第3代:安寧天皇 〜東国平定と大陸外交で平和の礎を築いた統治者

初代-25代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、肉親同士の凄惨な血闘を経て訪れた束の間の静寂の中で、古代大和の地に即位された第3代:安寧天皇(あんねいてんのう)の御生涯をご紹介します。

太古の霧の向こう側、橿原の畝傍山を仰ぐ静かな里で、静かに王権の命脈を繋いだ帝。記録の少なさに隠された異伝や外交の謎を紐解きながら、その知られざる足跡をともに辿ってみましょう。

安寧天皇の人物像・エピソード

安寧天皇の本名は磯城津彦玉手看(しきつひこたまでみ)と言い、後の時代になって天智天皇の孫にあたる淡海三船(おうみの みふね)によって「安寧」という漢風諡号が贈られました。

この「安寧」という名は、とある口伝では安寧天皇の即位に際して皇位継承問題が起こらなかったためだとされているそうです。というのも、安寧天皇は兄弟のない一人っ子でした。

文字による記録が少ない「欠史八代」の一人であり、歴史家からは存在が疑問視されがちですが、口伝を元にした『天皇紀』の伝承によれば、東国の平定を進めた人物として伝わっているようです。

 

正統竹内文書が伝える口伝によると師木津日子=帥升

第73世:武内宿禰を自称する武内睦泰氏が伝える正統竹内文書によると、磯城津彦(しきつひこ)こそ、西暦107年に後漢へ生口(奴隷)をおくったとされる和国王「帥升(すいしょう)」と同一人物だと伝わっているようです。

磯城津彦(しきつひこ)は日本書紀の記述であり、古事記では師木津日子(しきつひこ)と書きます。

※帥=師木津日子を指し、升とは首長を指すとされる。

 

片塩浮孔宮への遷都と帥升比定説に見る東国平定

安寧天皇の統治において最も特筆すべき功績は、自らの大王家を磯城家(しきけ)と称し、のちに歴史家から磯城王朝と呼ばれる新たな時代を確立したことです。

 

海部氏・尾張氏から磯城家へ

磯城津彦玉手看の名前の通り、のちに歴史家から磯城王朝と呼ばれる新たな時代を確立したことです。

磯城津彦も、師木の日子(ヒコ=彦)、すなわち「師木を治める王」という意味があり、天津神や国津神と同じく「津=〜の、〜を治める」の意味で使われていたものかと思います。

東出雲王家の末裔に伝わる富家口伝によると、初期のヤマト王権は海部氏(尾張氏と同族)らと磯城家とが笛吹神社近くに勢力を持ったものだと伝わっているようです。

神武から三代続けて磯城家から妃を迎えたことで、政治の運営の中心は出雲系の血を引く豪族たち(登美家や葛城の先祖)によって磯城王朝への転換とも言える形へ移行することとなりました。

それに伴って宗教的体系も大きく変容し、奈良盆地の東南にある三輪山の太陽神が、王権の最高神として熱烈に信仰されるようになったとか。

武力による威嚇や強制ではなく、三輪山への信仰を共通の精神的支柱とすることで、大和盆地周辺の地方豪族を緩やかに統合し、大王家を中心とする強固な連合国家の基盤を築き上げたことは、安寧天皇の治世における最大の政治的実績と言えるのではないでしょうか。

安寧天皇治世の時代背景

安寧天皇の治世期は、記紀では紀元前549年から紀元前511年という紀元前6世紀から紀元前5世紀ごろとされていますが、考古学的成果や実年代の検証に基づいて考えると紀元前後から1世紀前後に相当すると思われます。

この時代は、水稲耕作の技術が九州から畿内へと普及し、集落の拡大とともに土地や水利権を管理する指導者が台頭し始めた時期でいた。

また金属器(銅鐸や銅剣)の流入に伴い、地域ごとの祭祀や共同体のまとまりが強化されていく一方で、蓄積された富を巡る摩擦も静かに芽生え始めていました。

 

祭政一致のヒメ・ヒコ制による統治体制

また、この時代に定着したのがヒメ・ヒコ制(祭政一致の二重統治体制)であります。

東出雲王家の末裔が伝える富家口伝(いわゆる出雲口伝)によると、政治や軍事などの現実的な政務をヒコ(男王・安寧天皇)が担う一方で、三輪山の太陽神を祀る神事や宗教的威厳は最高巫女であるヒメ(姫巫女)が司り、民衆や豪族たちの信望を集めたと伝わっているようです。

男王の武力による抑圧ではなく、姫巫女の宗教的権威と連動したマツリゴトによる統治が成立したことこそ、安寧天皇の時代に標準となっていた考え方なのかも知れません。

 

安寧天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

また安寧天皇の治世は、先述のとおり大和の在地豪族である磯城縣主(しきのあがたぬし)との関係が重要な意味を持っていたと思われます。

磯城(師木)とは奈良盆地東南部(三輪山の西)を示す地域なのですが、古事記によれば、安寧天皇の母や后は磯城縣主の娘とされています。

 

この世をば 我が世とぞ思ふ…ver.古代日本?

このように大王家に妃を送り込むことに成功している磯城縣主、実は日本書紀の神武東征のエピソードで登場する弟磯城(黒速)の末裔にあたります。

記紀では、東征以前の奈良盆地の王はニギハヤヒかのように記されていますが、初代〜欠史時代の大王家に妃を輩出し大王の外祖父の座を維持し続けられた磯城の県主こそ、ヤマト盆地で牽制を振るっていた豪族だったのではないか?と考えてしまいそうです。

天皇に妃を送り込み、その子が天皇となり天皇の外祖父として権力を強化する….

中学校でも教わる平安時代の藤原氏の権力掌握モデルですが、古代日本・ヤマト王権黎明期でも権力は同じような方法で形作られていたのかも知れません。

【関連記事】磯城縣主一族 〜ヤマト王権黎明期の権力者、その隆盛と衰退

 

安寧天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 安寧天皇(あんねいてんのう)
本   名 磯城津彦玉手看(しきつひこたまでみ)
御   父 綏靖天皇(すいぜいてんのう)
御   母 五十鈴依媛命(紀)
河俣毘売(記)
御 陵 名 畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)
陵   形 山形
所 在 地 奈良県橿原市吉田町
交通機関等 近鉄 橿原神宮西口駅から徒歩約8分
御在位期間 紀元前549年〜紀元前511年

欠史八代の一人として歴史の陰にその実像が隠されながらも、その名の通り、黎明期のヤマト王権に束の間の静寂と平穏をもたらした安寧天皇。

畝傍山の西南───、鬱蒼とした樹木に包まれた静穏な地にある、畝傍山西南御陰井上陵はまるで、訪れる人々に対して、太古の昔に大和の地で祈りを捧げた大王の気高き面影を静かに語り続けているかのようです。

 

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