第7代:孝霊天皇 〜”孝”の名が示す倭国大乱の戦火?吉備平定の端緒を開いた帝

初代-25代

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、「欠史八代」の一人として数えられながらも、実は驚くべき東アジア規模の動乱のドラマと、現代に伝わる”桃太郎伝説”のモデルとされる第7代:孝霊天皇のご生涯をご紹介します。

一般的に、欠史八代に含まれる天皇は事績の記載が少なく、影の薄い存在として描かれがちですが、実際にはその時代ごとに暮らしや文化、価値観の礎を築いてきた壮大な人間物語が存在していたはずです。

孝霊天皇が生きた時代は、まさに古代日本でも最大級の激動期だったとされます。

孝霊天皇の人物像・エピソード

孝霊天皇は、本名を大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)と記されており、伝統的な公式記録においては事績の記載が極めて少ない「欠史八代」の一人に数えられます。

父は孝安天皇(日本足彦国押人天皇)、母は磯城県主:葉江の娘である長媛であったといいます。

ヤマトを出て播磨・吉備へと進出?

東出雲王家が伝える富家伝承(いわゆる出雲口伝)では、フトニ大王と呼ばれ、非常に活動的で意思の強い君主として伝わっています。

孝霊天皇は、自らの王権を拡大するために積極的な軍事行動を展開し、ヤマト周辺から瀬戸内、さらには中国地方へと勢力を伸ばしていきました。その人となりは、冷徹な政治的判断を下す一方で、私生活においては情熱的かつ人間味あふれるエピソードを残した人物として伝えられています。

伝統を重んじる旧来の勢力の長でありながら、国際情勢や国内のパワーバランスの変化に敏感に対応し、王権の拡大に生涯を捧げた大王でした。

 

播磨侵攻と吉備平定、そして出雲戦争

孝霊天皇の治世における最大の功績は、ヤマト王権の勢力圏を西へと大きく押し広げたことです。

記紀には事績の記載のない孝霊天皇ですが、東出雲王家の末裔が語り継ぐ富家伝承(いわゆる出雲口伝)には当時の情勢が事細かに語り継がれています。

大和-出雲を分断する、天之日矛一族による播磨進出

富家伝承によると、黎明期のヤマト王権とは丹波国(現在の京都府北部〜中部、兵庫県の北部と中部の東辺にいたる地域)の海氏勢力と出雲王家の勢力が、初代大王:村雲命を大王として立てた王権だったと言います。

この丹波-出雲-大和の連合国家とも考えられる初期ヤマト王権、出雲口伝では磯城王朝とも呼んでいました。

【関連記事】磯城縣主一族 〜ヤマト王権黎明期の権力者、その隆盛と衰退

孝霊天皇の時代、但馬(兵庫県北部)の豊岡盆地は、新羅系をはじめとする渡来人やヒボコ勢(天之日矛の末裔とされる勢力)が独自の勢力を築いており、ついには出雲王国の領土であった播磨国に攻め入ります。

磯城王朝と出雲勢力にとって、播磨は同盟の要衝でした。仮に播磨がヒボコ一族に奪われれば、出雲と大和は地理的に分断されてしまうことになります。

フトニ大王は、自らの御子たちに日本海側から侵略してきた渡来系勢力(ヒボコ一族)から奪還・防衛する名目で、奈良盆地から播磨に攻め入ることになります。

この遠征によって、播磨にいたヒボコ勢の多くは淡路島へと逃れ、一部は淀川をさかのぼって琵琶湖東岸の坂田へと敗走しました。

 

出雲口伝が語る播磨平定と吉備平定

しかし、この勝利の後にフトニ大王は極めて冷徹な外交を展開します。占領した播磨の地を、当初の約束に反して同盟国である出雲王国に返還しなかったそうです。

また、孝霊天皇は出雲の仁多郡と飯石郡を割譲せよという過酷な要求を突きつけ、出雲-大和の同盟関係は決裂することになります。

そして吉備国を巡って和国全土を巻き込む大戦乱の火蓋を切ることになり、ついには吉備国に王朝を立てたと言います。 ※倭国大乱の発端?

出雲口伝では、この戦いを第一次出雲戦争と呼んでいるそうです。

 

吉備進出の波紋?奈良盆地の軍事的空白を産むことに

フトニ大王が多大なるリスクを冒してまで吉備へと遠征したのは、当時の最先端の戦略物資であり富の源泉でもあった「鉄(砂鉄・タタラ技術)」を手に入れるためだと伝わっているようです。

先述の通り、大和を出て播磨・吉備をあらたな拠点とした孝霊天皇ですが、この吉備進出のために兵士を引き連れて吉備の国へと移ります。

その結果、真の拠点であった奈良盆地では、国内の人口が急激に減少することになったといいます。

この奈良盆地の軍事的空白は、次の孝元天皇の時代になって、富家伝承でいう第一次物部東征を引き起こすことになるのですが、それはまた孝元天皇の記事でお話ししたいと思います。

【関連記事】第8代:孝元天皇 〜伝説の桃太郎と女王:卑弥呼が支えた統合の王

 

孝霊天皇治世の時代背景

孝霊天皇が和国を統治した時代は、まさに中国の歴史書『後漢書』東夷伝において「倭国大乱」と言及されている、2世紀半ばから後半にかけての極めて凄惨な戦乱期に該当します。

この恒帝・霊帝の頃(146〜189年)に起きた倭国大乱は、国内を統一して治める絶対的な君主が存在せず、各地の豪族たちが互いに攻め合う混沌とした時代だとしています。

富家伝承によるとこの大乱の実態は、主に3つの大きな戦乱が連続して発生したことによるものでした。

1つ目はヤマト地方における豪族たち(磯城家、尾張家、)の激しい覇権争い、2つ目がフトニ大王が引き起こした播磨・吉備・出雲を巻き込む大領域戦争、そして3つ目が九州方面から迫りつつあった第1次物部東征です。

和国全体が戦火に包まれるなか、この絶え間ない戦乱を嫌った西日本の多くの豪族や民衆は、戦火を避けるために比較的平穏であった九州の西都原へと集団で移り住み、これが結果として西都原の急速な発展を促すという背景を持っていました。

 

孝霊天皇と関連氏族・敵対勢力

孝霊天皇を取り巻く氏族や勢力との関係性は、王権の拡大という野望のなかで、極めて血生臭い対立と協調の構図を形成していました。

うわなり打ち文化の祖?

富家伝承では、孝霊天皇の私生活についての生々しいエピソードも残されています 。

吉備を平定したフトニ王は、現地から付いてきた后の細姫を晩年になると完全に無視し、伯耆地方から迎えた若い美女(朝妻姫)ばかりを溺愛するようになったといいます。

この仕打ちに絶望した細姫の息子たち、すなわち吉備津彦命と稚武彦命の兄弟は、ヤマトを離れて軍勢をまとめ、出雲南部へと攻め入る「第1次出雲戦争」を引き起こしたとされています。

正史には決して書かれない、鉄を巡る権力闘争と、愛憎に引き裂かれた家族の戦いというもう一つの真実が、この伝承には生々しく息づいているのです。

磯城家、尾張家との関係性

大王の後ろ盾となったのは、正妃である細姫命を輩出した磯城(しき)一族や、伝統的な農耕祭祀を司る海部・尾張氏などのヤマト固有の伝統的豪族層でした。

しかし、大王が伯耆国で現地の村娘を寵愛したことや、播磨の割譲を巡る問題により、これら伝統的豪族との関係には一時的に深刻な亀裂が生じることとなりました。

大王の子供たちのなかでは、播磨および吉備の平定を実力で成し遂げた大キビツ彦と若タケキビツ彦が、軍事的な主軸として大王を支えました。

 

一方で、最大の敵対勢力となったのは、播磨を巡る裏切りによって完全に敵対関係へと舵を切った「出雲王国」です。

かつては同盟関係にあり、和国の発展を支えるパートナーであった出雲は、フトニ大王の約束反故によって激怒し、和国を二分する最大の敵として立ち塞がりました。

出雲の富(とみ)家をはじめとする勢力は、吉備彦政権からの過酷な領地割譲要求を拒絶し、徹底抗戦の構えを見せました。

さらに、この治世の後半には、大陸由来の信仰を携えて九州から東進してきた物部氏の軍勢もまた、ヤマト王権の伝統的な祭祀体制を脅かす潜在的な敵対勢力として影を落とし始めていました。

孝霊天皇は、身内の愛憎劇による祟りと、出雲という巨大な敵との戦争という、内憂外患のなかで自らの王権を維持し続けた大王であったと言えます。

 

孝霊天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 孝霊天皇(こうれいてんのう)
本   名 大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)
御   父 孝安天皇(こうあんてんのう)
御   母 押媛(おしひめ)/長媛(ながひめ)
御 陵 名 片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)
陵   形 山形
所 在 地 奈良県北葛城郡王寺町本町
交通機関等 JR 王寺駅から徒歩約18分
(バス停) 王寺本町二丁目から徒歩約11分
御在位期間 前290年~前215年
タイトルとURLをコピーしました