第46代:孝謙天皇(第48代:称徳天皇) 〜愛と信仰に生きた不屈の女帝

第26-50代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は聖武天皇の愛娘であり、日本史上でも類を見ないほど波乱に満ちた生涯を送った第46代:孝謙天皇(こうけんてんのう)・第48代:称徳天皇(しょうとくてんのう)をご紹介します。

その治世は、権力闘争、深い信仰、そして歴史を揺るがした僧・道鏡とのスキャンダラスな物語で彩られています。

孝謙天皇の人物像・エピソード

阿倍内親王(あべのないしんのう)は、大仏造立を成し遂げた聖武天皇と光明皇后の間に生まれました。

日本の歴史上初めて、そして唯一、女性として正式に立太子(皇太子となること)された人物です。彼女は生涯独身を貫きましたが、その人生は情念と信念に満ちたものでした。

父から受け継いだ深い仏教への信仰心を持つ一方で、一度心を許した相手には並々ならぬ愛情を注ぎ、逆に自らを裏切る者や意に沿わない者に対しては容赦なく苛烈な処罰を下すという、人間味にあふれる愛憎の激しい一面を持ち合わせていました。

 

鎮護国家思想の継承と西大寺の建立

孝謙天皇(のちの称徳天皇)の最大の功績は、父である聖武天皇が推し進めた「鎮護国家」の思想を継承し、仏教の力で国家の安泰を図る政策をさらに強力に推進したことです。

特筆すべきは、平城京の西側に壮大な「西大寺」を建立したことです。東大寺と対をなすこの大寺院の造営は、彼女の強固な仏教信仰と国家鎮護への決意の表れでした。

また、後述する恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)という内乱を平定したのちには、戦乱で失われた多くの人命を供養し、国家の平和を祈願するために「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」の製作を命じました。

これは木製の小さな塔を百万基作り、その中に印刷された陀羅尼経を納めて全国の十大寺に奉納するという、世界的に見ても類を見ない大規模な文化事業でした。この百万塔陀羅尼は、現存する世界最古級の印刷物としても高い歴史的価値を持っています。

孝謙天皇治世の時代背景

彼女の治世は、天平文化の華やかさが成熟する一方で、皇族や貴族間の権力闘争が絶え間なく続く混迷の時代でした。最初の即位である孝謙天皇時代には、母である光明皇太后と藤原仲麻呂の強力な後ろ盾によって政権を運営していましたが、母の崩御を機に孤立感を深めていきます。そのような折、病に伏せった彼女を手厚い看病で救ったのが弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧侶でした。

道鏡を寵愛した彼女は、淳仁天皇を廃位して自ら「称徳天皇」として再び皇位に就く(重祚)と、平城京のみならず、道鏡の故郷である河内国(現在の大阪府八尾市)に由義宮(ゆげのみや)という離宮を造営します。

そこを「西京」と定めて頻繁に行幸し、政務を行うなど、治世の後半は道鏡との結びつきを中心とした政権運営が行われました。

皇室の存亡を揺るがす「宇佐八幡宮神託事件」

称徳天皇と道鏡の時代を語る上で欠かせないのが、宇佐八幡宮神託事件です。

道鏡の出身である物部(弓削)氏は、かつて神道側として仏教推進派の蘇我氏に敗れた一族でした。

道鏡は、新興の仏教に敗れたからこそ、敵の最大の武器である仏教の頂点に立つことで権威を握ろうと画策したとされます。

称徳天皇の後ろ盾を得た道鏡は、765年に太政大臣禅師、翌年には法王にまで昇り詰めました。事実上、神道をルーツとする一族が仏教界の頂点に立ち、権力を掌握したのです。

そして、ついに「道鏡を天皇にせよ」という宇佐八幡宮からの神託が朝廷にもたらされます。

実は当時、九州全体を統括する大宰帥(だざいのそち)の地位にあったのは、道鏡の実の弟である弓削清人(ゆげのきよひと)でした。この神託は、弟の権力を背景に宇佐の神官に命じて出させたものだったとされています。

これに対し、称徳天皇の命を受けて真偽を確かめに九州へ赴いた和気清麻呂(わけのきよまろ)は、刀を抜いて神官を詰問し、信託が嘘であることを暴き出しました。

結果として天皇になる野望を打ち砕かれた道鏡以上に激怒したのが、称徳天皇でした。

寵愛する人物を拒絶された天皇は、清麻呂の名前を別部穢麻呂(わけのきたなまろ)と改名させて大隅国へ流罪にし、側近であった姉の和気広虫をも狭虫(せまむし)と改名させて追放しました。

自らの意志に反する者には一切の容赦をしない、女帝の情念が歴史に刻まれた瞬間です。

孝謙天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

彼女の治世は、味方と敵が劇的に入れ替わる権力闘争の連続でした。前半の治世では、母の光明皇后とその甥である藤原仲麻呂(恵美押勝)が強力な後ろ盾でした。しかし、母の死後に道鏡を重用し始めると、仲麻呂との関係は決定的に悪化します。

道鏡の排除を求める淳仁天皇(仲麻呂が擁立した天皇)からの諫言に対しても、称徳天皇(当時は孝謙上皇)は「天皇は日常の小事を執り、国家の大事と賞罰は自分が執る」と宣言して実権を奪い返しました。危機感を抱いた仲麻呂は764年に反乱(恵美押勝の乱)を起こしますが、彼女は迅速に軍を動かしてこれを鎮圧します。さらに、淳仁天皇を廃位して淡路島へ流刑にするという冷酷な処断を下しました。

晩年は道鏡を一族ぐるみで重用し、自らの王権を絶対的なものとして君臨しました。しかし、770年に称徳天皇が病で崩御するとその後ろ盾は完全に失われます。道鏡は下野国(現在の栃木県)へと左遷され、和気清麻呂らは名誉を回復して京へ呼び戻されることとなります。彼女の死とともに、愛憎渦巻く劇的な政治劇は幕を下ろしました。

 

孝謙天皇(称徳天皇)陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 孝謙天皇(のちに重祚して称徳天皇)
本   名 阿倍内親王(あべのないしんのう)
御   父 聖武天皇(しょうむてんのう)
御   母 安宿媛(あすかべひめ) ※光明皇后(こうみょうこうごう)
御 陵 名 高野陵(たかののみささぎ)
陵   形 前方後円墳
所 在 地 奈良県奈良市山陵町
交通機関等 近鉄 平城駅から徒歩約8分
御在位期間 749年~758年(孝謙)、764年~770年(称徳)

 

 

タイトルとURLをコピーしました