ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、奈良時代の激しい権力闘争の渦中に巻き込まれ、わずか6年の治世の後に帝位を追われて孤島へ流された、第47代:淳仁天皇(じゅんにんてんのう)の御生涯をご紹介します。
有力豪族の政略によって即位し、やがて時代の断層へと消えていった悲運の大王。淡路島の波音とともに語り継がれるその切ない足跡を、ともに辿ってみましょう。
淳仁天皇の人物像・エピソード
淳仁天皇の本名は、大炊王(おおいのおう)と名付けられました。
御父は、第40代・天武天皇の第3皇子であり、史書『日本後紀』等に先立つ『日本書紀』の編纂総裁として知られる舎人親王(とねりしんのう)です。
大炊王自身は天皇の直接の息子ではありませんでしたが、祖父である天武天皇から続く正統な男系の血脈を純粋に引き継いでいる皇孫でありました。
御母は古代の名門豪族・当麻氏の出身である当麻山背(たいまのやましろ)です。当麻氏は用明天皇の血を引く当麻皇子を祖とする高貴な氏族であり、母方を通じても皇室ゆかりの血統を備えていました。また、大炊王の兄弟や近親の血脈からは、後に平安時代に活躍する清原氏などの名門氏族が派生していくこととなります。
幼少期の大炊王は、天皇の直接の落胤ではない皇孫の一人に過ぎず、皇位継承の有力な候補からは遠く離れた位置で穏やかな日々を過ごしていました。しかし、彼を取り巻く運命は、藤原南家の最高権力者である藤原仲麻呂(恵美押勝)との出会いによって激変することとなります。
大炊王は若い頃、藤原仲麻呂の長男である藤原真従の未亡人(新田部親王の女である粟田女王)と結婚いたしました。この婚姻をきっかけとして、大炊王は藤原仲麻呂の私邸である「田村第(たむらだい)」へ同居することとなり、仲麻呂から我が子同然の破格の庇護と政治的教育を受けることになりました。自前の強い政治的基盤を持たない大炊王にとって、仲麻呂の後ろ盾は大きな力となりましたが、同時に仲麻呂の政治的野望を実現するための「傀儡(かいらい)」としての宿命を強く背負わされることとなりました。
史書に伝えられる大炊王の人となりは、真面目で温厚、周囲の言動を静かに受け入れる穏やかな性格でありました。しかし、自らの強い政治的主導権を発揮するタイプではなく、激動する朝廷の政局において仲麻呂の意向に逆らうことは困難でありました。
757年(天平宝字元年)、孝謙天皇の皇太子であった道祖王が不徳を理由に廃されると、藤原仲麻呂の強い推挙によって大炊王が新たな皇太子へと立てられました。翌758年、孝謙天皇からの譲位を受けて即位し、第47代天皇(大炊天皇)となりました。しかし、この即位こそが、孝謙上皇と藤原仲麻呂の間に生じる過酷な権力闘争の不気味な前奏曲であったのです。
養老律令の施行と「万年通宝」の鋳造による国家改革
淳仁天皇の治世は、政治の実権はほとんど仲麻呂が握っていたものの、新貨幣「万年通宝(まんねんつうほう)」の発行をはじめとする経済政策、ならびに官制の再編と社会福祉の拡充といった功績があります。
経済の安定と通貨制度の再編を目指した「新貨幣の発行」であります。760年(天平宝字4年)、旧来の和同開珎が粗悪化・偽造されたことに対応するため、新たな銅銭である「万年通宝」を製造・発行いたしました。さらに、同時に金銭である「開基勝宝」や銀銭である「大平元宝」の鋳造を指示いたしました。万年通宝は和同開珎の10倍の価値を持つものとして設定され、貨幣流通の活性化と朝廷の財政基盤の確立を目指した積極的な経済施策でありました。
第三の功績は、官制改革と民生安定のための賑給(社会福祉)の実施であります。藤原仲麻呂の主導のもと、官職名を「太師(太政大臣)」や「紫微中台」などの唐風の名称へと改称するとともに、地方の困窮する民衆に対して公米を分かち与える賑給や度量衡の厳格な統一を推進いたしました。淳仁天皇自身は仲麻呂の政策の承認者としての役割を果たし、天皇の威光を授けることで、仲麻呂による行政改革の推進を全面的に支えました。
淳仁天皇治世の時代背景・周辺エピソード
淳仁天皇が在位した758年から764年という8世紀半ばの時代は、平城京の朝廷において、出家して太上天皇となった孝謙上皇と、最高権力者として政務を仕切る藤原仲麻呂(恵美押勝)との間で、過酷な「二頭政治(二重権力)」の歪みが生じていた時期にあたっていました。
政治的な背景としては、孝謙上皇が病の治療を通じて寵愛するようになった僧・道鏡(どうきょう)への依存を深めたことで、上皇と淳仁天皇・仲麻呂陣営との間に決定的な亀裂が生まれました。762年、近江国の保良宮(ほらのみや)に滞在していた際、孝謙上皇は「自らは国家の重大な賞罰と軍務を握り、天皇には小事のみを行わせる」という前代未聞の宣言を発いたしました。これにより、淳仁天皇は天皇でありながら政治の実権を完全に奪われ、宮中に孤立する形となりました。
淳仁天皇の日常や暮らしにおいては、自らの意思を自由に押し通すことができず、常に仲麻呂の意向と上皇の顔色を伺いながら過ごす、極めて神経を磨り減らすような日々でありました。彼は仲麻呂の私邸である「田村第」や、保良宮、平城宮の間を移動しながら政務を行いましたが、常に上皇側の威圧に晒されていました。
食生活や嗜好に関する直接の記録は乏しいものの、近江の保良宮や平城京においては、肥沃な土地で獲れた米や淡水魚、山菜、そして当時の朝廷で高級品とされた乳製品の「蘇(そ)」などを食していたと考えられます。また、後に配流された「淡路島」は、万葉の歌にも詠まれた風光明媚な島であり、豊かな海産物や魚介類が手に入る地として知られていました。
天皇にとってのゆかりの地としては、即位前から身を寄せた藤原仲麻呂の邸宅「田村第跡(奈良県奈良市)」、孝謙上皇との対立が決定的となった「保良宮跡(滋賀県大津市)」、そして退位後に幽閉されて最期を迎えた「淡路国(兵庫県南あわじ市)」があげられます。
淳仁天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
淳仁天皇を取り巻く人間関係は、父・舎人親王から受け継いだ血統、彼を擁立した藤原仲麻呂(恵美押勝)との密接な同盟関係、ならびに致命的な対立へと至った孝謙上皇・道鏡の陣営によって多層的に形作られていました。
皇室内部および血縁関係において、御父は第40代・天武天皇の皇子である「舎人親王」、御母は名門豪族の女である「当麻山背」であります。前述の通り、淳仁天皇の血脈は後に清原氏などの古代名門氏族の系譜へとも繋がっていくこととなりました。
淳仁天皇の最大の庇護者であり、宿命をともにしたのが大臣の「藤原仲麻呂(恵美押勝)」であります。仲麻呂は大炊王を自らの邸宅に住まわせ、我が子のように重用して皇太子および天皇へ押し上げました。淳仁天皇も仲麻呂に絶大な信頼を寄せ、「恵美押勝」の名と鈴印を下賜して太政大臣(太師)へと引き上げました。仲麻呂の率いる藤原南家の権力こそが、淳仁天皇の在位を支える唯一の足場でありました。
一方、不倶戴天の敵対勢力となったのが、前天皇である「孝謙上皇」と、その側近として台頭した僧「道鏡」であります。道鏡の政治介入を危ぶんだ淳仁天皇は、上皇に対して道鏡との関係を諫めましたが、これに激怒した孝謙上皇は前述の通り天皇の権限を削ぎ落としました。
764年(天平宝字8年)、追い詰められた藤原仲麻呂は反乱を起こしました(藤原仲麻呂の乱 / 恵美押勝の乱)。しかし、上皇側の迅速な軍事動員によって仲麻呂の軍勢は近江・勝野の地で完敗を喫し、仲麻呂とその一族は悉く斬首・滅亡いたしました。
淳仁天皇自身は反乱の戦闘に直接関与していなかったものの、仲麻呂を擁護していた立場から責任を問われ、乱の直後に孝謙上皇の軍勢によって宮中を包囲されました。孝謙上皇は淳仁天皇に対し、「仲麻呂と反乱を企てた」として即座に帝位を剥奪し、「淡路廃帝(あわじはいてい)」として淡路国へ永久配流することを宣告いたしました。
淡路島へ幽閉された淳仁天皇は、手厚い警護という名目のもとで過酷な監禁生活を強いられました。配流からわずか1年後の765年(天平神護元年)10月、幽閉先から脱出を図ったとして警備の兵士に捕らえられ、その翌日に33歳で不可解な崩御を遂げました。史実の裏面としては、脱走を口実とした上皇側による暗殺・殺害であったと強く推測されています。
廃位された淳仁天皇は、死後も「淡路廃帝」や「崇道鎮魂皇帝」と呼ばれ、長らく皇統の正史から正当な天皇としての存在を排斥されていました。しかし、明治5年(1872年)、明治天皇によってその名誉が公式に回復され、「淳仁天皇」の諡号が正式に贈られることとなったのです。
淳仁天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 淳仁天皇(じゅんにんてんのう) |
| 本 名 | 大炊王(おおいおう) |
| 御 父 | 舎人親王(とねりしんのう) |
| 御 母 | 当麻 山背(たいま の やましろ) |
| 御 陵 名 | 淡路陵(あわじのみささぎ) |
| 陵 形 | 山形 |
| 所 在 地 | 兵庫県南あわじ市賀集 |
| 交通機関等 | (バス停) 御陵前から徒歩約11分 |
| 御在位期間 | 758年~764年 |
兵庫県南部、淡路島の南に広がる静寂な賀集の地に、淳仁天皇が静かに眠る淡路陵は佇んでいます。
豪族の権力争いの狭間に引き出され、自らの意図せぬ政略の中で帝位を担わされながら、最期は孤島の冷たい風の中で命を奪われた悲運の帝・淳仁天皇。
青々とした樹々に囲まれた静謐な陵丘に立ち、遥か大阪湾の波音に耳を澄ませるとき、千数百年の時を超えて、権力の無常と悲劇の運命を一人受け入れた大王の切なくも気高い面影が、いまも深く胸へと迫ってきます。
