ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
記念すべき第一回は、日本建国の父である初代天皇:神武天皇(神日本磐余彦天皇|かむやまといわれひこのすめらみこと)が眠るとされる、奈良県橿原市・畝傍山東北陵 (うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)からスタートします。
かつて宮を置いたとされる、畝傍橿原宮の推定地に建立された「橿原神宮」からも徒歩圏内です。
今上陛下まで120代の血統をつなぎ、2600年以上も続くとされる世界最古の王朝、日本の皇室─。その始まりには、どのようなエピソードがあったのでしょうか?
神武天皇のヤマト入りから、すべては始まる

神武天皇は、名を彦火火出見(ひこほほでみ)といい、『古事記』では若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、また美称として神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)などさまざまな名前が見られます。
※この記事では記紀における神武天皇をイワレヒコと呼ぶことにします。
記紀では、父に彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず)、母に玉依姫(たまよりひめ)を持つとされています。
イワレヒコが45歳の時、彼は「一国の長にとどまらず、天下を治めるにふさわしい美しい地(東方の地)へ都を移し、六合(国全体)を一つの家のように平穏に治めよう」という壮大な理想を掲げます。
これが、世に言う「神武東征(じんむとうせい)」の始まりでした。
神武東征の始まりと兄:イツセの戦死

参道を歩こうとすると、正面に太陽をのぞむような写真が撮れました。逆光!
しかし、その旅路は決して平坦なものではありませんでした。
日向を出発し、豊の国:宇佐(大分県)〜筑紫の岡田宮(福岡県)〜阿岐の国:多祁理(広島県)〜吉備国高嶋宮(岡山県)など瀬戸内海を経由したのち、ようやく大阪(難波)の地へ上陸します。
しかし、そこで地元の有力豪族である長髄彦(ながすねひこ)の激しい抵抗に遭うことになります。この最初の決戦で、イワレビコ一行は最愛の兄である五瀬命(いつせのみこと)を矢傷で失うという激しい悲劇に見舞われたのでした。
紀伊半島を迂回して熊野からヤマトへ

兄イツセの死に直面したイワレヒコは「我々は日の神の子孫でありながら、日に向かって(東を向いて)戦ったのが良くなかった。これからは日を背にして(西を向いて)戦おう」と深く反省し、紀伊半島を大きく迂回して熊野から大和へと迫るルートを選択します。
※神武天皇は太陽神:天照大御神の末裔だとされています。
熊野の険しい山中では、毒気によって軍全体が倒れるという絶体絶命の危機に陥りましたが、高倉下(たかくらじ)を通して天から授けられた一振りの神剣:布都御魂(ふつのみたま)の力によって奇跡的に危機を脱します。
八咫烏の導きと「橿原宮」での即位

熊野の深い山道で進路を失ったイワレヒコの前に現れたのが、天から遣わされた三本足の巨大な鴉、「八咫烏(やたがらす)」でした。
八咫烏は軍の先頭に立って飛び、険峻な山々を案内して一行をヤマトの地へと導きます。現在でも八咫烏が「導きの神」やサッカー日本代表のシンボルとして親しまれているのは、この神武東征の伝説が起源となっています。
さらに、再び相まみえた天敵・長髄彦との最終決戦の最中、にわかに空が曇り、一羽の金色に輝く鵄(とび)が磐余彦尊の弓の先に止まります。
その鵄が放つ稲妻のような強烈な光に目が眩んだ長髄彦の軍は、戦意を喪失し、ついに降伏へと追い込まれました。

金鵄により
橿原の地で即位、媛蹈鞴五十鈴媛命を妻に
こうして数々の死闘を潜り抜け、大和国を平定した磐余彦尊は、庚午年(紀元前660年とされる伝統的年代)の1月1日、畝傍山(うねびやま)の東南の麓に「橿原宮(かしはらのみや)」を造営し、初代大王(天皇)として即位しました。
この即位の際に出された詔にある「八紘を掩うて宇と為さん(八紘一宇:はっこういちう)」という言葉は、世界を一つの家族のように平和に包み込もうという建国の基本理念であり、日本という国家の精神的な出発点となったのです。
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2600年以上?続く日本建国の大偉業

神武天皇の最大の功績は、何といっても「日本の建国」そのものです。
九州から瀬戸内海を経て近畿に至る長い遠征の末、大和の橿原(かしはら)の地で即位し、日本初の統一王朝である大和朝廷を創始したとされています。
神武天皇が即位元年から始まる”皇紀”

その功績を象徴するのが「皇紀(こうき)」です。 神武天皇が即位した年を元年とするこの暦は、日本の歴史を語る上での大きな柱となりました。 1940年(昭和15年)には「紀元二千六百年」の盛大な式典が行われましたが、これは神武天皇の建国から2600年という節目を祝ったものです。
また、内政面では「大伴(おおとも)一族」などの有力氏族を親衛隊として組織し、軍事的な安定を図りました。
彼らのような専門職集団をうまく登用することで、単なる武力による制圧ではなく、秩序に基づいた国家運営の基礎を築いた点も特筆すべき実績です。 さらに先住の勢力であったとされるニギハヤヒノミコトを受け入れ、融和を図ったことも、その後の安定した統治に大きく貢献しました。
これにより日本に統一された王朝の基礎が確立され、現代まで息づく2600年以上にわたる日本の皇室、日本国の歴史の出発点となったのです。
神武ヤマト入り直後の日本

これはあくまでも筆者の考察ではありますが、神武天皇が即位した後も天皇やその忠臣たちが各地の勢力を平定していくエピソードが残っているので、この時点で日本を統一したわけではないと思われます。
しかし現代の皇室に連なる礎が、神武天皇とされる人物を中心にヤマト=奈良盆地で出来上がったのは間違いないのでしょう。奈良盆地に力をもっていた複数の豪族たちが、神武天皇をトップとする形でひとつになったのがこの時代なのではないでしょうか。
【参考記事】磯城縣主一族 〜ヤマト王権黎明期の実力者、その隆盛と衰退
神武〜応神期まで「1年」の考え方が違っていた?

神武天皇が宮を置いたとされる「畝傍橿原宮」の推定地にある橿原神宮
ちなみに…当時の時代背景を理解する上で、暦の記述方法が現代とは異なる点に注意が必要です。
神武天皇の即位から始まる日本独自の暦:皇紀は、紀元前660年に始まったされています。
しかしとある口伝(正統竹内文書、出雲口伝など)によるとこれは春秋暦を用いて計算されたものであり、実際の即位時期は紀元1世紀ごろでは?という話のようです。
※『三国志』第30巻「魏書」に記述のあるミマキとイクメ。この二人を崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)と垂仁天皇(イクメイリヒコイサチ)にあてると近しい年代が割り出せます。
この春秋暦では1年を2年として数える時期があったため、現在の暦とは異なり単純に2倍の年数が計算がなされている、という理屈ですね。
現代の神社でも6月30日には夏越の祓(なごしのはらえ)、12月31日には大祓(おおはらえ・年越大祓)という神事が行われますが、これは春秋暦の名残と言えるのかもしれません。
神武天皇と関連氏族・敵対勢力

東征の完遂において、敵対勢力だけでなく、神武天皇を心から受け入れ、新体制を支えた周囲の氏族たちの存在は欠かせません。
大和の地で神武天皇を迎え入れたのが、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)でした。
この人物は「天照国照彦天火明命」という、海や国土を照らす大いなる名を持ち、系図上は大和朝廷にうまく繋げられていますが、本来のルーツは天照(大和系)ではなく、出雲系の強力な大物主(スサノオ・素戔嗚尊)の四男にあたります。
すなわち、もともと大和の地を実質的に統治していたのは、この出雲系のニギハヤヒノミコトの一族だったのです。
【参考記事】天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)とは何者か?

橿原神宮本殿と畝傍山
ニギハヤヒノミコトの息子であるウマシマジノミコト(宇摩志麻治命)は、後に大阪の有名な神社(石切剣箭神社など)に祀られ、この地で大きな勢力を握ったとされます。
神武天皇が政権を確立するにあたり、これら出雲系の血を引くウマシマジノミコトを祖とする「物部氏(もののべし)」と、天皇の補佐や親衛隊長として宮中を守護した「大伴氏(おおともし)」の二大有力氏族が朝廷へと結びつくことになります。

橿原神宮の鳥居と日本国旗:日の丸
神武天皇は、私たちが暮らす日本という国の創始者として、その後の歴史に計り知れない影響を与えました。
実在を示す考古学的な物的証拠が発見されている訳ではありませんが、後世に続く各氏族への伝承や後裔氏族たちの存在からも、神武天皇のモデルとなった人物が実在していたのは間違いないでしょう。
【参考記事】天村雲命 〜三種の神器の名を冠す海部・尾張氏の祖神の正体とは?
神武天皇の建国により、日本は単一の王権による統一国家としての道を歩み始め、その後の歴代天皇へと連なる統治の基盤が確立されました。
神武天皇の物語は、単なる過去の記録ではなく、今の日本がどのようにして始まったのかを示す壮大なドラマです。奈良の橿原を訪れ、畝傍山の麓に眠る初代天皇の御陵を前に目を閉じてみて下さい。
2000年以上前から脈々と続く、我が国の歴史の重みを感じられるはずです。
神武天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 神武天皇(じんむてんのう) |
| 御 父 | 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず) |
| 御 母 | 玉依姫命(たまよりひめ) |
| 御 陵 名 | 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 奈良県橿原市大久保町 |
| 交通機関等 | 近鉄「畝傍御陵前」下車 西へ0.7km |
| 御在位期間 | 紀元前660年〜紀元前585年4月9日 |
神武天皇が眠る畝傍山東北陵は、建国の地である橿原神宮のすぐ近く、大和三山の一つである畝傍山のふもとに位置しています。
広大な敷地は深い緑の木々に包まれており、整然と敷き詰められた玉砂利の道を歩むと、鳥居の向こうに静かに佇む御陵が現れます。明治時代に大規模な整備が行われ、現在の極めて厳かで美しい姿となりました。
神話の霧の向こうから歩みを始め、日本という国の輪郭を最初に描き出した神武天皇──。
まるで、自らが拓いた大和の地を、畝傍山のそばから静かに見守り続けているかのようです。
