ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、第40代:天武天皇(てんむてんのう)を取り上げます。
日本史上最大の内乱である壬申の乱において勝利を収め、それまでの豪族連合的な国家体制を一新した人物です。それまでの”大王”に代わる”天皇”という君主号を本格的に導入し、律令国家の基礎を固めました。
大王家の権威を神格化へと導いたその激動の生涯と、現代にまで影響を与える新国家創出の足跡について詳しく紐解いていきましょう。
天武天皇の人物像・エピソード
天武天皇は、大海人皇子(おおあまのおうじ)と名付けられました。和風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬかはらおきのまひとすめらみこと)と称されます。
父は舒明天皇であり、母は皇極天皇(齊明天皇)という高貴な血統の生まれです。同母兄には大化の改新を主導した天智天皇(中大兄皇子)、同母姉には孝徳天皇の皇后でもある間人皇女がいました。
同母兄 中大兄皇子との関係性
大海人皇子の前半生は、偉大な同母兄である天智天皇の陰に隠れつつ、政治的危機を鋭い洞察力で回避し続ける慎重な歳月だったようです。
蘇我本宗家を排除した乙巳の変以降、天智天皇の側近として政務を支え、東国の皇地や軍事の掌握に貢献していました。しかし、二人の間には常に目に見えない政治的緊張感が漂っていたという考察もあるようです。
歴史小説などでは絶世の美女として描かれる額田王(ぬかたのおおきみ)を巡った万葉集に残る相聞歌の存在や、近江宮の宴席において大海人皇子がいきなり長槍を床に突き刺して激怒し、藤原鎌足が諌めたという説話は、兄弟間に存在した深い個人的・政治的対立を感じさせるエピソードでしょう。
大友皇子との対立を避け、吉野への隠棲と出家
天智天皇が即位し、自らの実子である大友皇子(後の第39代:弘文天皇)を太政大臣に据えて後継者に立てようと画策すると、大海人皇子の立場は極めて危険なものとなりました。
671年、病床に伏した天智天皇から皇位の譲位を打診された際、蘇我安麻呂の忠告を受けた大海人皇子はその罠を見抜き「私には政務を執る能力がありません。皇后(倭姫王)が即位し、大友皇子がお助けになるのが最善です。私は出家して仏道に専念いたします」と即座に辞退。
大海人皇子は直ちに剃髪して僧服を纏い、髪を乱した姿で着の身着のまま吉野の山中へと逃れました。近江朝廷の臣下たちは、虎に翼を与えて野に放ったようなものだと恐れ慄いたと伝えられます。
東国の武力を味方につけ壬申の乱に勝利
672年、天智天皇の崩御に伴い、吉野で挙兵した大海人皇子は壬申の乱を起こしました。
自ら甲冑を着用し、東国の野に散らばる兵を急速に集めて鈴鹿関や不破関を封鎖します。これは近江朝廷による東国からの兵の招集を防ぐためだったようです。
大海人皇子自身は、尾張氏の支援を得つつ東国の武力を味方につけると、疾風怒濤の機動戦により、近江朝廷の軍勢を各地で撃破し、大友皇子を自殺へ追い込む形で古代日本屈指の争いに勝利します。
記録から推察される人となりとしては、鋭い軍事的手腕と冷徹な政治的判断力を併せ持つ一方で、天文や占星術、道教、密教の秘法に対して深い造詣を持つ知性派でもあったことが伺えます。
夜空の星の動きを見て吉凶を占い、自らの軍事行動の決定に活かしたというエピソードは、彼が単なる武人にとどまらず、神秘的な権威を自らに纏わせようとした高度な演出家であったことを示しています。
道教的な価値観が色濃く反映された政治的思想
また、天武天皇の精神世界や思想的背景を語る上で、中国から伝来した道教に対して非常に深い傾倒を示していた事も興味深い一面と言えるかも知れません。
天武天皇が崩御した際、当時の伝統的かつ主流であった前方後円墳ではなく、宇宙の根源的な秩序や太極を象徴する八角形の墳墓(八角墳)に定めさせました。
また、最愛の后でのちに持統天皇なる鸕野讚良姫と共に合葬されることを望んだことも、彼の道教的な宇宙観や美意識を色濃く反映した選択だったと思われます。
“天皇”による専制君主制の確立と、八色の姓の制定
天武天皇は、古代日本でも屈指のカリスマとして非常に多くの功績を残しています。
最も大きな功績は、日本の歴史上最大級の内乱である壬申の乱を自らの手で平定したのち、天皇を頂点とする中央集権国家の強固な骨格を一気に築き上げたことにあると言えるでしょう。
その具体的な施策として、初めて”天皇”を名乗り、天皇への貢献度・血統の近さを重視した八色の姓の制度を導入しました。
“大王”から”天皇”へ。新たな最高君主号の導入
国家の制度改革においてまず行われたのが、それまで諸豪族の緩やかな連合体におけるリーダーとしての呼び名であった“大王”という称号の廃止と、“天皇”という最高君主号の導入でした。
この”天皇”という言葉は、彼が深く関心を寄せていた中国の道教における天上の最高神:天皇大帝に由来する言葉であり、地上の支配者を絶対的な神格化へと導くための高度な政治的意図が込められていました。
最近の考古学的な発見における木簡やその他の銘文資料においても、この天武天皇の治世以降から”天皇”の二文字が明確に現れるようになり、その支配の正当性を証明しています。
八色の姓制度による皇親政治体制の確率
さらに天武天皇は、684年に八色の姓(やくさのかばね)と呼ばれる画期的な身分秩序を制定ます。
これは氏姓制度が始まって以来、各地の有力豪族が代々持っていた旧来の特権的な地位や特権を一度解体・再編し、天皇への貢献度や血縁の近さに応じて、新たに八つの階級を授与する制度でした。
この制度によって、古代出雲の王族勢力に多く見られた「臣」、渡来系勢力に見られた「連」、皇別氏族にみられた「公」などは廃止されることになります。
その最上位には、道教において仙人のように尊ばれる最高位の名称から取った真人(まひと)を配し、天武天皇自身の直接の血を引く皇子や近親の皇族たちをこの地位に据えることで、天皇を中心とする強固な皇親政治の体制を確立しました。
このように、伝統的な有力豪族の権力を大幅に抑制し、宮廷に仕える大宮人たちが天皇を神として崇めるような現人神の思想的土台を作り上げたことは、日本の君主制の在り方を決定づけた実績と言えるでしょう。
天武天皇治世の時代背景・周辺エピソード
天武天皇が国を治めた7世紀後半は、朝鮮半島における白村江の戦い以降、東アジアの国際情勢が極めて緊迫し、国内では大化の改新以降の国体改革が急速に進められていた激動の時代でした。
天智天皇の崩御が発端となった”壬申の乱”
兄である天智天皇が崩御した直後に勃発した壬申の乱(672年)では、大友皇子を擁する近江朝廷の中央豪族たちに対し、大海人皇子は東国や地方の豪族たちを巧みに味方につけて進軍し、激しい戦闘の末に勝利を収めました。
この内乱の平定により、近江朝廷は崩壊し、天武天皇は都を再び飛鳥の地へと戻して飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造営し、自らの新体制を始動させる治世となりました。
日本の正史:記紀の編纂がスタート
この新しい治世下では、国家の正当な歴史を天下に証明するための記紀(すなわち古事記・日本書紀)の本格的な編集作業も開始されました。
天武天皇の時代には、内容の吟味や時代の混乱により編纂作業が難行したために一旦休止を余儀なくされるのですが、天武天皇が始めたこの取組みこそが、のちの持統天皇や元明天皇の時代における歴史書の完成へと繋がる最初の一歩となりました。
天武天皇と関連氏族・敵対勢力
天武天皇の権力構造、またその生涯における対立を語る上で欠かせないのが、壬申の乱における大友皇子(弘文天皇)を中心とする近江朝廷の有力諸豪族との敵対関係です。
天智-弘文からなる近江勢力との対立
天武天皇は、大友皇子が身分の低い采女の出自であったことを明確に意識しており、近江の廷臣たちが大友皇子を擁立して王権を維持しようとする動きに対して、決定的な政治的対立を生じさせていました。
この内乱において、天武天皇は中央の豪族に対抗するため、地方の豪族や自身の血縁関係を巧みに利用して強固な包囲網を築き、最終的に近江朝廷を完全に打倒することに成功しました。
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東国の豪族、自らの皇子たちとの協力
内乱平定後の天武朝において後ろ盾となったのは、それまでの近畿中心の有力豪族ではなく、彼を戦流の中で支持した東国などの地方豪族や、天皇自身の直系皇族たちでした。
また、政治的な伴侶であり最大の理解者として最も重要な存在だったのが、天智天皇の娘であり、天武天皇の后となった鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、のちの持統天皇です。
彼女は天武天皇の強力な専制政治を最も近くで支え、天皇の崩御後には自ら即位して天武天皇の遺志を継ぎ、藤原京への遷都や大宝律令への道を推進しました。
しかし、強大な権力を確立した一方で、家族関係における悲劇も存在しました。
天武天皇と持統天皇の間に生まれた最有力の後継者であった草壁皇子は、次代の天皇となることが確実視され、天武天皇も大いなる期待を寄せていましたが、若くして薨去してしまいます。
この最愛の皇子の死は、天武朝が描いていた完璧な後継者計画に大きな狂いを生じさせ、結果として持統天皇自身が臨時の措置を超えて正式に即位する直接の契機となりました。
大海人皇子と海部氏との強い関係性
また実は、天武天皇には海部氏との関係性が伺えるエピソードが数多くあります。
『日本書紀』の天武天皇 崩御の段では、最初に弔辞を述べた凡海 麁鎌(おおあま の あらかま)が幼少期のことをしのんでおり、幼い頃に凡海氏(大海とも。海部氏・安曇氏と同祖)との繋がりがあったことが示唆されます。
また壬申の乱で吉野を出立した大海人皇子は、尾張大隅(おわりのおおすみ)から邸宅と軍資金(一説には2万の軍勢も)を提供されています。 ※尾張氏も海部氏と同祖。
歴史書の編纂に際し、初代大王を神武天皇としたのも、大海人皇子自身と海部氏との関係性を意識したものだったのでしょうか?
天武天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 天武天皇(てんむてんのう) |
| 本 名 | 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと) /大海人皇子(おおあまのおうじ) |
| 御 父 | 舒明天皇(じょめいてんのう) |
| 御 母 | 齊明天皇(さいめいてんのう) |
| 御 陵 名 | 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ) |
| 陵 形 | 上円下方墳 |
| 所 在 地 | 奈良県高市郡明日香村大字野口 |
| 交通機関等 | 近鉄 飛鳥駅から徒歩約17分 |
| 御在位期間 | 673年~686年 |
天武天皇が眠る檜隈大内陵は、奈良県高市郡明日香村の小高く盛り上がった樹林の奥に佇んでいます。
この檜隈大内陵は、古代の道教的な宇宙観を体現した八角形の石積構造を持つだけでなく、最愛の妻であり政治の伴侶でもあった持統天皇が火葬されたのちにともに葬られたという夫婦合葬陵でもあります。
激動の壬申の乱を乗り越え、”日本”の礎を作り上げた古代日本屈指のカリスマは、共に眠る愛する妻とともに、飛鳥の美しい田園風景を、今も静かに眺めているのでしょうか───。


















