第42代:文武天皇 〜律令国家を完成させた若き天才と藤原氏の夜明け

第26-50代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は持統天皇からバトンを受け継ぎ、わずか15歳で即位した第42代:文武天皇(もんむてんのう)をご紹介します。

祖父に天武天皇、祖母に持統天皇を持ち、父である草壁皇子の早すぎる死という悲劇を背負いながらも、日本の法律の原点である大宝律令を完成させた、まさに新時代の希望とも言えるでした。

文武天皇の人物像

高松塚古墳壁画西壁女子群像で有名な高松塚古墳から、少し高台に登ったところにありあす。

文武天皇の本名は、珂瑠皇子(かるのおうじ/かるのみこ)と言います。

父は天武天皇と持統天皇の間に生まれながらも即位前に早世した草壁皇子(くさかべのおうじ)、そして母はのちに元明天皇となる阿閉皇女(あへのひめみこ)でした。

 

天武天皇の直系子孫として即位

珂瑠皇子が生まれた時代、皇位継承を巡る緊張感は最高潮に達していました。最愛の息子・草壁皇子を亡くした祖母の持統天皇は、最愛の孫である珂瑠皇子にどうしても皇位を継がせたいと熱望しました。

しかし、当時はまだ珂瑠皇子が幼かったため、持統天皇自らが中継ぎとして即位し、彼が成長するのを待ちました。

そして文武天皇元年(697年)、珂瑠皇子はわずか15歳という若さで第42代天皇として即位します。

この時、譲位した持統天皇は日本史上初となる「太上天皇(上皇)」の尊号を名乗り、若き大王の後見人として共に政治を行う「共同統治(二頭政治)」の体制を敷いたのでした。

 

度量と慈悲深さを兼ね備えていた文武天皇

参道を歩くと小さい猫ちゃんに遭遇。元気にバッタを追いかけていました

『続日本紀』などの史料によれば、文武天皇は「沈毅にして度量があり、寛和にして仁慈であった」と評されており、若くして落ち着きがあり、慈悲深い性格であったと伝えられています。

また、学問を好み、特に射芸(弓術)に秀でていたという文武両道の逸話も残されています。

しかし、生まれながらに病弱であったとも言われ、国家の基盤を熱心に整えながらも、慶雲4年(707年)、25歳という若さで惜しまれつつの崩御となります。

持統天皇が必死に繋いだ天武天皇の血筋ですが、この思いは文武天皇の母、姉にも受け継がれることになります。

『大宝律令』の制定と国家基盤の完成

大宝律令が定めた中央官制(二官八省)

文武天皇の治世における最大の、そして日本史における不滅の功績は、大宝元年(701年)に制定された『大宝律令(たいほうりつりょう)』の完成です。

それまでの日本にもいくつかの法令は存在していましたが、刑法にあたる「律」と、行政法・民法にあたる「令」の双方が完全に揃った、本格的な体系的律令の誕生はこれが初めてでした。

大宝律令が定めた国郡里の考え方

文武天皇は、藤原不比等や刑部親王らに命じて、唐の優れた律令制度を日本の国情に合わせてカスタマイズさせました。

この大宝律令の制定により、中央官制(二官八省)や地方組織(国・郡・里)、税制(租・庸・調)、戸籍制度などが一元的に整備され、日本は天皇を中心とする中央集権的な法治国家(律令国家)としての完成を迎えました。

また大宝律令の制定の時期を境に、祖父であり古代屈指のカリスマである天武天皇が整えた”天皇”という象徴的な称号や、”日本”という国号が外交の場でも公式に使用されるようになり、現代に続く日本国のグランドデザインが確立されることになります。

 

文武天皇治世の時代背景

文武天皇が国を治めた7世紀末から8世紀初頭は、日本最初の本格的な条坊制都城である藤原京が政治と文化の中心であった時代です。

この時代は、天武・持統朝に花開いた、仏教的色彩の強い、力強くも洗練された白鳳文化(はくほうぶんか)が成熟し、次の奈良・天平文化へと移り変わっていく重要な過渡期にあたります。

外交の場でも成果をあげた国家改革

また対外的には702年(大宝2年)に約30年ぶりとなる遣唐使が結成され、文人として名高い粟田真人らが唐へと派遣されました。

この遣唐使の最大の任務は、完成した大宝律令を携え、新しく定まった日本という国号と、天皇の存在を大陸の先進国に承認させることでした。

唐側は、粟田真人の洗練された立ち振る舞いや、法制度を整えた日本の進歩ぶりを高く評価したと伝えられており、文武天皇の進めた国家改革は国際的にも大きな実を結んだと言えます。

 

文武天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

文武天皇の周囲には、王権を絶対的なものにしようとする身内の強力なバックアップと、それを支える新興貴族の台頭という、密接な権力構造が存在していました。

天武帝の男系血統を繋ぐため奔走する女性たち

文武天皇の即位から初期の治世を全面的に支えたのは、祖母である持統上皇です。

彼女の圧倒的なカリスマ性と政治力が後ろ盾にあったからこそ、15歳という若き大王は、並み居る年長の皇族や有力豪族からの反発を受けることなく、スムーズに国政を主導することができました。

 

藤原不比等の娘:宮子との婚姻。藤原氏の栄華へ

藤原鎌足の息子であり、藤原氏の実質的な祖である藤原不比等は、文武天皇の即位を強力に支持し、その見返りとして朝廷内での地位を確固たるものにしていきました。

不比等は『大宝律令』の編纂で中心的な役割を果たし、文武天皇からの絶大な信頼を勝ち取ると、自身の娘である藤原宮子(みやこ)を文武天皇の皇后として宮中へ送り込みます。

二人の間に生まれたのが、のちに東大寺の大仏を建立することになる首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)でした。天皇の崩御時、首皇子はまだ幼かったため、文武天皇の母(元明天皇)、姉(元正天皇)がリレーのように皇位を繋ぎ、聖武天皇の即位へとバトンを渡していくことになります。

文武天皇と藤原宮子との婚姻関係こそが、のちに平安時代まで続く藤原氏の栄華の揺るぎない出発点となっていくのでした。

 

文武天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 文武天皇(もんむてんのう)
本   名 伊賀大友皇子(いがおおとものみこ)
御   父 草壁皇子(くさかべのみこ)
御   母 元明天皇(げんめいてんのう)
御 陵 名 檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)
陵   形 山形
所 在 地 奈良県高市郡明日香村大字栗原
交通機関等 近鉄 飛鳥駅から徒歩約16分
御在位期間 697年~707年

現在、宮内庁によって治定されている檜隈安古岡上陵は、明日香村の静かな丘陵地に位置する円丘です。

しかし近年の考古学的な調査により、この治定陵のすぐ近くにある「中尾山古墳(なかおやまこふん)」こそが、真の文武天皇陵である可能性が極めて高いとされ、大きな注目を集めています。

中尾山古墳は、天皇にのみ許された極めて格式高い八角墳であることが確認されており、内部の精巧な石の切石構造や、文武天皇が日本書紀の記録通り火葬に付された時期の遺物と完全に一致しています。
※祖父母である天武・持統天皇も八角墳に眠っています。

25歳という若さで急逝し、火葬によって明日香の地へと還った若き帝。

その御陵周辺を歩くと、律令国家の誕生に全てを捧げた大王の情熱と、彼を支えた持統上皇の深い愛が、今も飛鳥の風の中に息づいているのを感じることができます。

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