「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、中大兄皇子として知られ、蘇我氏打倒から始まる国政改革を断行した第38代:天智天皇(てんぢてんのう)をご紹介します。
激動する東アジアの国際情勢の中で、百済救援の兵を起こし、敗戦の苦難を乗り越えて国内の法制整備と遷都を成し遂げた軌跡に迫ります。
天智天皇の人物像・エピソード
第三十八代天皇である天智(てんじ)天皇の本名は、日本書紀において天命開別尊(あめのみことさきわけのみこと)と記録されています。
幼少期は葛城皇子(かづらきのおうじ)と称されており、これは母方や後ろ盾となった豪族である葛城氏や竹内宿禰の一族との深い結びつきを示す名称です。
後に一般的に知られる「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」という名は、大兄(皇太子たる資格を持つ皇子)のうち「二番目の兄(次男)」を意味する通称であり、異母兄である古人大兄皇子が存在したことに由来します。なお、伝統的な言霊の観点においては、「てんじてんのう(地に点々)」と発音することが本来の響きであるとも伝えられています。
中大兄皇子の名を歴史に深く刻んだ最初の出来事は、六四五年に起こった「乙巳の変(いっしのへん)」です。当時、朝廷で専横を極めていた蘇我本宗家の蘇我入鹿を、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らとともに飛鳥板蓋宮の殿中にて討ち果たしました。この政変を契機に、父である舒明天皇の血を引く皇族を中心とした新政権が誕生し、古代日本の政治構造を一変させる「大化の改新」が開始されることとなりました。
天智天皇の人となりは、極めて断固とした決断力と高い政治的知性を備えている一方で、国家の目的を遂行するためには身内であっても冷徹に対処する峻厳さを秘めた人物として語られます。六六一年に母である斉明天皇が筑紫の朝倉宮で崩御した後、直ちに即位することなく、長期間にわたり「称制(しょうせい)」という形で実質的な政務を執り続けました。この即位の遅れには、異母兄・古人大兄皇子の排斥や、同母妹である間人皇女(孝徳天皇の皇后)を巡る宮廷内部の複雑な人間関係、さらに朝鮮半島情勢の緊迫化など、多角的な要因が影響していたとされています。
また、治世の後半においては、後継者問題を巡る緊迫したドラマが繰り広げられました。天智天皇は自らの実子である大友皇子(後の弘文天皇)へ皇位を譲ることを強く望みました。
そのため、太政大臣という左大臣を超える最高の官職を新設して大友皇子をその任に就かせ、全政務を委ねる体制を整えました。
これに対し、それまで皇太子としての地位にあった実弟の大海人皇子(後の天武天皇)は、自らの身に迫る危険を察知しました。
大海人皇子は天皇の病床において皇位継承を辞退し、剃髪して僧侶となり吉野へ隠遁することを申し出ました。天智天皇はこの申し出を認めましたが、この冷徹な政治的制衡と権力の委律こそが、天皇の崩御直後に日本史上最大の内乱である「壬申の乱」を引き起こす決定的な伏線となりました。
大化の改新の推進と近江大津宮遷都、律令国家の基盤構築
天智天皇が自ら主導し、国家の歴史に不朽の足跡を残した最大の実績は、公地公民を原則とする中央集権的な律令国家の基礎を確立したこと、そして国家の安全保障体制を抜本的に再構築したことにあります。
乙巳の変の直後から、中大兄皇子は皇太子として大化の改新を実質的に指揮しました。
それまでの豪族による土地と人民の私有を廃止し、国家が直接統治する「公地公民」の原則を打ち立てました。さらに、税制である「租・庸・調」の原型を整え、全国的な行政組織の整備に着手しました。
六六三年、日本は百済の復興を支援するために朝鮮半島へ大軍を派遣しましたが、「白村江の戦い」において唐・新羅の連合軍に歴史的大敗を喫しました。
この未曽有の対外危機に直面した天智天皇は、直ちに国家の防衛体制の強化に乗り出しました。
対馬や壱岐、筑紫などの要衝に「防人(さきもり)」や「烽(とぶひ)」を配置し、博多湾沿岸には巨大な水城(みずき)を築造しました。さらに、大野城や基肄城といった朝鮮式山城を各所に建設し、外敵の侵入に備える防衛ラインを完成させました。
六六七年、天智天皇は防衛上の理由および旧来の豪族勢力の影響力を削ぎ落とすため、都を飛鳥から内陸の要衝である近江大津宮(現在の滋賀県大津市)へ移しました。そして翌六六八年、ついに第三十八代天皇として正式に即位を果たしました。
近江の地において、天皇は国家統治の要となる重要な制度を次々と打ち出しました。六七〇年には、日本初とされる全国規模の公的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじく)」を作成しました。
この戸籍は氏姓の根本基準として後世まで長く参照されることとなりました。また、日本初の体系的な法令とされる「近江令(おうみりょう)」を制定したと伝えられており、法に基づく統治体制の骨組みを完成させました。
さらに、社会の規律と技術の導入にも意注しました。
六七一年、日本で初めて設置された水時計である「漏刻(ろうこく)」を用いて、人々に時報を知らせる制度を開始しました。
制度、防衛、法典、そして時間の管理に至るまで、天智天皇が推進した改革は、日本が古代の豪族連合から脱却し、先進的な東アジア国家へと脱皮するための決定的な礎となりました。
天智天皇治世の時代背景
天智天皇が治めた七世紀半ばから後半という時期は、東アジア全体の国際情勢が大きく激動し、日本列島全体が国家存亡の危機と構造改革の波に飲み込まれていた時代でした。
中国大陸では唐が巨大な帝国を築き上げて勢力を拡大し、朝鮮半島では百済、高句麗が相次いで滅亡して新羅による半島統一へと向かっていました。
この強大な対外勢力の存在が、日本に強烈な危機感を与え、速やかな中央集権化と軍備の強化を促す最大の動律となりました。
このような緊張感に包まれた時代背景の中で、天智天皇は大陸の最先端技術や学問を積極的に導入しました。
漏刻の設置に象徴されるように、天智天皇は科学技術や暦学に深い関心を示し、国家の秩序を時間と法によって統制しようとする先進的な思考を持っていました。
また、漢詩や和歌の詠作にも優れており、『小倉百人一首』の第一番に収められている「秋のたの ほのへにかよふ あらたへに わがころもては つゆにぬれつつ」という名歌は、民の労働の苦労に思いを馳せる為政者としての慈愛と、王朝歌人としての深い抒情性を表す作品として後世まで親しまれています。
天智天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
天智天皇を取り巻く人間関係や政治的勢力図は、絶対的な絆で結ばれた側近との連携と、反立する旧豪族の徹底的な排斥、そして身内内部の凄絶な相克によって形成されていました。
天皇の最大の支持基盤であり、生涯にわたる無二のパートナーとなったのが「中臣鎌足(藤原鎌足)」です。
乙巳の変において意をともにした二人は、大化の改新から近江遷都に至るまで、常に一体となって国政を動かしました。
天智天皇は臨終の際にある鎌足の邸宅を自ら訪ね、大織冠の冠位とともに「藤原」の姓を賜いました。この強い絆が、後に日本の歴史を長きにわたって動かすこととなる藤原氏の栄華の起点となりました。
また、母方の一族である葛城氏や、蘇我氏の分家でありながら新政権に協力した蘇我倉山田石川麻呂なども、初期の政権運営を支える重要な勢力となりました。
一方、明確な敵対勢力として排斥されたのは、古代の朝廷で絶大な権力を握っていた「蘇我本宗家(蘇我蝦夷・蘇我入鹿)」です。
天智天皇(中大兄皇子)は彼らを武力によって粛清し、蘇我氏による政権独占を完全に打ち砕きました。また、新政権の成立後も、自らの権威や方針に異を唱える皇族に対しては一切の容赦をしませんでした。
異母兄である古人大兄皇子や、孝徳天皇の皇子であり民望の高さで知られた有間皇子(ありまのおうじ)など、政権の脅威となり得る存在を謀反の嫌疑によって次々と粛清しました。
さらに、人間関係において最も複雑かつ悲劇的な影を落としたのが、実弟である「大海人皇子(天武天皇)」との関係です。
二人は父・舒明天皇と母・皇極天皇を同じくする実の兄弟であり、白村江の戦いや近江遷都という国家の試練をともに乗り越えてきた同志でした。
しかし、治世の終盤において、天智天皇が実子の大友皇子への皇位継承を強行しようとしたことで、二人の間には決定的な溝が生じました。
天智天皇の冷徹な政治的威圧に対し、大海人皇子は吉野へ退くことで命脈を保ち、天智天皇の崩御後に挙兵して壬申の乱を起こしました。
天智天皇の構築した強固な近江朝廷は、皮肉にも実弟の手によって覆されることとなり、古代史における最も劇的な皇統の交替劇へとつながっていくのでした。
天智天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 天智天皇(てんぢてんのう) |
| 本 名 | 葛城皇子(かずらぎのおうじ)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) |
| 御 父 | 舒明天皇(じょめいてんのう) |
| 御 母 | 齊明天皇(さいめいてんのう) |
| 御 陵 名 | 山科陵(やましなのみささぎ) |
| 陵 形 | 上円下方墳 |
| 所 在 地 | 京都府京都市山科区御陵上御廟野町 |
| 交通機関等 | 京都市営地下鉄・京阪 御陵駅から徒歩約12分 |
| 御在位期間 | 668年~671年 |
天智天皇が静かに眠る山科陵は、京都市山科区の北部に広がる緑豊かな丘陵地に築かれています。
この御陵は、古代の天皇陵としては極めて珍しい八角形(八角墳)の整備された墳丘構造を持っており、当時の最高度の権威と宇宙観を象徴する設計となっています。
中大兄皇子として古代日本の旧体制を打ち破り、大化の改新、白村江の戦い、近江遷都という未曾有の荒波を強大な意志で乗り越えた天智天皇。
自らの手で律令国家の骨格を作り上げ、近江の地で671年に46歳で崩御されました。
宮内庁によって神聖に管理されている山科陵の聖域は、現在も深い静寂に包まれており、訪れる人々に対して、古代日本の国家形成期を駆け抜けた偉大なる大王の誇りと壮大な足跡を静かに伝えています。
