初代:神武天皇 〜神話と皇室とを繋ぐ、ヤマトの地で即位した日本建国の父

初代-25代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

記念すべき第一回は、日本建国の父である初代天皇:神武天皇(神日本磐余彦天皇|かむやまといわれひこのすめらみこと)が眠るとされる、奈良県橿原市・畝傍山東北陵 (うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)からスタートします。

かつて宮を置いたとされる、畝傍橿原宮の推定地に建立された橿原神宮からも徒歩圏内です。

今上陛下まで120代の血統をつなぎ、2600年以上も続くとされる世界最古の王朝、日本の皇室─。その始まりには、どのようなエピソードがあったのでしょうか?

神武天皇の人物像・エピソード

神武天皇は、名を彦火火出見(ひこほほでみ)といい、日向の高千穂に宮を置いた鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と海の神の娘である玉依姫(たまよりひめ)との間に生まれました。

  • 神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)
  • 若御毛沼命(わかみけぬのみこと)
  • 豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)
  • 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
  • 狭野尊(さののみこと、さぬのみこと)

などなど…さまざまな名前が見られます。この記事では、即位までの初代天皇:神武天皇を”イワレビコ”と呼ぶことにします。

また、日本神話において天を司どる神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)の五世孫にあたります。

神武天皇の人となりは、極めて志が強く勇猛果敢でありながら、深い洞察力と誠実な仁徳を兼ね備えた人物として伝えられています。

 

“神武東征”を経て、初代天皇として即位するまで

参道を歩こうとすると、正面に太陽をのぞむような写真が撮れました。逆光!

神武天皇が45歳の時、兄たちや一族を集めて「どこへ行けば安らかに国を治められるだろうか。東に豊かな良い土地がある。そこへ行って都を造ろう」と呼びかけ、日向の地から東へ向けて出発します。

これが日本史上に名高い神武東征の始まりです。しかし、その旅路は決して平坦なものではありませんでした。

 

長髄彦との衝突と五瀬命の負傷

日向を出発し、豊の国:宇佐(大分県)〜筑紫の岡田宮(福岡県)〜阿岐の国:多祁理(広島県)〜吉備国高嶋宮(岡山県)など瀬戸内海を経由したのち、ようやく浪速国(現在の大阪府)の地へ上陸します。

しかし浪速国(現在の大阪府)の孔舎衛坂(くさえのさか)にて、大和の有力豪族である長脛彦(ナガスネヒコ)の軍勢と激突した際、最愛の兄である五瀬命(いつせのみこと)が敵の毒矢を受けて負傷しました。

この最初の決戦で、イワレビコ一行は最愛の兄である五瀬命を矢傷で失う、という悲劇に見舞われたのでした。

 

紀伊半島を迂回して、熊野からヤマトを目指す

御陵へ向かう参道。厳かな雰囲気です

兄イツセの死に直面したイワレビコは

我々は日の神の子孫でありながら、日に向かって(東を向いて)戦ったのが良くなかった。これからは日を背にして(西を向いて)戦おう

と深く反省し、紀伊半島を大きく迂回して熊野から大和へと迫るルートを選択します。

しかし熊野の険しい山中でも、毒気によって軍全体が倒れるという絶体絶命の危機に陥ってしまいます。

しかしそこで祖神である天照大御神から高倉下(たかくらじ)を通して一振りの神剣:布都御魂(ふつのみたま)を授けられると、その奇跡的な力によって危機を脱します。

 

八咫烏によるヤマトへの導き

御陵が見えてきました。高揚感に包まれます

そして、熊野の深い山道で進路を失ったイワレヒコの前に現れたのが、やはり先祖神にあたる天照大御神から遣わされた三本足の巨大なカラス、八咫烏(やたがらす)でした。

八咫烏はイワレビコ軍の先頭に立って飛び、険峻な山々を案内して一行をヤマトの地へと導きます。

現在でも八咫烏は導きの神やサッカー日本代表のシンボルとして親しまれていますが、八咫烏はこの神武東征の伝説が起源となっています。

ちなみに古代中国では、太陽の中に3本足のカラス(=八咫烏のモデル?)が住んでいると考えられていました。
太陽神である天照大御神がイワレビコに使わした八咫烏は、自らの化身とも言える存在だったのかも知れませんね。

さらに、再び相まみえた天敵・長髄彦との最終決戦の最中、にわかに空が曇り、一羽の金色に輝く鵄(とび)が磐余彦尊の弓の先に止まります。

そしてその鵄が放つ稲妻のような強烈な光に目が眩んだ長髄彦の軍は、戦意を喪失し、ついに降伏へと追い込まれるのでした。

金鵄が放つ光により戦意を喪失するナガスネヒコ軍

ニギハヤヒの恭順、橿原の地で即位

神武天皇即位の地である橿原の地に建立された「橿原神宮」と畝傍山

長髄彦は饒速日命(にぎはやひのみこと)を君主として奉じ、神武天皇に抵抗していましたが、神武天皇が天孫の証である天の羽々矢歩靫(かゆき)を示すと、饒速日命も自らが天孫族である証を提示し、互いに天孫であることを確認しました。

こうして数々の死闘を潜り抜け、大和国を平定したイワレビコは、庚午年(紀元前660年とされる伝統的年代)の1月1日、畝傍山の東南の麓に橿原宮(かしはらのみや)を造営し、晴れて初代大王として即位します。

 

私たちの生まれた国である日本建国には、冒険映画・RPGゲームさながらのエピソードがあったんです。面白いですよね!

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現代まで続く日本の建国者:初代大王として即位

正面に見える御陵。

神武天皇の最大の功績は、何といっても日本の建国そのものです。

九州・日向の地から瀬戸内海を経て、近畿に至る長い遠征の末に橿原の地で即位し、日本初の統一王朝である大和朝廷を創始したとされています。

 

八紘一宇の建国理念を掲げ、祭祀・農耕の基盤を整える

この即位の際に出された詔にある八紘を掩うて宇と為さん(八紘一宇:はっこういちう)という言葉は、世界を一つの家族のように平和に包み込もうという考え方であり、日本という国家の精神的な出発点となった建国の基本理念でもあります。

また即位後の神武天皇は、神々を祀る祭祀を厳格に執り行い、国家の安寧を祈るとともに、治水や農耕の基盤を整えたと言います。

これは、力による統治のみならず、祭祀と治水・農耕をヤマトの民に伝えることにによって民の心を掴んだことの表れだという解釈もあるようです。

そして、大和在来の有力な神々の血を引く媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃として迎え入れ、地元の古い勢力と平和的に血縁を結ぶことで、新政権の正統性を高めることにも成功します。

こうして神武天皇は、初代大王として大和盆地全体に永続的な秩序と安定をもたらすことになるのでした。

 

神武天皇の即位元年から始まる”皇紀”

また、その功績を象徴するのが皇紀(こうき)です。

神武天皇が即位した年を元年とするこの暦は、日本の歴史を語る上での大きな柱となり、1940年(昭和15年)には神武天皇の建国から2600年という節目を祝って紀元二千六百年の盛大な式典が行われました。

旧日本軍の有名な戦闘機:零式艦上戦闘機(ゼロ戦)も、採用年次の皇紀下2桁を冠する規定からきています。2600年の下2桁の00から”零式”と呼ばれていたそうです。

 

神武天皇の即位=ヤマト王権の成立?

これはあくまでも筆者の考察ではありますが、神武天皇が即位した後も天皇やその忠臣たちが各地の勢力を平定していくエピソードが残っているので、この時点で日本を統一したわけではないと思われます。

しかし、現代の皇室に連なる礎が神武天皇とされる人物を中心にヤマト=奈良盆地で出来上がったのは間違いないのでしょう。

奈良盆地に力をもっていた複数の豪族たちが、神武天皇をトップとする形でひとつになったのがこの時代なのではないでしょうか。

特に磯城県主の一族は、初代:神武の即位後に妃を送り出して以降、第8代:孝元天皇が物部系の妃を迎えるまでの間、7代続けて大王家へ娘を嫁がせているというのも興味深いポイントですね。

大王家(皇室家)が、磯城県主一族の血統を重視していた理由についても考察していますので興味のある方は関連記事をご覧ください。

【参考記事】磯城縣主一族 〜ヤマト王権黎明期の実力者、その隆盛と衰退

 

神武〜応神期ごろまで”1年”の考え方が違っていた?

ちなみに…当時の時代背景を理解する上で、暦の記述方法が現代とは異なる点に注意が必要です。

神武天皇の即位から始まる日本独自の暦:皇紀は、紀元前660年、BC:660年に始まったとされています。

しかし各家に伝わる口伝(正統竹内文書、出雲口伝など)によると、これは春秋暦を用いて計算されたものであり、実際の即位時期は紀元1世紀ごろでは?という話のようです。

※『三国志』第30巻「魏書」に記述のあるミマキとイクメ。この二人を崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)と垂仁天皇(イクメイリヒコイサチ)にあてると近しい年代が割り出せます。

【参考記事】第10代:崇神天皇 〜国家の礎を築いた”ハツクニシラススメラミコト”
【参考記事】第11代:垂仁天皇 〜殉葬を廃して埴輪を創し、伊勢に神霊を鎮めた帝

この春秋暦では1年を2年として数える時期があったため、現在の暦とは異なり単純に2倍の年数が計算がなされている、という理屈ですね。

現代の神社でも6月30日には夏越の祓(なごしのはらえ)、12月31日には大祓(おおはらえ・年越大祓)という神事が行われますが、これは春秋暦の名残と言えるのかもしれません。

 

神武天皇と関連氏族・敵対勢力

東征の完遂において、敵対勢力だけでなく、神武天皇を心から受け入れ、新体制を支えた周囲の氏族たちの存在は欠かせません。

記紀によると、大和の地で神武天皇を迎え入れたのはニギハヤヒノミコト(饒速日命)でした。

この人物は「天照国照彦天火明命」という、海や国土を照らす大いなる名を持ち、系図上は大和朝廷にうまく繋げられていますが、本来のルーツは天照(大和系)ではなく、出雲系の強力な大物主(スサノオ・素戔嗚尊)の四男にあたります。

すなわち、もともと大和の地を実質的に統治していたのは、この出雲系のニギハヤヒノミコトの一族だったのです。

【参考記事】天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)とは何者か?

天皇を強く支えた最側近としては、道臣命(みちのおみのみこと=大伴氏の祖)や椎根津彦(しいねつひこ=倭国造の祖)が挙げられます。

道臣命は大伴氏の祖として親衛隊を率い、八咫烏の導きに従って山道を切り開き、戦においては先陣を切って神武天皇を守り抜きました。

また、熊野で霊剣を献上した高倉下は尾張氏や海氏・海部氏の祖とされており、イワレビコが軍勢の危機を救う決定的な役割を果たした一族でもあります。

神武天皇は、私たちが暮らす日本という国の創始者として、その後の歴史に計り知れない影響を与えました。

実在を示す考古学的な物的証拠が発見されている訳ではありませんが、後世に続く各氏族への伝承や後裔氏族たちの存在からも、神武天皇のモデルとなった人物が実在していたのは間違いないでしょう。

【参考記事】天村雲命 〜三種の神器の名を冠す海部・尾張氏の祖神の正体とは?

神武天皇の建国により、日本は単一の王権による統一国家としての道を歩み始め、その後の歴代天皇へと連なる統治の基盤が確立されました。

神武天皇の物語は、単なる過去の記録ではなく、今の日本がどのようにして始まったのかを示す壮大なドラマです。奈良の橿原を訪れ、畝傍山の麓に眠る初代天皇の御陵を前に目を閉じてみて下さい。

2000年以上前から脈々と続く、我が国の歴史の重みを感じられるはずです。

 

神武天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 神武天皇(じんむてんのう)
御   父 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)
御   母 玉依姫命(たまよりひめ)
御 陵 名 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 奈良県橿原市大久保町
交通機関等 近鉄「畝傍御陵前」下車 西へ0.7km
御在位期間 紀元前660年〜紀元前585年4月9日

橿原神宮の鳥居と日本国旗:日の丸

神武天皇が眠る畝傍山東北陵は、建国の地である橿原神宮のすぐ近く、大和三山の一つである畝傍山のふもとに位置しています。

広大な敷地は深い緑の木々に包まれており、整然と敷き詰められた玉砂利の道を歩むと、鳥居の向こうに静かに佇む御陵が現れます。明治時代に大規模な整備が行われ、現在の極めて厳かで美しい姿となりました。

神話の霧の向こうから歩みを始め、日本という国の輪郭を最初に描き出した神武天皇──。

まるで、自らが拓いた大和の地を、畝傍山のそばから静かに見守り続けているかのようです。

拝殿を振り向くと見える景色。やはり圧巻です。

 

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