第5代:孝昭天皇 〜葛城山の麓に農耕的基盤を育んだ、ヤマト王権黎明期の帝

初代-25代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、奈良盆地の西南端、葛城の山並みに抱かれた掖上の地に宮を定め、水田の青々とした稲穂と古代の不穏な風が交錯する中で王権の血脈を守り抜いた第5代:孝昭天皇(こうしょうてんのう)にスポットライトを当てます。

一般的には「欠史八代」の一人として語られることも多い天皇ですが、口伝や古記録を紐解くと、そこには激動の時代を生き抜いた一人の王の姿が浮かび上がってきます 。

孝昭天皇の人物像・エピソード

葛城山と孝昭天皇陵

孝昭天皇の本名は観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)と記録されており、父は懿徳天皇、母は安寧天皇の孫に当たる天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)でした。

 

記紀に詳細な記述のない”欠史八代”のひとり

実は、孝昭天皇の人物像や具体的行動に関するエピソードについて、日本の正史である『日本書紀』や『古事記』といった史書には詳細な記述が残されていません。

記載があるのは、父である第4代:懿徳天皇の崩御に伴って即位し、都を葛城の地へ移し、后を迎えて皇子をもうけた後に崩御したという最小限の系譜情報が記されているのみです。

このような特徴を持つ第2代・綏靖天皇から第9代・開化天皇までの8代の帝は、欠史八代(けっしはちだい)と総称されています。

正統竹内文書が伝える口伝では…

73世:武内宿禰を自称する竹内睦泰さんが伝える口伝によると、その名前に含まれる「香殖稲(かえしね)」という言葉は、香り高い稲を育み、穀物を豊かに繁殖させることを意味していたとか。

つまり、当時の大和盆地において水稲耕作による農業生産力が急速に高まっていた社会状況を色濃く反映した名称だと言います。

また、諡号である孝昭天皇の”孝”にも意味があり、孝昭天皇から孝安・孝霊・孝元と続く名前には、倭国大乱の時代を示している、と伝わっているようです。

 

掖上池心宮の造営、婚姻同盟による豪族との関係強化

孝昭天皇の事績としては、父・懿徳天皇の崩御後に都を掖上池心宮(わきがみのいけごころのみや / 『古事記』では葛城掖上宮)へと移し、葛城地域の肥沃な土地と水源を活用して初期ヤマト王権の政治的・経済的基盤を強化した点にあります。

当時の葛城山麓、現在の奈良県御所市池ノ内から三宅周辺にかけての地域は、葛城川などの河川がもたらす水資源と肥沃な粘土質土壌に恵まれた、大和盆地内でも有数の穀倉地帯でありました。

孝昭天皇はこの地に掖上池心宮を営み、周囲の水利権や農地の管理を主導しました。優れた農具の導入や水路の造成を通じて米の生産量を増大させ、王権を支える経済的土台を強固に固めました。

婚姻を通して豪族たちとの関係を強化

また、政治的・血縁的な実績として挙げられるのが、有力豪族との婚姻関係を通じた支配体制の強化です。

孝昭天皇は尾張氏の祖とされる天忍男命の女・世襲足媛命(よそたらしひめのみこと)を皇后に迎えました。これにより、大和盆地のみならず、尾張や美濃といった東海地方の沿岸・流通ルートを握る豪族勢力との強い同盟関係を構築することに成功しました。

この婚姻によって誕生した第一皇子の天足彦国押人命(あめのたらしひこくにおしひとのみこと)は、後に和邇(わに)氏、春日氏、小野氏、粟田氏、柿本氏など、朝廷の外交や文事、歌道を支える数々の古代名門豪族の共通の祖となりました。

直接的な武力による征服ではなく、婚姻と同盟によって支配網を広げ、後世の朝廷を支える臣下たちの血脈を創出した点は、孝昭天皇の治世における大きな歴史的成果と言えます。

 

孝昭天皇治世の時代背景

孝昭天皇が在位したとされる時期は、記紀の年代記述に従えば紀元前475年から紀元前393年という時代ですが、考古学的な実年代を考慮すると紀元後1世紀から2世紀頃のに相当するものと推測されます。

この時代は、水稲耕作の技術が日本列島各地へ本格的に定着し、生産力の飛躍的な向上とともに、蓄積された富や水利権を巡って集落間の格差が顕著になり始めた時期でありました。

社会構造が複雑化する中で、地域首長としての王権の役割は単なる神事の主導者から、土地や民を管理する現実的な統治者へと変容しつつあったものと思われます。

天皇にとっての最大のゆかりの地と言えるのは、即位と執政の舞台となった奈良県御所市池ノ内の掖上池心宮跡伝承地(掖上池心宮阯碑)でしょう。近くには葛城氏の氏神でもある鴨都波神社、そして尾張氏の祖神:天香具山を祭神とする葛木坐火雷神社 (笛吹神社) もあります。

また、宮の背後に聳え立ち、古くから神霊の宿る山として仰がれた葛城山は、孝昭天皇の太古の足跡を今に伝える歴史的聖地となっています。

 

孝昭天皇と関連氏族・敵対勢力

孝昭天皇陵のすぐそばにある孝昭宮。

孝昭天皇を中心とする黎明期の権力構造に目を向けると、后を出した尾張氏の系統(世襲足媛の一族)が、朝廷の絶対的な軍事・経済的サポーターとして王権の背後を完全に固めていたことが分かります。

 

葛城地域に勢力のあった尾張氏との関係性強化

大和盆地の南西部、葛城山の山麓一帯はこの時代、先述した葛城氏と尾張氏の勢力が及んでいた地域でした。その中で大王家が尾張氏との関係を深めたことは、どのような政治的意図があったのでしょうか。

また、この婚姻関係から生まれた皇子たちの系統は、その後の大和朝廷の支配体制を形作る上で極めて重要な関係性を持つこととなります。

第一皇子である天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)は、のちに朝廷の中枢において宮廷政治や外交、軍事を実質的に動かすことになる高貴な諸氏族、すなわち春日氏、大宅氏、粟田氏、小野氏、そして和気氏といった、古代史を彩る名門豪族たちの偉大なる共通の祖となったのでした。

 

迫る倭国大乱の影。瀬戸内に勢力を誇る吉備国

また、ヤマト王権にとって最大のライバルとなったのが、瀬戸内地方に勢力を誇った吉備(きび)の国でした。当時の吉備は、ヤマトに次ぐ規模の巨大古墳を築くほどの強大な経済力と武力を持っていました。

瀬戸内海の制海権を巡る争いは激化し、一時は天皇側が追い詰められ、後退を余儀なくされるほどの緊迫した状況に陥ったと伝えられています。この苦境を支えたのが、天皇の弟である天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)ら、王権を支える有力な一族でした。

吉備との戦いはこの後、数代にわたる長い戦争へと発展していきますが、その戦端が開かれたのがこの孝昭天皇の時代だったのです。

 

孝昭天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 孝昭天皇(こうしょうてんのう
本   名 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
御   父 懿徳天皇(いとくてんのう)
御   母 天豊津媛命(紀)
賦登麻和訶比売命(記)
御 陵 名 掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)
陵   形 山形
所 在 地 奈良県御所市大字三室
交通機関等 JR 御所駅から徒歩約15分
近鉄 近鉄御所駅から徒歩約13分
御在位期間 紀元前475年〜紀元前393年

欠史八代の一人として歴史の闇の中にその実像が隠されながらも、古代大和の地に水稲の富と豪族同盟の礎を遺した孝昭天皇。

宮内庁によって厳重に管理されている奈良県御所市三宅の掖上博多山上陵は、葛城の山並みを望む静謐な樹林の中に佇んでおり、訪れる人々に対して、太古の昔に戦乱の気配の中で静かに王国を支えた大王の足跡を語り続けています。

孝昭宮から見える景色。正面に見えるのが鴨都波神社です。賀茂氏、加茂氏の源流とされます。

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