第6代:孝安天皇 〜都落ちの危機を乗り越え、大陸へ使節を募った倭国王帥升?

初代-25代

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は「欠史八代」のひとりでありながら、強大な地方勢力との激闘を切り抜け、我が国の歴史上初めて海外の歴史書にその名を刻んだとされる第6代:孝安天皇(こうあんてんのう)の足跡に迫ります。

孝安天皇の人物像・エピソード

JR玉手駅から御陵に向かうと、御陵の入り口に美しい棚田が広がっていました

孝安天皇は、本名を日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)といい、第5代:孝昭天皇の第二皇子として誕生しました。

古代ヤマト王権においては、国を治めて軍事を司る統治王(政治担当)と、神の声を聴いて祈りを捧げる祭祀王(神事担当)が、それぞれ一族の中で役割を分担するのが理想的な統治のパターンでした。

しかし、正統竹内文書(第73世:武内宿禰とされる竹内睦泰さんが語る)に伝わる口伝には、孝安天皇自身が1人で政治の実務と最高神職としての神事(統治王と祭祀王)の両方をこなしていた、伝わっているようです。

また、記紀では同母兄とされている天足彦国押人命は、祭祀王としての考安天皇を指しており、実態は同一人物だったとのことです。衝撃!

 

さらに「考」がつく孝昭・孝安・孝靈・孝元の治世は、いわゆる倭国大乱の時代だったと伝わっているとか。

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孝安天皇の治世は、国内の有力勢力=吉備国との抗争のさなかにあったと言います。ヤマトを出て播磨・吉備勢力と争っていたようで、まさに支配者として最大の試練を経験した大王だったのかも知れません。

 

吉備勢力への徹底抗戦と王権の死守

拝所へは石段を登っていきます。

先述のとおり、吉備國との戦争に明け暮れていたとされる孝安天皇ですが、国家としての正当性を得るべく、巨大な中国王朝との間に直接的な外交ルートを開拓したとうエピソードも残っているようです。

歴史の教科書を開くと、日本史上「最初に文献に登場した確実な実在の人物」として「帥升(すいしょう)」という謎めいた名が登場します。

西暦107年、後漢の安帝に対して倭国の王である帥升が使者を送り、生口(奴隷)を献上したという記録が中国の『後漢書』東夷伝に克明に残されていますが、この「帥升」の正体は、初期ヤマト政権を支えた第6代大王・国押人(孝安天皇)だったと出雲王家に伝わる口伝に残ります。

拝所への道を少し外れると、考安社と金毘羅社があります。写真は考安社。

孝安天皇:国押人(くにおしひと)の名が、中国の記録では帥升(すいしょう)という全く異なる文字で記録されてしまった背景には、古代の言語の響きと中国の役人による見誤りが原因だったそうです。

国押人を当時の古代日本語の発音で呼ぶ際、日本側の通訳や使節団の発音としては、名前の後半部分である「クニオシヒト」の音に強いアクセントが置かれていました。これを耳で聴いた中国の記録官たちは、その独特の音を漢字で表現しようとし、まずは短い行書体(崩し字)で「師飛」と記録したとか。

考安社からさらに登ると金毘羅神社があります。苔むす美しい雰囲気。

この公式文書を正式な明朝体などの漢字に書き写した別の役人が、行書で崩して書かれた「師」の文字を、形が非常によく似ていた「帥」という漢字に見誤ってしまい、さらに「飛」の字も略字で「升」の字になり、結果として「帥升」という文字が誕生してしまったのだとか。

この文字の誤記というハプニングにより、彼は世界の歴史に「帥升」として永遠に名を残すことになりましたが、その本質的な外交的功績が色褪せることはありません。

中国の皇帝に自らの王権を認めさせることで、国内のライバル豪族たちに対して「ヤマトの大王こそが、世界の中心から認められた唯一正当な日本の王者である」という圧倒的な国際的権威を見せつけることに成功したのです。

※竹内文書では安寧天皇こそが帥升と伝わっているようです。古代史にはいろんな説があって面白いですよね

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孝安天皇治世の時代背景と周辺エピソード

孝安天皇が都を置いた「室(むろ)」という地名は、現在も奈良県御所市(奈良盆地の南西)に残っています。

ここは葛城山の麓に位置し、古くから有力豪族・葛城氏の本拠地としても知られており、先代に当たる孝昭天皇陵からも徒歩圏内(といっても30分ほど歩きます。天気の良い日は熱中症に注意…)にあります。

孝安天皇がこの地に拠点を置いたことは、後の巨大豪族となる勢力と皇室が、極めて早い段階から血縁関係も含めた深い協力関係にあったことを示唆しています。

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稲作文化の定着・発展と「倭国大乱」の足音

金刀比羅神社から道を戻り、さらに石段を登ると御陵へ。

孝安天皇が生きた時代は、水稲耕作(稲作)の普及によって列島が激しく揺れ動いていた、弥生時代中期から後期にかけての過渡期でした。

この時代の日本列島は、大陸から伝わった稲作が本格的に定着したことで、爆発的な経済成長を遂げていく過程にあったとされます。しかし、富が生まれれば、当然そこに深刻な貧富の差が生まれることになります、

貧富の差から生まれた対立は、やがて列島全土を巻き込む巨大な戦乱「和国大乱」へと繋がっていくことになるのでした。

 

祭祀と統治、ヒメヒコ制による政治体制

また、政治の形態としては、王(ヒコ)が実務や軍事を担当し、霊的な能力を持つ巫女(ヒメ)が神意を占って進むべき道を決定するという「ヒメ・ヒコ制」に基づく祭政一致の統治が行われていました。

ヤマトの磯城王朝の中心地であった三輪山の麓や、纒向の広大な扇状地には豪族や民たちが集う一大都市空間が形成されつつありました。

民たちはここに竪穴住居の宿舎を建てて何日も泊まり込み、春分や秋分といった季節の節目に、三輪山の太陽神を祀っていたと言われています。

 

孝安天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

孝安天皇の治世において、朝廷にとって最大の脅威であり、最も激しく火花を散らした敵対勢力が「吉備の国(現在の岡山県周辺)」の強大な豪族たちでした。

当時の吉備の国は、鉄器の製造技術や豊かな農地を背景に、大和の朝廷に匹敵するか、あるいはそれを凌駕するほどの強大な軍事力と経済力を誇っていました。

一時期、孝安天皇は大和の都から出て、吉備の軍勢との圧倒的な劣勢の中での戦うほどに追い詰められていたと伝わっているようです。孝安天皇は、自らの伯父(おじ)にあたる「大吉備諸進命(オオキビノモロススメノミコト)」を総大将として吉備の現地へと派遣し、反撃作戦を展開したとか。

しかし、吉備の壁は厚く、屈服させるまでには至らなかったそうです。

いわば未完の負け戦の最中に崩御することとなったため、その芳しくない戦況の結末ゆえに、『古事記』や『日本書紀』の表向きの本文には、この吉備との具体的な戦闘の詳細や素晴らしい功績が詳細に書き残されることはありませんでした。

 

磯城県主、尾張氏一族との協力な血縁関係

拝所から望む景色。眼下には満願寺が見えます。

孝安天皇は、母方の実家や親族との結びつきを強めることで、王権の正当性を高めました。孝安天皇の后である押媛(おしひめ)は、自身の従姉妹にあたる女性です。

このように身内で婚姻を繰り返すことで、王権の血の純度を守り、結束を固めていたのでしょうか。ちなみに押媛は、磯城県主葉江の娘:長媛と同一人物とも言われています。やはりここでも「磯城県主」ですね。

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孝昭天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 孝安天皇(こうあんてんのう)
本   名 日本足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひと)
御   父 孝昭天皇(こうしょうてんのう)
御   母 世襲足媛(よそたらしひめ)
御 陵 名 玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)
陵   形 山形
所 在 地 奈良県御所市大字玉手
交通機関等 JR 玉手駅から徒歩約7分
御在位期間 前392年~前291年

孝安天皇が眠るとされる玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)は、奈良県御所市にあります。

JR玉手駅から歩くと、美しい棚田の奥にある丘陵が玉手丘上陵です。

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