ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
記念すべき第一回は、日本建国の父である初代天皇:神武天皇(神日本磐余彦天皇|かむやまといわれひこのすめらみこと)が眠るとされる、奈良県橿原市・畝傍山東北陵 (うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)からスタートします。
かつて宮を置いたとされる、畝傍橿原宮の推定地に建立された「橿原神宮」からも徒歩圏内です。
今上陛下まで120代・2000年以上も続くとされ、世界最古の王朝である日本の皇室─。その始まりには、どのようなエピソードがあったのでしょうか。
神武天皇のヤマト入りから、すべては始まった

神武天皇は、九州日向の地から畿内へと東征(神武東征)し、現在まで続く統一された王朝(皇室)である日本という国体の基礎を築いた初代天皇で、その御名は日本の国づくりの象徴として伝わっています。
我が国の正式な歴史書(=正史)である記紀によると、即位前の神武天皇は名を磐余彦(いわれひこ)といい、広大な日本の地を統一するため、九州・日向から畿内へと道を歩み始めます。 ※日向:現在の宮崎県
その道中、ご兄君である五瀬命(いつせのみこと)が、近畿地方の土着の豪族、長髄彦(ながすねひこ)との戦いで命を落としてしまい、さらに神武天皇ご自身も一時的に道を見失われるなど、一筋縄ではいかない数多くの困難に直面します。
しかしその苦境の中で高倉下(たかくらじ)という神が現れ、磐余彦(いわれひこ)に布都御魂(ふつのみたま)という霊剣をもたらします。
またさらに八咫烏(やたがらす)という存在が神武天皇を導き、ついにヤマト入りに成功!橿原の地で皇位に即位し 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を皇后に迎えたとされています。
私たちの生まれた国である日本建国には、冒険映画・RPGゲームさながらのエピソードがあったんです。面白いですよね!
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神武天皇の挙げた事績

神武天皇の最大の功績は、何といっても「日本の建国」そのものでしょう。
九州から瀬戸内海を経て近畿に至る長い遠征の末、大和の橿原(かしはら)の地で即位し、日本初の統一王朝である大和朝廷を創始しました。
その功績を象徴するのが「皇紀(こうき)」です。 神武天皇が即位した年を元年とするこの暦は、日本の歴史を語る上での大きな柱となりました。 1940年(昭和15年)には「紀元二千六百年」の盛大な式典が行われましたが、これは神武天皇の建国から2600年という節目を祝ったものです。
また、内政面では「大伴(おおとも)一族」などの有力氏族を親衛隊として組織し、軍事的な安定を図りました。 彼らのような専門職集団をうまく登用することで、単なる武力による制圧ではなく、秩序に基づいた国家運営の基礎を築いた点も特筆すべき実績です。 さらに先住の勢力であったとされるニギハヤヒノミコトを受け入れ、融和を図ったことも、その後の安定した統治に大きく貢献しました。
これにより日本に統一された王朝の基礎が確立され、現代まで息づく2600年以上にわたる日本の皇室、日本国の歴史の出発点となったのです。

これはあくまでも筆者の考察ではありますが、神武天皇が即位した後も天皇やその忠臣たちが各地の勢力を平定していくエピソードが残っているので、この時点で日本を統一したわけではないと思われます。
しかし現代の皇室に連なる礎が、神武天皇とされる人物を中心にヤマト=奈良盆地で出来上がったのは間違いないのでしょう。この場所周辺に力をもっていた複数の豪族たちが、神武天皇をトップとする形でひとつになったのがこの時代なのではないでしょうか。
【参考記事】磯城縣主一族 〜ヤマト王権黎明期の実力者、その隆盛と衰退

神武天皇が宮を置いたとされる「畝傍橿原宮」の推定地にある橿原神宮
ちなみに…当時の時代背景を理解する上で、暦の記述方法が現代とは異なる点に注意が必要です。
神武天皇の即位から始まる日本独自の暦:皇紀は、紀元前660年に始まったされています。
しかしとある口伝(正統竹内文書、出雲口伝など)によるとこれは春秋暦を用いて計算されたものであり、実際の即位時期は紀元1世紀ごろでは?という話のようです。 ※『三国志』第30巻「魏書」に記述のあるミマキとイクメ。この二人を崇神天皇と垂仁天皇にあてると近しい年代が割り出せます。
この春秋暦では1年を2年として数える時期があったため、現在の暦とは異なり単純に2倍の年数が計算がなされている、という理屈ですね。
現代の神社でも6月30日には夏越の祓(なごしのはらえ)、12月31日には大祓(おおはらえ・年越大祓)という神事が行われますが、これは春秋暦の名残と言えるのかもしれません。
神武天皇と関連氏族・敵対勢力

東征の完遂において、敵対勢力だけでなく、神武天皇を心から受け入れ、新体制を支えた周囲の氏族たちの存在は欠かせません 。大和の地で神武天皇を迎え入れたのが、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)でした 。この人物は「天照国照彦天火明命」という、海や国土を照らす大いなる名を持ち、系図上は大和朝廷にうまく繋げられていますが、本来のルーツは天照朝(大和系)ではなく、出雲系の強力な大物主(スサノオ・素戔嗚尊)の四男にあたります 。すなわち、もともと大和の地を実質的に統治していたのは、この出雲系のニギハヤヒノミコトの一族だったのです 。
【参考記事】天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)とは何者か?
ニギハヤヒノミコトの息子であるウマシマジノミコト(宇摩志麻治命)は、後に大阪の有名な神社(石切剣箭神社など)に祀られ、この地で大きな勢力を握ったとされます。
神武天皇が政権を確立するにあたり、これら出雲系の血を引くウマシマジノミコトを祖とする「物部氏(もののべし)」と、天皇の補佐や親衛隊長として宮中を守護した「大伴氏(おおともし)」の二大有力氏族が朝廷へと結びつくことになります。
天皇を命がけで支え、大君(おおきみ)のお供をするからこそ「大伴」と呼ばれるようになったその実績は、各一族の確かな伝承として数百年以上にわたり連綿と語り継がれていくのでした。
まとめ:その後の影響

橿原神宮の鳥居と日本国旗:日の丸
神武天皇は、私たちが暮らす日本という国の創始者として、その後の歴史に計り知れない影響を与えました。
その実在こそ考古学的な物的証拠は発見されておらず、学術的に証明されてはいる訳ではありませんが、ご兄君たちの確かな実績や、後世に続く各氏族への伝承や後裔氏族たちの存在からも、神武天皇のモデルとなった人物が実在していたのは間違いないでしょう。
【参考記事】天村雲命 〜三種の神器の名を冠す海部・尾張氏の祖。その正体に迫る
神武天皇の建国により、日本は単一の王権による統一国家としての道を歩み始め、その後の歴代天皇へと連なる統治の基盤が確立されました。
神武天皇の物語は、単なる過去の記録ではなく、今の日本がどのようにして始まったのかを示す壮大なドラマです。奈良の橿原を訪れ、畝傍山の麓に眠る初代天皇の御陵を前に目を閉じてみて下さい。
2000年以上前から脈々と続く、我が国の歴史の重みを感じられるはずです。
神武天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 神武天皇(じんむてんのう) |
| 御 父 | 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず) |
| 御 母 | 玉依姫命(たまよりひめ) |
| 御 陵 名 | 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 奈良県橿原市大久保町 |
| 交通機関等 | 近鉄「畝傍御陵前」下車 西へ0.7km |
| 御在位期間 | 紀元前660年〜紀元前585年4月9日 |
