ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、欠史八代の一人でありながら、後の日本を支える有力氏族を驚くほどたくさん生み出した、系図上の超重要人物、第8代:孝元天皇(こうげんてんのう)をご紹介します。
倭国大乱の激しい戦乱の時代にあって、物部勢力との政治的妥協を図りながらヤマトの統治を維持しようと奔走した大王の、知られざる調停のドラマと血統の謎に迫ります。
孝元天皇の人物像・エピソード
孝元天皇の本名は、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)。父は第7代:孝霊天皇、母は磯城県主の娘であった細媛命とされています。
古事記や日本書紀などの公式な記録において、孝元天皇は欠史八代の一人に数えられており、その具体的な治績や人間性を伝える伝承は極めて乏しいとされてきました。
しかしその一方で、正史とは異なる伝承を伝える口伝には、生々しいほど具体的な事績が記されているのをご存知でしょうか?
具体的には武内宿禰一族に伝わるとされる口伝や、東出雲王家:富家に伝わる口伝などの古代伝承を紐解いていくと、記紀には記されなかったエピソードを多く知ることができます。
物部勢力との繋がりを深めたクニクル大王
正統竹内文書や富家伝承を紐解くと、前代の大王がヤマトの地を去った後に残された、極めて不安定な統治基盤を引き継ぎ、新興勢力との摩擦を抑え込もうとした忍耐強い調停者のような姿が浮かび上がってきます。
当時、ヤマト国内で急速に勢力を拡大しつつあった物部勢力との繋がりを深め、妃を迎えることによってヤマト王権の破滅を回避しようと試みた、現実的で聡明な大王であったと伝わっているのです。
物部勢力との政治的妥協と、磯城王権の維持
孝元天皇の功績は、激化の一途をたどっていたヤマト地方の覇権争いに対し、新興の軍事勢力であった物部氏との間に政治的な妥協を取り付け、ヤマト王権の完全な崩壊を食い止めたことです。
前代のフトニ大王(孝霊天皇)が混迷するヤマトを離れて吉備国へと移動した後、ヤマトの統治権は事実上、空白に近い危機的な状況に陥っていたと言います。
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物部王ヒコナギサタケの息子:イツセによる紀伊侵攻
その空白状態を狙い、九州にあった物部政権のナギサタケ王の息子であるイツセ(五瀬)は、ヤマトに物部王朝の樹立を目指し、南九州から瀬戸内海…ではなく、四国の南から船団を率いてを通って東進しました。
紀ノ川河口(和歌山県)から上陸しようとした際、名草村の女村長であった名草姫(名草戸畔:なぐさとべ、とも)が率いる軍勢の激しい抵抗に遭い、イツセは毒矢を受けて戦死したと言います。
…はい、衝撃ですよね。
記紀では、イワレビコがナガスネヒコを相手として、浪速国の孔舎衛坂で起こったエピソードが、富家口伝では、イツセがナグサトベを相手として、和歌山で起こったエピソードとして伝わっているのです。
ちなみにこの話ですが、「名草戸畔〜古代紀国の女王伝説」という本の中に名草姫の頭部を祀る宇賀部神社(おこべじんじゃ)に伝わる口伝として、名草姫側の目線ではどうだったか?が伝わっています。
本の中ではイツセ=神武、と表現されていますが、イツセによる物部東征が神武東征のモデルとなっていることからそのように表現されているのでしょう。
…さらにもう一つちなんでおくと、口伝を伝える宇賀部神社の宮司家は小野田家。戦後29年を経てフィリピンから日本へ帰国した小野田寛郎少尉は、その分家筋に当たる方です。
ヤマトを守る孝元帝の長男:大彦命との対峙
イツセの死後、名目上の指揮官として跡を継いだウマシマジは、船で南の潮岬を回り熊野から十津川を遡ってヤマトの制圧を目指します。
しかし名草軍との戦いでウマシマジ側も消耗しており、地の利を生かしたヤマト側の激しいゲリラ戦にも苦しめられ、単独でのヤマト制圧を諦めることになったそうです。
ウマシマジは、ヤマト側:磯城王朝とは分裂状態にあった登美家と「熊野の物部軍を奈良地方に引き入れ、協力して共同の政権を作る」ことを条件に、ヤマトへの道案内を依頼したと言います。
こうして本来の目的「磯城王朝を倒して物部王朝を造る」は果たせず、最終的にヤマトの磯城王朝に取り込まれる形で妥協することになった。
…ここまでが口伝の内容です。記紀の神武東征エピソードと非常に似ていますね。
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富家口伝では、いわゆるヤタガラスとしてヤマトへ道案内をしたのは大御気主(オオミケヌシ)なる登美家の人物だそうです。
大御気主は健甕依命(たけみかよりのみこと)という別名があり、母方で紀氏の血筋(高倉下の血筋)を引いているなど、記紀のエピソードと奇妙な類似点があるのも、口伝の真実味を高める面白い点だと思います。
和平条件=物部氏から后妃を迎え入れる
一方、磯城王朝のクニクル大王は和平交渉の条件として、物部氏の娘である欝色謎命(うつしこめ)を自らの后妃として朝廷に迎え入れるという決断を下します。
この政略結婚による妥協は、伝統的な祭祀を重んじる既存のヤマト豪族層と、強大な武力を背景に台頭してきた物部勢力との間に、一時的なパワーバランスをもたらすことになります。
大王家が物部氏の力を一定程度認めて朝廷の枠組みに取り込んだことにより、全面的な流血の内乱へと発展することを防ぎ、次代のオオヒビ大王(開化天皇)へと大王家の血統を存続させることになるのでした。
ヤマトの守備隊長:大彦命との対立と宗教戦争
孝霊天皇が吉備へ去ったのち、空白状態のヤマトを守っていたのは孝元天皇の嫡男(第一皇子)であった大彦命(おおひこのみこと)でした。
記紀では、崇神天皇の治世に四道将軍のひとりとして北陸道に派遣されたとされる、あの大彦命です。
富家の伝承によると、大彦命は出雲系で銅鐸祭祀を中心とする農耕神(太陽の女神やサイノカミなど)を崇拝を信奉する、次期大王に最も近い人物であり、尾張氏の拠点であった笛吹からも近い曽大根(そね)を拠点としていたことから”ナカソオネヒコ“とも呼ばれていたそうです。
先述の登美家と物部勢との間で和平が成立した後、鏡(神獣鏡など)を神宝とし、道教の神を祭る信仰を持っていた物部勢はヤマト一帯の銅鐸を壊して回ったことで、大彦勢と物部勢との間で宗教戦争が起こったと伝わります。
その後、劣勢となったナカソオネヒコはヤマトを離れることになり、物部政権が支配するヤマトからは賊軍として扱われるようになります。
これが神武の東征を阻んだ悪役:ナガスネヒコ(長髄彦)として描かれる原因になったのだそうです。
孝元天皇治世の時代背景・周辺エピソード
記紀では、孝元天皇治世を前214年~前158年ごろと記録しています。しかし、出雲口伝や竹内文書などの口伝を読み解くと、中国の歴史書『後漢書』東夷伝において「倭国大乱」と記録されている、恒帝・霊帝の頃(146〜189年)の大規模な連続内乱期のいずれかであったろう、と筆者は推察しています。
倭国大乱と登美家の日の巫女による一時的な安定
当時のヤマトは混乱し、絶対的な君主が存在しない事実上の無政府状態に近い状況であったと思われます。
奈良盆地周辺で発生した大王家・磯城家・登美家・尾張家・高鴨家などの勢力争い、西日本の広範囲を巻き込んだ、播磨・吉備・出雲の間で勃発した領域戦争。そして今回ご紹介した物部東征です。
この混乱を収めたのは、三輪山で太陽神を祭祀する登美家出身の姫巫女:倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)だったと言います。
孝元天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
孝元天皇を取り巻く豪族や勢力との関係性は、ヤマトの伝統を守ろうとする古参の氏族と、武力によって王権の中枢を掌握しようとする新興勢力との狭間で、極めて複雑かつ緊張に満ちたものでした。
磯城県主:葉江の玄孫、富夜麻登久邇阿礼比売
記紀の記述では、物部氏の娘であるウツシコメとの間には3人の子どもが生まれたとされています。
クニクル大王の長子である(1)大彦命、のちに開化天皇として即位することになる(2)オオヒビ、そして(3)モモソ姫(倭迹迹日百襲姫命)です。
しかし出雲口伝によると、登美家の意富夜麻登久邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめ、または倭国香媛)こそが、大彦や開化天皇、モモソ姫の実の母親であったといいます。
※なぜか大倭国阿礼姫(おおやまとくにあれひめ)でなく、と記されなかった理由が気になりますね。
その最大の根拠として挙げられるのが、当時のヤマトに厳然として存在していた仕来りと、物部vs大彦命との激しい宗教的対立です。
三輪山の日巫女:倭迹迹日百襲姫命
東出雲王家の末裔:富家に伝わる口伝(いわゆる出雲口伝)によると、大王の娘であるモモソ姫は、後に三輪山の太陽神を祭る臨時の最高司祭者である姫巫女に就任します。
しかし、伝統的なしきたりにおいて、三輪山の姫巫女になれるのは出雲系の豪族である磯城(しき)家か登美家の血を引く姫君に限定されていたといいます。
つまり、新興の物部氏の血を引く娘がこの聖なる地位に就くことは、当時の宗教的慣習からして絶対にあり得ないことだったとか。
これらの経緯から出雲口伝では、モモソ姫は孝元天皇と富夜麻登久邇阿礼比売との間に生まれた女性だと伝わっているようです。
言い換えると、物部氏は武力をもってヤマト入りしたものの、自身が信奉する道教では奈良盆地の民の心を掴むには至らなかったのかも知れませんね。
第一皇子・大彦命(おおひこのみこと)
また時代を下った崇神天皇の時代に、北陸地方を平定するために派遣される四道将軍(しどうしょうぐん)の1人となる人物:大彦命も重要な関連人物のひとりです。
彼は阿倍氏や膳氏など、朝廷の外交や供奉を司る主要な7つの豪族の共通の祖となりました。
【関連記事】四道将軍 〜記紀が描く四道将軍と、富家伝承が伝える四道将軍
孝元天皇の長男であり、本来であれば有力な次期大王候補であった大彦は、極端な「物部嫌い」として生涯を過ごし、物部勢力と激しく敵対していました。
この対立の本質は、単なる権力争いではなく、和国の精神世界を二分する「宗教戦争」にありました。
大王家や母方の尾張氏、そして登美氏は、古来より銅鐸祭祀を中心とする農耕神の崇拝を自らのアイデンティティとしていました。
物部氏の軍事的優勢が進むにつれ、ヤマト地方の多くの村々では物部氏の圧迫を恐れ、伝統的な銅鐸を地下深くへ隠して祭祀を中止する動きが相次ぎました。
カツラギの笛吹村(現在の奈良県葛城市)の東北にあたる曽大根で育ち、別名「ナカソオネヒコ」とも呼ばれた大彦は、この動きを深く無念とし、銅鐸祭祀を復興させるために物部勢力に対して二度にわたる激しい宗教戦争を仕掛けますが、最終的には物部勢に追われ、ヤマトを離れることになるのでした。
物部氏と大王家の血を引く彦太忍信命の誕生
歴代の天皇を支え、日本の長寿の象徴ともされる伝説の公臣、武内宿禰(たけうちのすくね)の先祖にあたる彦太忍信命が孝元天皇と物部氏の娘:伊香色謎命との間に誕生します。
武内宿禰の子孫は、のちに大和朝廷で絶大な権力を握る蘇我氏、葛城氏、平群氏、紀氏へと分かれていき、平安時代に至るまでの政治構造の骨組みを作ることになりますが、それはまた、別のお話し…
ちなみに、第73世武内宿禰の伝承によると、この孝元天皇の血脈は、大彦が東国へ開拓に赴いたアベ(阿倍)一族や、次代の開化天皇の血統を通じて、後の武内宿禰や天皇家の中枢へと脈々と受け継がれていくことになります。
孝元天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 孝元天皇(こうげんてんのう) |
| 本 名 | 大日本根子彦国牽(おおやまとねこひこくにくる) |
| 御 父 | 孝靈天皇(こうれいてんのう) |
| 御 母 | 細媛命(くわしひめのみこと) |
| 御 陵 名 | 剱池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ) |
| 陵 形 | 前方後円墳 |
| 所 在 地 | 奈良県橿原市石川町 |
| 交通機関等 | 近鉄 橿原神宮前駅から徒歩約16分 |
| 御在位期間 | 前214年~前158年 |
孝元天皇が静かに眠る劒池嶋上陵は、奈良県橿原市の石川町、古代からの歴史を秘めた剣池(石川池)の池中に浮かぶように位置する前方後円墳(中山大塚古墳)に治定されています。
欠史八代のひとりに数えられながらも、物部勢力との調和を図り、大彦命や武内宿禰の先祖を通じて古代日本の主要豪族の血統を開いた孝元天皇。
宮内庁によって神聖かつ厳重に管理されている御陵は、今も橿原の豊かな水面と樹木に囲まれた静寂の中に佇んでおり、訪れる人々に対して、ヤマト王権の血脈を固く繋いだ大王の気高き足跡を静かに語りかけています。
















