第2代:綏靖天皇 〜神武天皇から皇位を継承した慈愛の統治者

初代-25代

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、初代神武天皇の崩御後に起きた未曾有の危機を乗り越え、日本独自の「譲り合い」の精神を後世に伝えた第2代・綏靖(すいぜい)天皇をご紹介します。

綏靖天皇の人物像・エピソード

綏靖天皇の本名は神渟名川耳(かんぬなかわみみ)と言います。

綏靖天皇を語る上で欠かせないのが、皇位継承を巡る異母兄・手研耳命(たぎしみみのみこと)との確執です。

神武天皇の即位後に皇后とした五十鈴姫との息子である綏靖天皇は、異母兄の手研耳命(たぎしみみ)が神武天皇の崩御後に執政を執っていた時期、その統治に納得していなかったと言います。

手研耳命は、神武天皇が即位する前に日向で妻としていた吾平津姫(あひらつひめ)と神武天皇との間に生まれた息子です。今風に言うと「腹違いの兄」ですね。

神武天皇崩御の後、手研耳命は自らが権力を握るため、綏靖天皇とその兄弟を殺害しようと画策しました。この窮地に際し、綏靖天皇は実兄である神八井耳命(かむやいみみのみこと)と力を合わせ、反乱を未然に防ぐことに成功します。

特筆すべきは、その後のエピソードです。反乱を鎮圧した後、綏靖天皇は「自分を助けてくれた兄上こそが天皇になるべきだ」と、神八井耳命に皇位を譲ろうとしました。

しかし兄の神八井耳命は大王の座を辞退し、自身は天皇を助けて祭祀(神祇)を掌る役割を担うようになったとされています。

歴史学上では「欠史八代」の一人として、実績が乏しいとされる綏靖天皇ではありますが、古事記や日本書紀を読むだけでも、彼がいかにして国家の安定を導いたかという足跡を読み取ることができます。

 

また正統竹内文書に伝わる口伝には、興味深いこのようなエピソードが残されています。

綏靖天皇に倒されることになった手研耳命には、岐須美美命(きすみみ)という御子がいたそうです。

岐須美美命は叛逆を起こした手研耳命の息子──。つまり綏靖天皇の甥にあたるわけですが、綏靖天皇と神八井耳命は、岐須美美命を殺したりせずに自分たちの弟として匿った、というのです。

事実、日本の正史である古事記を紐解いてみると、岐須美美命は神武天皇の子(=綏靖天皇の弟)として系譜が残されています。

 

綏靖天皇の功績・主な出来事

桃花鳥田丘上陵を拝所から。

綏靖天皇の時代は、初代神武天皇が拓いたばかりの新しい国を、いかにして次代へ繋いでいくかという極めて不安定な時期だったと思われます。神話の色彩が色濃く残る一方で、現実的な政治闘争が始まった時代でもあったのでしょう。

当然ながら趣味や嗜好に関する直接的な記録は少ないものの、その諡号が示す通り、争いよりも「調和」を重んじる環境を好んだのかも知れません。

また、彼の名にある「沼河(ぬなかわ)」という言葉は、豊かな水辺の風景を想起させ、農耕の安定を願った当時の社会背景を映し出しているようにも感じられます。どこか出雲の匂いを感じるのは私だけでしょうか。

 

【参考】手研耳命が媛蹈鞴五十鈴媛を娶ろうとした理由?

古事記によると、神武天皇が崩御した後、手研耳命は五十鈴媛を正妃とし、権力の掌握をはかろうとします。

これは筆者の推察ですが、手研耳命(たぎしみみ)の行動はおそらく有力豪族の後ろ盾を得るためだったと思われます。

神武天皇の妻であり、事代主の娘でもある媛蹈鞴五十鈴媛を娶ることで、奈良盆地で力を持っていた事代主一族を味方に取り込み、神武天皇の後継者を目指していたのでしょう。

※現代の感覚ではイメージが湧きにくいですが、ユダヤ・モンゴル・チベットなどでみられたレビラト婚(遺産の保全や血筋の存続を目的に寡婦を妻とする)という慣習に近しいイメージでしょうか。

 

しかし結果として五十鈴媛は、綏靖天皇や神八井耳命に和歌を2首詠むことで危機を伝え、大王の系統は神渟名川耳に伝わることとなります。

 

綏靖天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 綏靖天皇(すいぜいてんのう)
本   名 神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみ)
御   父 神武天皇
御   母 媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)
御 陵 名 桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 奈良県橿原市四条町 字田ノ坪
交通機関等 大阪なんばから近鉄南大阪線で「畝傍御陵前」下車徒歩10分
御在位期間 前581年1月8日 – 前549年5月10日
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