第40代:天武天皇 〜初めて”天皇”を称し国号「日本」を定めた古代屈指のカリスマ

第26-50代

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、第40代:天武天皇(てんむてんのう)を取り上げます。

天武天皇は、日本史上最大の内乱である壬申の乱において勝利を収め、それまでの豪族連合的な国家体制を一新した人物です。「大王」に代わる「天皇」という君主号を本格的に導入し、律令国家の基礎を固めました。

大王家の権威を神格化へと導いたその激動の生涯と、現代にまで影響を与える新国家創出の足跡について詳しく紐解いていきましょう。

 

天武天皇の人物像・エピソード

天武天皇は、即位する以前の親王時代には大海人皇子(おおあまのおうじ)と申し上げました。その幼名や初期の経歴の背景には、海を舞台に活躍した「海人の文化」との深い繋がりが存在したことが複数の研究や伝承によって指摘されています。天武天皇が多感な時期を過ごした環境は、当時の伝統的な近畿中心の宮廷権力構造から一定 of 距離を置いた、地方や海の勢力に支えられた独自の文化圏であったとされ、この成長背景がのちの大胆な国家改革や専制政治の原動力になったと考えられています。

天武天皇の若き日の人となりや、優れた政治的判断力を伝える有名なエピソードとして、兄である天智天皇の治世下における身の処し方が挙げられます。大海人皇子は当時、有力な皇位継承候補として東宮(皇太子)の地位にありましたが、天智天皇が自身の息子である大友皇子(弘文天皇)へと皇位を継承させようとする強い意志を察知すると、宮廷内での不必要な対立を避けるために自ら身の危険を避ける決断を下しました。彼は出家を申し出て髪を剃り、近江の朝廷を去って吉野山へと隠棲したのです。この、無謀な衝突を避けて一歩退き、機が熟すのを静かに窺う姿勢からは、単なる武骨な武人ではなく、極めて冷静で高い洞察力を持った政治家としての確かな一面を見て取ることができます。

また、天武天皇の精神世界や思想的背景を語る上で、中国から伝来した道教に対して非常に深い傾倒を示していた事実は見逃せません。彼が崩御した際、自身の御陵を当時の伝統的かつ主流であった前方後円墳ではなく、宇宙の根源的な秩序や太極を象徴する「八角形」の墳墓(八角墳)に定めさせ、最愛の后である持統天皇と共に合葬されることを強く望んだことも、彼の道教的な宇宙観や美意識を色濃く反映した選択でした。

八色の姓の制定と天皇号の導入による専制君主制の確立

天武天皇が主導した最大の功績は、日本の歴史上最大級の内乱である壬申の乱を自らの手で平定したのち、圧倒的な実力をもって日本の支配権を掌握し、天皇を頂点とする中央集権国家の強固な骨格を一気に築き上げたことにあります。

国家の制度改革においてまず行われたのが、それまで諸豪族の緩やかな連合体におけるリーダーとしての呼び名であった「大王」という称号の廃止と、公式な「天皇」という最高君主号の導入でした。この「天皇」という言葉は、彼が深く関心を寄せていた中国の道教における天上の最高神「天皇大帝」に由来する言葉であり、地上の支配者を絶対的な神格化へと導くための高度な政治的意図が込められていました。実際に、近年の考古学的な発見における木簡やその他の銘文資料においても、この天武天皇の治世以降から「天皇」の二文字が明確に現れるようになり、その支配の正当性を証明しています。

さらに天武天皇は、684年に「八色の姓(やくさのかばね)」と呼ばれる画期的な身分秩序を制定しました。これは、氏姓制度が始まって以来、各地の有力豪族が代々持っていた旧来の特権的な地位や特権を一度解体・再編し、天皇への貢献度や血縁の近さに応じて、新たに八つの階級を授与する制度でした。その最上位には、道教において仙人のように尊ばれる最高位の名称から取った「真人(まひと)」を配し、天武天皇自身の直接の血を引く皇子や近親の皇族たちをこの地位に据えることで、天皇を中心とする強固な皇親政治の体制を確立しました。このように、伝統的な有力豪族の権力を大幅に抑制し、宮廷に仕える大宮人たちが天皇を「神」として崇めるような「荒人神」の思想的土台を作り上げたことは、日本の君主制の在り方を決定づけた巨大な歴史的実績です。

 

天武天皇治世の時代背景

天武天皇が国を治めた7世紀後半は、朝鮮半島における白村江の戦い以降、東アジアの国際情勢が極めて緊迫し、国内では大化 of 改新以降の国体改革が急速に進められていた激動の時代でした。兄である天智天皇が崩御した直後に勃発した「壬申の乱(672年)」では、大友皇子を擁する近江朝廷の中央豪族たちに対し、大海人皇子は東国や地方の豪族たちを巧みに味方につけて進軍し、激しい戦闘の末に勝利を収めました。この内乱の平定により、近江朝廷は崩壊し、天武天皇は都を再び飛鳥の地へと戻して「飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)」を造営し、自らの新体制を始動させる治世となりました。

この新しい治世下では、国家の正当な歴史を天下に証明するための「危機(記紀、すなわち古事記・日本書紀)」の本格的な編集作業も開始されました。天武天皇の時代には、内容の吟味や時代の混乱により編纂作業が難行したために一旦休止を余儀なくされましたが、この取り組みはのちの持統天皇や元明天皇の時代における歴史書の完成へと繋がる極めて重要な第一歩となりました。もしこの天武天皇の時代に国史の編纂が完了していたならば、天武天皇自身が育ち、親しんだ天の文化や海の文化の影響が強く反映され、大和王権の初代大王は神武天皇ではなく、別の神や祖先から始まる物語になっていたのではないかという興味深い議論も存在します。

天武天皇の趣味やゆかりの地としては、内乱の直前に身を隠し、起死回生の兵を挙げた聖地である「吉野山」や、新体制の拠点となった「飛鳥浄御原宮」が深く結びついています。また、彼の思想や治世の背景についてより多角的なアプローチを試みる際には、ファイル「みささぎめぐりの考え方_2」や、ファイル「The West Princess and the Kingdom of Toma_2」といった関連資料が提供する歴史的枠組みを検証していくことで、記紀の公式な記述の裏に隠されたリアルな王権誕生のプロセスや、地方勢力とのダイナミックな関わり合いをより深く体系的に理解することができます。

天武天皇と関連氏族・敵対勢力

天武天皇の権力構造やその生涯における対立を語る上で欠かせないのが、壬申の乱における「大友皇子(弘文天皇)」を中心とする近江朝廷の有力諸豪族との敵対関係です。天武天皇は、大友皇子が身分の低い采女の出自であったことを明確に意識しており、近江の廷臣たちが大友皇子を擁立して王権を維持しようとする動きに対して、決定的な政治的対立を生じさせていました。この内乱において、天武天皇は中央の豪族に対抗するため、地方の豪族や自身の血縁関係を巧みに利用して強固な包囲網を築き、最終的に近江朝廷を完全に打倒することに成功しました。

内乱平定後の天武朝において後ろ盾となったのは、それまでの近畿中心の有力豪族ではなく、彼を戦流の中で支持した東国などの地方豪族や、天皇自身の直系皇族たちでした。また、政治的な伴侶であり最大の理解者として最も重要な存在だったのが、天智天皇の娘であり、天武天皇の后となった「鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」、のちの持統天皇です。彼女は天武天皇の強力な専制政治を最も近くで支え、天皇の崩御後には自ら即位して天武天皇の遺志を継ぎ、藤原京への遷都や大宝律令への道を推進しました。

しかし、強大な権力を確立した一方で、家族関係における悲劇も存在しました。天武天皇と持統天皇の間に生まれた最有力の後継者であった「草壁皇子(くさかべのおうじ)」は、次代の天皇となることが確実視され、天武天皇も大いなる期待を寄せていましたが、若くして薨去してしまいます。この最愛の皇子の死は、天武朝が描いていた完璧な後継者計画に大きな狂いを生じさせ、結果として持統天皇自身が臨時の措置を超えて正式に即位する直接の契機となりました。このように、敵対勢力を徹底的に排除して絶対的な王権を確立した一方で、次代へ血統を繋ぐための血縁内での葛藤や悲劇もまた、彼の治世の裏面に深く刻まれています。

天武天皇は、海部氏との関係性が伺えるエピソードが数多くあります。

『日本書紀』の天武天皇 崩御の段では、最初に弔辞を述べた凡海 麁鎌(おおあま の あらかま)が幼少期のことをしのんでおり、幼い頃に凡海氏(大海とも。海部氏・安曇氏と同祖)との繋がりがあったことが示唆されます。

また壬申の乱で吉野を出立した大海人皇子は、尾張大隅(おわりのおおすみ)から邸宅と軍資金(一説には2万の軍勢も)を提供されています。 ※尾張氏も海部氏と同祖。

歴史書の編纂に際し、初代大王を神武天皇としたのも、大海人皇子自身と海部氏との関係性を意識したためではないかと思えてなりません。

 

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