ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、万葉の風が吹き抜ける平城京の爛漫な光の中で、日本史上でも極めて稀有な「母から娘への継承」によって帝位に就いた第44代:元正天皇(げんしょうてんのう)の御生涯をご紹介します。
慈愛に満ちた美貌の奥に秘められた、国家の骨組みを支え抜く冷徹な意志。幼き甥へ無事に皇統を渡すため、自らの人生を捧げて不婚のまま国を治めた女帝の、気高くも切ない足跡をともに辿ってみましょう。
元正天皇の人物像・エピソード
元正天皇の本名は、氷高皇女(ひだかのひめみこ)と名付けられました。
父は天武天皇と持統天皇の皇太子であった草壁皇子(岡宮御宇天皇)であり、母は元明天皇(阿閇皇女)です。同母弟には文武天皇(珂瑠皇子)がいました。
親子続けて女性の女帝ではありますが、元明天皇は天智天皇の、元明天皇は天武天皇-草壁皇子の血を引いており、男系の女性天皇です。
気品に満ちた美貌と皇統を護持する宿命
父親である草壁皇子が即位前に早世したため、元正天皇は幼少期から天武天皇直系の皇統を守るという宿命を背負うことになりました。
正史『続日本紀』において「慈和格幸にして、儀貌甚だ麗し(優しく穏やかな性格で、お顔立ちが大変美しかった)」と絶賛されており、気品に満ちた美貌の持ち主であったと伝えられます。
しかし、その美しさと高貴さゆえに、彼女の人生は個人の幸福とはかけ離れた国家の宿命に彩られていました。
皇室の血統の純粋性を保ち、政治的な婚姻による他氏族の干渉を防ぐため、元正天皇は生涯を通じていかなる男性とも婚姻を結ぶことなく、独身(不婚)を貫いたのです。
首皇子へ皇統を繋ぐべく、母娘が担った重責
そして715年(霊亀元年)、母である元明天皇から皇位を譲られる形で即位します。
実は日本の皇室史においても女性天皇から女性天皇へ皇位が継承された例は極めて限定的であり、直系の「母から娘へ」の皇位継承としては唯一無二の出来事でもありました。
この即位は、弟である文武天皇の遺児・首皇子(後の第45代:聖武天皇)が未だ幼少であり、過酷な朝廷の政争から首皇子を守りつつ、彼が成人して帝位に就くにふさわしい年齢に達するまでの中継ぎとしての役割を担うものでした。
元正天皇は自らの結婚や家庭を持つ権利を一切放棄し、首皇子へ皇統を無事に引き継ぐというたった一つの使命のために、大王としての重責を引き受けたのです。
養老律令の制定と『日本書紀』完成による国家基盤の完成
元正天皇の歴史的功績は、古代日本の法制度の根幹となる養老律令の撰修・完成、日本初の官撰正史『日本書紀』の完成、ならびに土地制度の画期的な転換点となった三世一身の法の発布による国家基盤の完成にあります。
大宝律令を補訂・再編した養老律令の撰修
一つ目の功績は、718年(養老2年)における養老律令(ようろうりつりょう)の撰修です。
前代の文武天皇の時代に制定された大宝律令を補訂・再編するため、右大臣・藤原不比等らを中心とする法編纂チームへ命を下し、条文の不備を正した新たな律令体系を完成させました。
この養老律令は、後に757年(天平宝字元年)から施行され、明治維新によって近代法が導入されるまでの約1100年以上にわたり、日本の国家体制の法的な骨格・基本法典として存在し続けることとなりました。
日本が法治国家として成熟するための基礎づくりが、元正天皇の時代から行われていたということです。
官撰歴史書『日本書紀』の完成・上奏
さらに720年(養老4年)における官撰歴史書『日本書紀(にほんしょき)』全30巻および系図1巻の完成と上奏も元正天皇の時代に行われました。
天武天皇の時代に発案され、舎人親王や太安万侶らが長年にわたって編纂を進めてきたこの膨大な歴史書は、神代の神話から第41代・持統天皇に至るまでの皇室の正統性と国家の歩みを、漢文の正史として完璧に体系化したものでした。
元正天皇はこの完成した『日本書紀』を正式に公認・受領し、国内外に対して日本という国家の独立性と大王権の神聖性を言語として確定させたのでした。
新たに開墾した土地の私有を認めた”三世一身の法”
元正天皇はさらに、723年(養老7年)に発布された三世一身の法(さんぜいいっしんのほう)を通して土地の所有に関する特例を認めます。
当時、律令国家の経済的支柱であった公地公民制と口分田の支給体系は、人口の急増と農民の逃亡によって崩壊の危機に直面していました。
元正天皇は、新たに開墾した土地について「本人・子・孫の三世代に限り私有を認める」という画期的な土地私有の特例を認めました。
これは単なる伝統の維持にとどまらず、現実の経済的困窮に対して柔軟かつ現実的な政策転換を断行した元正天皇の優れた執政能力を示すものでありました。
元正天皇治世の時代背景・周辺エピソード
元正天皇が在位した715年から724年という8世紀前半の時代は、飛鳥から遷都された平城京(奈良)が華やかに発展し、古代日本の律令国家体制が完成期を迎えた黄金時代とも言える時代でした。
一方で、社会的には律令国家の税制(租・庸・調)や兵役の負担に苦しむ農民の逃亡が相次ぎ、地方の混乱が表面化し始めた過渡期でもありました。
藤原不比等が権力を掌握し、絶大な影響力を誇る
政治的な実態においては、朝廷の最高権力者である右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)が絶大な影響力を揮っていた時期です。
不比等は律令の整備や平城京の建設を主導する一方で、自らの娘である藤原宮子を第42代・文武天皇の夫人とし、その間に生まれた首皇子(後の聖武天皇)の外祖父として朝廷内で不動の地位を築いていました。
しかし、720年(養老4年)に藤原不比等が突如として崩御すると、政治の構図は一変します。
不比等の息子たち(藤原四兄弟:武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は未だ若く、朝廷の主導権は元正天皇の従兄にあたる皇族派の絶対的リーダーである長屋王(ながやのおう)へと移ります。
元正天皇は長屋王を右大臣(後に左大臣)に抜擢し、藤原氏の独走を抑え込みながら、皇室主導による安定した政治の運営を図っていくことになります。
霊亀⇒養老へと改元したエピソード
また、717年(霊亀3年)に行われた美濃国(現在の岐阜県養老町)への行幸と「養老改元」の伝承についても、興味深い史観が示されています。
元正天皇が美濃の多芸野に湧き出る美泉(養老の滝)を訪れた際、その清らかな水で手足を洗うと病が癒え、皮膚が滑らかになったという報を受け、元正天皇は「これは我が治世に対する天の感応であり、老いを養う神水である」として年号を「霊亀」から「養老」へと改めました。
異伝の史観においては、この行幸と改元は単なる孝行や自然への感動という美談にとどまらず、自らの不婚という犠牲によって命脈を保つ女帝が、「養老(生命力を養い、皇統を長く引き延ばす)」という強烈な宗教的・政治的メッセージを天下に示し、自らと首皇子の権威を担保するための高度な演出であったと読み解かれています。
元正天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
元正天皇は、直系皇統の護持する責任と甥・首皇子(聖武天皇)への深い愛情、政権の柱石となった長屋王との強い連帯、そして不気味な影を落とし続けた藤原氏との政治的駆け引きによって形作られていたと言えます。
甥である首皇子へと皇統を繋いだ元正帝
冒頭でもご紹介したように、父は天武・持統天皇の皇太子であった草壁皇子で、母は先代の元明天皇でした。
弟であった文武天皇の遺児が、元正天皇から見て甥にあたり、皇統を繋ぐ先となった首皇子(後の第45代・聖武天皇)です。
元正天皇の役割は、まさに首皇子の即位まで大王の座を無事に温めることにあったとも解釈できます。
元正天皇は首皇子を我が子の如く愛しみ、彼が成人して政治的・精神的に成熟するまで、盾となって朝廷の波風を受け止め続けるのでした。
藤原四兄弟と、皇室・蘇我系の血を引く長屋王
支持勢力および政権の柱石となったのが、天武天皇の孫であり元正天皇の従兄にあたり、蘇我系の血統を引く皇族であった長屋王です。
長屋王は極めて高い教養と圧倒的な血統の格を持ち、藤原不比等の没後、知政官のトップとして元正天皇を支えました。元正天皇と長屋王の強力なタッグにより、皇室の権威と独立性は保たれ、皇族中心の政治が維持されました。
一方、複雑な緊張関係にあったのが藤原氏(藤原不比等および藤原四兄弟)です。
不比等は律令国家の整備に不可欠な有能な政治家であり、首皇子の外祖父でもあり皇室家からすると外戚の地位にありました。そのため元正天皇は不比等と協調して政務を行っています。
しかし、不比等の没後、その息子である藤原四兄弟(武智麻呂ら)が自らの妹である藤原光明子(光明皇后)を首皇子の正妃とし、藤原氏の血を引く皇子の誕生を画策して急速に権力拡大を図ると、元正天皇と長屋王のグループはこれに対して強い警戒感を抱くこととなります。
藤原四兄弟によって粛清された長屋王
724年(神亀元年)、首皇子が成長して聖武天皇として即位すると、元正天皇は無事に大任を果たして太上天皇(上皇)となりました。しかし、その退位後に痛ましい凄惨な政変が勃発します。
729年(神亀6年)、聖武天皇と光明子の間に生まれた皇子が早世したことを焦った藤原四兄弟は、「長屋王が密かに密法を用いて皇子を呪い殺そうとした」という濡れ衣の密告をでっち上げ、朝廷の軍勢をもって長屋王の邸宅を急襲・包囲します。
追い詰められた長屋王は、妃の吉備内親王(元正天皇の同母妹)や子どもたちとともに毒を飲んで自害へと追い込まれました(長屋王の変)。
元正天皇は自らの妹と固い信頼で結ばれた従兄を同時に失うという、身を切られるような絶望と悲しみを味わうことになります。
自らが守り抜いたはずの朝廷で起きたこの凄惨な血の粛清劇を前になすす術もなく、長屋王の死後は藤原四兄弟による専横と、後に彼らを襲う天然痘の大流行という時代の暗雲を、深い嘆きとともに見つめることとなりました。
元正天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 元正天皇(げんしょうてんのう) |
| 本 名 | 氷高皇女(ひたかのひめみこ) |
| 御 父 | 天智天皇(てんぢてんのう) |
| 御 母 | 姪娘(めいのいらつめ) |
| 御 陵 名 | 奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ) |
| 陵 形 | 山形 |
| 所 在 地 | 奈良県奈良市奈良阪町 |
| 交通機関等 | JR/近鉄「奈良駅」よりバス (バス停) 奈保山御陵から徒歩約5分 |
| 御在位期間 | 715年~724年 |
奈良の市街地を見下ろす北郊、奈保山の深い緑に抱かれて静かに佇む奈保山西陵。
すぐ近くには、ともに国家の激動期を駆け抜けた母・元明天皇の奈保山東陵が並び立っており、母娘で王権の命脈を守り抜いた不滅の絆を今に伝えています。
自らの美貌と若さ、そして女性としての個人的な婚姻の幸福をすべて国家の安寧のために捧げ、幼き甥へ皇統を渡すという至高の宿命を果たし抜いた元正天皇。
二重の静寂に守られた木々から漏れる光と、陵丘を吹き抜ける澄んだ風の音に耳を澄ませば、氷のように高潔な意志と気品をもって律令国家の礎を築いた女帝の気高き面影が、時を超えて深く胸へと迫ってきます。

拝殿を振り返ると見える景色。








