第38代:天智天皇 〜不屈の意志で新たな国家の夜明けを切り拓いた改革者

第26-50代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、大化の改新の主導者として古代日本の国家体制を劇的に変革し、白村江の戦いという未曾有の対外危局を乗り越えて近江大津宮にて即位された第38代:天智天皇(てんじてんのう)の御生涯をご紹介します。

古代国家の礎を築くために情熱を燃やし、激動の葛藤期を駆け抜けた帝の足跡を深く辿ってみましょう。

天智天皇の人物像・エピソード

京都市地下鉄 東西線「御陵」駅から15分ほど。参道も長く結構歩くので、足に自身のない方はバスか車の方が良いかも

天智天皇の本名は、天命開別尊(あめのみことひらかすわけのみこと)と記録されており、父は舒明天皇、母は宝皇女こと斉明天皇(皇極天皇)という、超サラブレッドの血統に生まれました。

即位前の呼称としては、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)葛城皇子(かづらきのおうじ)の名で広く知られています。

ちなみにこの「中大兄」とは、天皇位の継承資格を持つ一番目の兄(古人大兄皇子など)に次ぐ2番目の大兄(次男・次の皇位継承者)という意味があります。

文化面でいうと小倉百人一首の第1番歌「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」の作者としても知られています。筆者も中学校のころに百人一首、やりました。

 

蘇我氏の威勢を憂い”乙巳の変”の中心へ

その人物像は、極めて高い決断力と政治的鋭敏さを持ち、必要とあれば冷徹な手段をも辞さない強い意志を備えた人物として伝えられています。

中大兄皇子の青年期は、豪族・蘇我氏の本宗家(蘇我蝦夷・蘇我入鹿)が朝廷の権力を独占し、皇室の権威を凌ぐほどの威勢を誇っていた時代でしたが、古代国家の主導権を皇室の手へと取り戻すために行動します。

645年、法興寺の蹴鞠の会で出会った中臣鎌足(後の藤原鎌足)と固い密約を結び、飛鳥板蓋宮において皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を打倒する乙巳の変(いっしのへん)を断行。

入鹿の死を知った蝦夷は、自身の邸宅に火を放ち自害します。

こうして蘇我氏本宗家は、蝦夷の父である蘇我馬子が聖徳太子と共に執筆した歴史書:『天皇記』『国記』と一緒に歴史の闇に消えてゆくことになるのでした。

 

即位に至るまでのハードすぎる道のり

かなり長めの参道。

蘇我本宗家を打倒した中大兄ですが、自身が皇位につくのは少し先になります。ここで一度、乙巳の変直前の皇位継承レースの状況について両親の血統と合わせて整理しておきましょう。

当時、次期天皇として考えられる人物は4人。古代日本では母方の血統も重視されていたので、参考まで両親の名前を記載することにします。

  • 古人大兄皇子|父:舒明天皇、母:蘇我蝦夷の妹(蘇我法提郎女)
  • 軽皇子|父:茅渟王、母:吉備姫王 ※ただし皇極天皇の同母弟
  • 中大兄皇子|父:舒明天皇、母:皇極天皇
  • 大海人皇子|父:舒明天皇、母:皇極天皇 ※中大兄の同母弟。諸説あり

名前からもわかる通り、当時は大臣として政治の中心にいた蘇我本宗家との関係性は重要視されています。つまり蘇我家の血筋を母に持つ、古人大兄皇子が皇位継承レースのトップを走っていたと思われます。

…が、乙巳の変により蘇我本宗家という後ろ盾を失い、古人大兄は皇位継承レースからは脱落。

となると変の首謀者であり、父母ともに天皇というサラブレッドの血筋をもつ中大兄が次の天皇になってもおかしくなさそうですが、当時の中大兄は20歳前後という年齢で、皇位を継承し庶豪族をまとめるには経験不足が心配される年齢でした。

記紀に「中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した」とあります。

最終的には皇極天皇の同母弟であり、中大兄からみると叔父に当たる軽皇子が孝徳天皇として即位します。

【関連記事】第36代:孝徳天皇 〜大化の改新の旗手にして、難波の都に消えた悲劇の帝

御陵の入り口。ここからは少し雰囲気が変わります。

そして、661年に母である斉明天皇(孝徳天皇の次代。皇極天皇が重祚)が崩御した後も、白村江への派兵や国内の国防体制構築を優先したのか、天智天皇は直ちに即位することはありませんでした。

668年になって、ついに天智天皇として即位するまで長期間にわたって称制(しょうせい)という形で即位しないまま政治の指揮を執り続けることになります。

 

大化の改新の推進、白村江の敗戦と国防体制

木々に囲まれた参道。澄んだ空気が厳かな雰囲気を醸しています

天智天皇最大の功績は、中央集権的な律令国家の骨格を打ち立てた大化の改新の推進と、対外危機に対応した国防体制の構築、そして法体系の整備にあります。

 

乙巳の変で蘇我本宗家を打倒、大化の改新へ

乙巳の変を描いた『多武峰縁起絵巻』。談山神社所蔵です。

645年の乙巳の変の後、中大兄皇子は叔父にあたる孝徳天皇を擁立し、自らは皇太子(東宮)として政権の実権を握りました。

日本で最初となる年号:大化を定め、改新の詔(かいしんのみことのり)を発布しました。

従来の豪族による土地と人民の私有を廃止して、公地公民の原則を打ち立てるとともに、地方統治のための国郡制度や、班田収授法の基礎となる租税・戸籍制度の導入を推し進めていくことになります。

 

百済の滅亡と白村江の大敗

澄んだ青空と拝所。

しかし権力を掌握した皇太子時代には、日本史上屈指の未曾有の危機に直面することになります。

98年前の562年に滅亡した任那に続いて、660年には同盟国であった百済が唐・新羅の連合軍によって滅亡してしまうのです。

百済は倭国(後の日本)にとって同盟国であり、国外にある防波堤でもありました。政治の実権を握っていた中大兄皇子は百済からの人質となっていた扶余豊璋を支援する形で朝鮮半島への派兵を決定します。

滅亡した後の百済本国では、王族・将軍であった鬼室福信らによって百済復興運動が展開されており、倭国の軍事的後押しを得た扶余豊璋は次期百済王に推薦されます。

しかし豊璋は本国で復興運動の中心となっていた鬼室福信と対立し、権力闘争の末になんと殺害してしまいます!まじでなんでやねん!?

こうして豊璋は百済本国で民の心を掴んでいた鬼室福信を失い、結果的に百済復興運動は停滞することになってしまうのでした。

そしてついには663年、白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦いにおいて、唐・新羅の連合艦隊に大敗を喫してしまい、倭国は朝鮮半島における勢力圏を完全に失うことになります。

ちなみに歴史上、日本が敗北した対外戦争は1945年に集結した太平洋戦争(大東亜戦争)と、この時代の白村江の戦いだけだったりします。

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本土決戦に備えた?安全保障政策の強化

対外国との戦争で初めての敗北を受けて、中大兄皇子は自身の即位よりも安全保障体制の強化を優先します。

対馬や壱岐、筑紫には防人(さきもり:国防警備にあたった兵士)や烽(とぶひ:外敵の襲来などの緊急事態を遠方へ伝えるため、火や煙を上げて知らせた”のろし”施設)を配置します。

また、博多湾沿岸には巨大な土塁である水城を、背後の山々には大野城や基肄城などの朝鮮式山城を築かせました。ちなみにこの築城を支援したのは、百済からの亡命民であり軍事技術の専門家でもあった憶礼福留(おくらい ふくる)と四比福夫(しひ ふくぶ)だったとされます。

このように、西日本の防衛線を急ピッチで完成させ、唐・新羅からの侵攻に備えたのでした。

 

近江大津宮への遷都、近江朝廷成立と即位

また667年、外圧の緊張が続く中、都を内陸部の近江大津宮(現在の滋賀県大津市)へと遷都し、本土決戦に備えます。

そして翌668年、ついに即位礼を執り行って第38代:天智天皇として即位するのでした。

 

天智天皇治世の時代背景

天智天皇が活躍した7世紀半ばから後半は、古代東アジアの国際情勢が大きく激動し、日本が豪族の連合体から国際的に独立した中央集権国家へと生まれ変わろうとする重大な転換期でした。

 

緊迫する東アジア情勢、朝鮮半島との外交

東アジアでは、超強国である唐が台頭し、朝鮮半島では新羅と結んで高句麗や百済を圧迫していました。

朝鮮半島の緊張は日本へ直接波及し、従来の優雅な飛鳥文化の時代から、防衛と国家構造の緊急改革を迫られる緊張の時代へと変化しました。

当時のヤマト王権は、朝鮮半島の出先期間だった任那日本府を562年に失っており、朝鮮半島への影響力は百済や新羅との外交関係が元に成り立っていました。

 

天智天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

天智天皇を取り巻く人間関係は、実の身内との複雑な葛藤、強力な同盟者との絆、そして不倶戴天の政敵との死闘によって形成されていました。

 

中臣鎌足と協力し、親百済政策を推進

藤原鎌足が主祭神として祀られる『談山神社』の本殿。

絶対的な支持基盤であり、最大の同志となったのが中臣鎌足(藤原鎌足)でした。

乙巳の変以来、二人は生涯にわたって固い信頼関係で結ばれ、大化の改心をはじめ、国家改革を推進していきました。

天智天皇は臨終の際にある鎌足の功績を称え、最高位である大織冠(たいしょくかん)を下賜するとともに藤原の氏姓を与えます。この時代から皇室家と藤原氏の強固な関係性がスタートすることになるのです。

また、斉明帝・中臣鎌足・中大兄の3人は、朝鮮半島政策として”親百済”で一致していたことも興味深いと思っています。

 

朝鮮半島政策で対立?蘇我本宗家と孝徳帝

一方、最大の敵対勢力となったのが蘇我本宗家(蘇我蝦夷・入鹿)です。

蘇我本宗家は”大王家に唯一並び立ちうる存在”であったされる大臣家の立場にありましたが、乙巳の変によって滅ぶことになります。

一説には、百済との関係性を最も重視した斉明・天智・藤原鎌足と、百済にこだわらず新羅や唐とのバランスを重視しようとした蘇我本宗家とが対立した、という見方もあるようです。

また、大化の改新後に就任した孝徳天皇も、実は政策方針は蘇我本宗家の方針を踏襲しています。

中大兄は孝徳帝との間にも政治的対立が生まれ、都を難波から飛鳥へ勝手に引き揚げることで孝徳天皇を孤立に追い込むなど、冷徹な政権運用の側面も見せたのでした。

 

天智天皇陵の基本情報

項 目 名内 容
天 皇 名天智天皇(てんぢてんのう)
本   名葛城皇子(かずらぎのおうじ)
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
天命開別尊(あめのみことひらかすわけのみこと)
御   父舒明天皇(じょめいてんのう)
御   母齊明天皇(さいめいてんのう)
御 陵 名山科陵(やましなのみささぎ)
陵   形上円下方墳
所 在 地京都府京都市山科区御陵上御廟野町
交通機関等京都市営地下鉄・京阪 御陵駅から徒歩約12分
御在位期間668年~671年

参拝を終えて帰る道。すこし名残惜しさを感じます。

天智天皇が静かに眠る山科陵は、京都市山科区の北部に広がる緑豊かな丘陵地に築かれています。

上円下方墳の整備された墳丘構造を持っており、明治天皇〜昭和天皇の陵形は天智天皇陵を手本として造られています。

中大兄皇子として古代日本の旧体制を打ち破り、大化の改新、白村江の戦い、近江遷都という未曾有の荒波を強大な意志で乗り越えた天智天皇。

自らの手で律令国家の骨格を作り上げ、近江の地で671年に46歳で崩御されました。

宮内庁によって神聖に管理されている山科陵の聖域は、現在も深い静寂に包まれており、訪れる人々に対して、古代日本の国家形成期を駆け抜けた偉大なる大王の誇りと壮大な足跡を静かに伝えています。

木々に囲まれた参道を抜けると、夏らしい強い陽差しが。この日の最高気温は38度を超えていました。

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