した教養人としての素顔が窺えます。
父である天智天皇からの期待と信頼は高いものがありました。
天智天皇は自らが進める中央集権的な国家建設の跡継ぎとして大友皇子を深く重用し、24歳という若さで新設された朝廷の最高職である”太政大臣”に任命します。
母方の出自の低さが皇位正統性のネックに?
しかし、この大友皇子の抜擢は、皇室内部に決定的な亀裂を生むこととなります。
当時、朝廷内には天智天皇の同母弟である大海人皇子(後の第40代:天武天皇)が存在し、有力な後継者と目されていました。
さらに、大友皇子の母・宅子娘が地方の采女(地方豪族から差し出された女性)という低い出自であったことも、血統の厳格さを重んじる当時の豪族たちの間に反発を呼んだとされています。
※ちなみに皇位継承のライバルでもあり叔父でもある大海人皇子は、父に舒明天皇・母に斉明天皇という、超がつくほどのサラブレッドと言える血統でした。
自らの優秀さと父からの寵愛を武器に皇太子かつ日本初の太政大臣となったものの、血統的な制約や偉大なカリスマとして名を残すことになる叔父(大海人皇子・天武天皇)の存在が、大友皇子の運命を大きく揺さぶることとなるのでした。
古代日本最大の内乱:壬申の乱に敗戦
672年(天智天皇10年/天武天皇元年)、父・天智天皇が崩御すると、大友皇子は近江朝廷を引き継ぐことになりますが、吉野で挙兵した大海人皇子との間で、古代史上最大の内乱である壬申の乱が勃発します。
地方豪族や東国の武士団を味方につけた大海人皇子の軍勢に対し、中央の伝統的な豪族たちを率いた近江朝廷側は瀬田川の戦いなどで壊滅的な敗北を喫します。
追いつめられた大友皇子は、自ら首をくくって自害します。父である天智天皇の死からわずか227日、大友皇子自身は25歳という若さでありました。
実は敗者となった大友皇子は、長年にわたり正統な天皇として公認されず、歴史の闇に埋もれていました。
しかし、江戸時代の『大日本史』編纂における史実再評価などを経て、明治3年(1870年)に明治天皇によって弘文天皇の諡号が正式に贈られ、正式に第39代天皇として歴代天皇の列に治定されることになります。
太政大臣としての律令制整備と近江文化の興隆
弘文天皇の歴史的功績は、日本史上初となる太政大臣として父・天智天皇の改革を実務面から支え、律令国家の基礎となる行政組織の整備と近江大津宮における文化の振興を推し進めた点にあります。
日本初の太政大臣として中央集権政治を主導
671年(天智天皇10年)、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命し、左大臣・蘇我赤兄、右大臣・中臣金らとともに朝政を統括させました。
これは単なる親任人事にとどまらず、合議制を中心としていた従来の豪族政治から、官僚機構を頂点から統制する中央集権的な律令政治への移行を目指した画期的な試みでありました。
大友皇子は若くして国家機構の最高責任者となり、日本初の本格的な法典とされる近江令の施行や、全国的な戸籍:庚午年籍の作成など、天智政権の重要施策の推進において中心的役割を果たしました。
宮廷文化および学問の振興
第二の実績は、近江大津宮を中心とした宮廷文化および学問の振興です。
大友皇子は中国の先進的な政治制度や文学を深く学んでおり、宮中において詩宴や学問の講義を頻繁に開催したとされています。
こうして友皇子を中心として形成された文人サロンは、飛鳥時代の文化とは一線を画す、漢文学の教養を重視した近世的な宮廷文化を創出し、後に編纂された『懐風藻』に収められた数々の作品群として結実することになります。
また、この学問に対する情熱と文化的な血脈は、悲劇的な敗北を経ても途絶えることはありませんでした。
壬申の乱を生き延びた大友皇子の第一皇子・葛野王は、持明院において行われた文武天皇擁立の会議に際し、直系継承(子孫相承)の重要性を毅然と主張して皇位継承の乱れを防ぐ決定的な役割を果たすことになります。
また、さらにその曾孫にあたる淡海三船は、神武天皇から文武天皇に至る歴代天皇の和風諡号を一括して選定するなど、古代屈指の学者として大成し名を残すことになります。
国家の法体制を整え、文化の種を蒔いた弘文天皇の実績は、政権の瓦解を超えて後世の日本文化や歴史体系の形成へ決定的な足跡を残すこととなりました。
弘文天皇治世の時代背景
弘文天皇が在位した671年から672年という時期は、白村江の戦い(663年)における唐・新羅連合軍への敗北を経て、日本列島が外敵からの侵略という未曾有の国際的危機に直面していた時代でした。
国防施策の強化、蓄積する豪族たち・民衆の不満
父である天智天皇は、東アジアの緊張情勢に対応するため、九州沿岸への防人や水城の設置、西日本各地への古代山城(大野城や基肄城など)の築造といった国防強化を急速に推し進めます。
同時に、防衛の拠点を安全な内陸部へ移すため、都を飛鳥から近江の地(近江大津宮、現在の滋賀県大津市)へと移転していました。
国際的な危機に備えたこの過酷な遷都や民衆への膨大な労役の強制は、畿内の伝統的な豪族や民衆の間に強い不満と疲弊を蓄積させる結果となりました。
日本最古の漢詩集『懐風藻』に残る文学的才能
弘文天皇は前述の通り、天皇は『懐風藻』の筆頭に作品が掲げられるほどの高い文学的才能を持ち、宮中において詩宴を催すことを好んでいました。
懐風藻に残る2首、『侍宴(うたげにじす)』と『述懐(おもいをのぶ)』:立場への重圧と悲劇の予兆をご紹介しておきましょう。
『侍宴(うたげにじす)』:華やかな近江朝の絶頂をうたったもの
【原文】
皇明光日月 帝徳載天地 三才並泰昌 萬國表臣義【現代語訳】
天子(父:天智天皇)の威光は太陽や月のように輝き、帝の尊い徳は天地いっぱいに満ちている。
天・地・人のすべてが太平に栄え、四方の国々は臣下としての礼義を尽くしている。『述懐(おもいをのぶ)』:立場への重圧と悲劇の予兆
【原文】
道徳承天訓 鹽梅寄眞宰 羞無監撫術 安能臨四海【現代語訳】
天の与えた道義と教えを受け継ぎ、国の政務を調和させる大任を最高権力者から託された。
しかし恥ずかしいことに、私には国や民を治め導く才能や術がない。
このような私に、どうして天下の政治を統率することなどできようか
弘文天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
弘文天皇を取り巻く人間関係は、父・天智天皇からの後継指名、母方である伊賀氏の非力さ、近江朝廷を支えた中央豪族たちとの同盟、そして叔父である大海人皇子との壮絶な宿命の対立によって形作られていました。
血統の弱さを補い、豪族たちを左右大臣へ
血縁関係において、父は第38代:天智天皇、母は伊賀采女宅子娘です。
母方の伊賀氏は地方の小豪族に過ぎなかったため、中央政界において大友皇子を強力に支える外戚勢力が存在しませんでした。
この外戚の弱さを補うため、天智天皇は左大臣の蘇我赤兄、右大臣の中臣金、御史大夫の巨勢人や蘇我果安といった中央の主要豪族たちを朝廷の要職に配置し、大友皇子を支える体制を構築しました。
正妃には、叔父である大海人皇子の娘・十市皇女(とおちのひめみこ)を迎えました。
しかし、この婚姻は大友皇子にとって悲劇的な葛藤を生むこととなります。
壬申の乱の発生により、十市皇女は自らの父と夫が命を懸けて殺し合うという凄絶な板挟みに苦しむこととなりました。大友皇子の自害後、十市皇女は悲しみのうちに若い死を遂げたと伝えられています。
歴史に名を残した後裔たち
二人の間には第一皇子である葛野王(かどののおう)が誕生しました。
葛野王は壬申の乱を生き延び、その系統からは後に歴代天皇の和風諡号(神武天皇や聖武天皇などの送られた名称)を一覧として選定したとされる古代屈指の学者・淡海三船(おうみのみふね)が生まれます。
先述の通り、国家の法体制を整え、文化の種を蒔いた弘文天皇の実績は、政権の瓦解を超えて後世の日本文化や古代史の体系形成へな足跡を残すこととなるのでした。
叔父:大海人皇子との対立
最大の敵対勢力となったのが、叔父である大海人皇子(天武天皇)です。
天智天皇の生前、大海人皇子は皇太弟として絶大な影響力を持っていましたが、大友皇子の台頭と天智天皇の意図を察知し、吉野へと隠遁しました。天智天皇の崩御後、大海人皇子は東国の豪族勢力や地方の軍勢を急速に動員して挙兵しました。
壬申の乱において、近江朝廷は大友皇子を中心に中央集権的な官僚機構に依存して戦いましたが、地方で実力を蓄えた大海人皇子側の機動力と激しい野戦の前に敗れ去りました。
近江朝廷を支えた中臣金は処刑され、蘇我赤兄らは流罪となりました。武力闘争によって敗北した弘文天皇の最後は、古代国家が中央集権へと向かう過渡期における血縁の抗争と豪族対立の惨禍を象徴しています。
弘文天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 弘文天皇(こうぶんてんのう) |
| 本 名 | 伊賀大友皇子(いがおおとものみこ) |
| 御 父 | 天智天皇(てんぢてんのう) |
| 御 母 | 伊賀采女宅子娘(いがのうねめ) |
| 御 陵 名 | 長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 滋賀県大津市御陵町 |
| 交通機関等 | JR 大津京駅から徒歩約10分 京阪 大津市役所駅から徒歩約5分 |
| 御在位期間 | 671年~672年 |















