ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は聖武天皇の愛娘であり、日本史上でも類を見ないほど波乱に満ちた生涯を送った第46代:孝謙天皇(こうけんてんのう)・第48代:称徳天皇(しょうとくてんのう)をご紹介します。
華やかな天平文化の陰で、自らの運命と激しく闘い抜いた女帝の情念の足跡を、ともに辿ってみましょう。
孝謙天皇(称徳天皇)の人物像・エピソード
孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の本名は、阿倍内親王(あべのないしんのう)と名付けられました。
御父は、東大寺の大仏を造立したことで知られる聖武天皇、母は藤原不比等の娘であり、臣下から初めて皇后に立てられた光明皇后(こうみょうこうごう)です。
彼女は女性でありながら、史上初めて正式な立太子の儀式を経て皇太子(女性の場合は本来「皇太女」ですが、史書では皇太子と表記されます)となり、大仏開眼供養の直後に父からの譲位を受けて即位します。
仏教への深い帰衣と、道鏡との数奇な関係
史書に記された彼女の人物像は、母・光明皇后譲りの強い自負心と、仏教への熱烈な信仰心を持ち合わせた、極めて情念の深い女性として描かれています。
しかし、彼女の生涯は常に周囲の男たち(政治家や皇族)の野心に振り回され、激しい愛憎の渦中にありました。
彼女を象徴する最大のエピソードは、のちに皇室の存在を揺るがすほどの大事件の発端となる僧・道鏡(どうきょう)との数奇な関係です。

孝謙天皇は重い病に倒れた際、看病禅師として遣わされた道鏡の献身的な治療と祈祷によって命を救われたたのでした。
これを機に彼女は道鏡を深く寵愛し、彼に太政大臣禅師、さらには法王という前代未聞の最高位を与え、政治の実権を完全に委ねました。
「自らは国家の重大な賞罰と軍務を握り、淳仁天皇には祭祀などの小事のみを行わせる」という権力奪取の宣言は、彼女の強烈な意志と、自らが信じる者(道鏡)を守り抜こうとする激しい情念を物語っています。
皇室の存亡を揺るがす「宇佐八幡宮神託事件」
孝謙天皇と道鏡の時代を語る上で欠かせないのが、宇佐八幡宮神託事件です。
道鏡の出身である弓削氏は、かつて神道側として仏教推進派の蘇我氏に敗れた一族、廃仏派:物部氏の分家筋にあたります。
この時、新興の仏教に敗れたからこそ、敵の最大の武器である仏教の頂点に立つことで権威を握ろうと画策したのかもしれません。
※物部氏と蘇我氏の争い(丁未の乱)は崇峻天皇の時代に起こりました。
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孝謙天皇の後ろ盾を得た道鏡は、765年に太政大臣禅師、翌年には法王にまで昇り詰めました。事実上、神道をルーツとする一族が仏教界の頂点に立ち、権力を掌握したのです。
そして、ついに「道鏡を天皇にせよ」という宇佐八幡宮からの神託が朝廷にもたらされます。
実は当時、九州全体を統括する大宰帥(だざいのそち)の地位にあったのは、道鏡の実の弟である弓削清人(ゆげのきよひと)でした。この神託は、弟の権力を背景に宇佐の神官に命じて出させたものだったとされています。
これに対し、孝謙天皇の命を受けて真偽を確かめに九州へ赴いた和気清麻呂(わけのきよまろ)は、刀を抜いて神官を詰問し、信託が嘘であることを暴き出しました。
結果として天皇になる野望を打ち砕かれた道鏡以上に激怒したのが、称徳天皇でした。
寵愛する人物を拒絶された天皇は、清麻呂の名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国へ流罪にし、側近であった姉の和気広虫をも狭虫(せまむし)と改名させて追放しました。
自らの意志に反する者には一切の容赦をしない、女帝の情念が歴史に刻まれた瞬間です。
仏法による国家鎮護思想の継承と西大寺の造営
孝謙(称徳)天皇の歴史的功績は、度重なる反乱や疫病という国難に対して、徹底した仏法による国家鎮護(仏教政治)を推進したこと、ならびに鎮護国家の象徴として西大寺の造営や百万塔陀羅尼の作成を行った点にあります。
仏法による国家鎮護(仏教政治)の推進
ひとつめが、父である聖武天皇の方針を継承するかのような、仏教政治の極致とも言える国家運営にあります。
彼女の治世は、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)などの激しい内乱に彩られていました。
彼女はこれらの反乱を鎮圧した後、もはや従来の政治や武力だけでは国家の平安は保てないと考え、寵愛する道鏡とともに、仏教の理念に基づいた理想的な政治を目指しました。
死刑の廃止(事実上の停止)や、殺生を禁じる法令を出すなど、仏教の慈悲の心を法制に組み込もうと努めました。
西大寺の造営、百万塔陀羅尼の制作
仏教に関連したさらなる施策が西大寺(さいだいじ)の造営であります。
孝謙天皇は、藤原仲麻呂の乱の平定を祈願して、四天王像を造立することを誓願しました。乱が鎮圧された後、その誓いを果たすために平城京の西部に壮大な西大寺を建立しました。
父・聖武天皇が建てた「東大寺」に対抗する、あるいはそれに匹敵する国家鎮護の巨大伽藍を作り上げたことは、彼女の圧倒的な権力と仏教への深い帰依を示す最大の文化事業でありました。
また、反乱で亡くなった人々の怨霊を鎮めるため、百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)と呼ばれる世界最古級の印刷物を百万個も制作させ、全国の寺院に奉納するという桁外れの事業も成し遂げています。
孝謙天皇(称徳天皇)治世の時代背景・周辺エピソード
孝謙天皇が在位した8世紀後半(749年~758年、重祚して764年~770年)の時代は、華やかな天平文化が成熟していた一方で、律令国家の体制が豪族たちの権力闘争によって揺らいでいた時期でもありました。
政治的な実態としては、聖武天皇から引き継いだ皇族中心の政治体制と、外戚として権力を独占しようとする藤原氏(特に藤原仲麻呂)との間で、熾烈な主導権争いが繰り広げられていました。
孝謙天皇の治世は、疫病による人口減少や口分田の不足といった深刻な社会不安を背景に、仏教の力に縋らざるを得ない精神的な切迫感に満ちた時代でもあったわけです。
都は平城京(現在の奈良県奈良市)に置かれていましたが、彼女自身は病の療養や政治的な駆け引きのために、近江国の保良宮(ほらのみや)や、河内国の由義宮(ゆげのみや)などへ頻繁に離宮を移して滞在しました。
天皇にとっての最大のゆかりの地としては、自らが造営を命じた「西大寺(奈良市)」、政治の実権を奪還した舞台である「保良宮跡(滋賀県大津市)」、そして寵愛した道鏡の故郷であり都を築こうとした「由義宮跡(大阪府八尾市)」があげられます。また、伝説としては下野国(栃木県)に孝謙天皇を葬ったとされる塚(孝謙天皇神社)も存在し、彼女の伝承が地方にも広く波及していたことを示しています。
そのような折、病に伏せった彼女を手厚い看病で救ったのが弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧侶でした。
道鏡を寵愛した彼女は、淳仁天皇を廃位して自ら「称徳天皇」として再び皇位に就く(重祚)と、平城京のみならず、道鏡の故郷である河内国(現在の大阪府八尾市)に由義宮(ゆげのみや)という離宮を造営します。
そこを「西京」と定めて頻繁に行幸し、政務を行うなど、治世の後半は道鏡との結びつきを中心とした政権運営が行われました。
孝謙天皇(称徳天皇)と関連氏族・敵対勢力との関係性
孝謙天皇を取り巻く人間関係は、父や母から受け継いだ強大な権威と藤原氏の呪縛、寵愛した僧・道鏡への絶対的な依存、そして彼女の玉座を狙って叛逆した数々の皇族や貴族たちとの血塗られた抗争によって多層的に形作られていました。
彼女には生涯正式な夫や子供はおらず、正統な後継者がいないという致命的な状況が、彼女の治世を通じて常に皇位継承を巡る陰謀の火種となりました。
彼女の政権を一時的に強力に支えたのが、従兄弟にあたる「藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ / 恵美押勝)」であります。
仲麻呂は母・光明皇后の甥であり、孝謙天皇の初期の治世を軍事・政治の両面から主導しました。しかし、母が崩御し、天皇が道鏡を寵愛し始めると、仲麻呂との関係は決定的に悪化しました。
最大の敵対勢力となったのは、その「藤原仲麻呂」自身、そして彼に与した第47代・「淳仁天皇(じゅんにんてんのう)」であります。
権力の喪失を恐れた仲麻呂は764年に大規模な軍事反乱(藤原仲麻呂の乱)を起こしましたが、孝謙上皇側の迅速な対応によって敗死し、一族は滅亡しました。彼女は反乱に関与したとして淳仁天皇を廃位し、淡路島へ流罪とするという冷酷な決断を下しました。
また、橘諸兄の子である「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)」も、仲麻呂と癒着する孝謙天皇を強く敵対視し、クーデターを企てましたが事前に発覚して粛清されています(橘奈良麻呂の乱)。彼女の治世は、このように自らの周囲に渦巻く男たちの野心と反乱を、自らの強い意志と軍事力で次々と粉砕していく過酷なプロセスでありました。
孝謙天皇(称徳天皇)陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 孝謙天皇(こうけんてんのう) ※重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう) |
| 本 名 | 阿倍内親王(あべのないしんのう) |
| 御 父 | 聖武天皇(しょうむてんのう) |
| 御 母 | 安宿媛(あすかべひめ) ※光明皇后(こうみょうこうごう) |
| 御 陵 名 | 高野陵(たかののみささぎ) |
| 陵 形 | 前方後円墳 |
| 所 在 地 | 奈良県奈良市山陵町 |
| 交通機関等 | 近鉄 平城駅から徒歩約8分 |
| 御在位期間 | 749年~758年(孝謙)、764年~770年(称徳) |
奈良市山陵町、近鉄の駅からほど近い住宅街と商業施設の裏手に、第46代・孝謙天皇(称徳天皇)が眠る高野陵(佐紀高塚古墳)は、他の多くの古墳が南を向く中で、特異な西向きの墳丘を横たえて静かに鎮座しています。
女性としての孤独を抱えながら、血で血を洗う権力闘争に身を投じ、自らが愛した道鏡を守るために「女帝」としての圧倒的な権威を振るい抜いた波乱の君主。
市街地の喧騒から切り離されたように広がる水濠と、西を向いて眠る緑豊かな陵丘の前に立つとき、反乱者たちを冷徹に裁いた激しい情念と、その裏に隠された仏教への悲痛なまでの祈り、そして一人の人間としての孤独な魂の震えが、いまも時を超えて深く胸へと迫ってきます。












