ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回フォーカスするのはは、平安時代初期に即位し、穏やかな人柄で国家の安定に尽力した第53代:淳和天皇(じゅんなてんのう)の物語です。
権力闘争の虚しさを肌で感じ、自らの死後に散骨を命じた無欲な天皇の、堅実な治世と深い苦悩の足跡を辿ります。
淳和天皇の人物像・エピソード
淳和天皇は、桓武天皇の第七皇子として誕生しました。本名を大伴親王(おおとものしんのう)と称します。御母は、かつて朝廷で権勢を振るった藤原百川の娘である藤原旅子(ふじわらのたびこ)です。天皇には、長兄の安殿親王(第51代・平城天皇)、次兄の神野親王(第52代・嵯峨天皇)という二人の有力な兄が存在したため、本来であれば彼自身が皇位を継ぐ可能性は極めて低い立場にありました。
しかし、平城上皇と嵯峨天皇の間で起きた凄惨な権力闘争である「薬子の変」ののち、嵯峨天皇の強い意向により皇太弟に立てられ、のちに譲位を受けて即位することとなりました。天皇の性格は非常に温和であり、真面目で控えめであったと伝えられています。政治的な野心や争いを好まず、学問や文学を深く愛好する教養人でした。
淳和天皇の人となりを最も強く象徴するエピソードは、その最期に関する遺言です。承和7年(840年)に崩御する際、天皇は「死後に立派な陵墓を造営し、民衆に無用な労役を強いてはならない」と深く戒め、「自らの遺体は火葬にし、骨を砕いて西山の峰に散らすように」と命じました。古来より巨大な御陵を造営することが権力の象徴であった天皇の歴史において、公式に散骨(薄葬)が実施されたのは後にも先にも淳和天皇ただ一人です。この特異な決断の背景には、兄たちが骨肉の争いを繰り広げた政治闘争への深い虚無感と、仏教的な無常観に基づく無欲な精神があったと考えられています。
実務官僚の登用と法体系の整備
淳和天皇の政治的功績は、天皇自身が強力な権力を振るって独裁的に国政を牽引したというよりも、実力のある有能な臣下を適材適所に配置し、実務を委ねることで安定した国家運営を実現した点にあります。
天皇は、左大臣に藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)、右大臣に清原夏野(きよはらのなつの)という実務能力に優れた優秀な官僚を登用しました。藤原緒嗣はかつて桓武天皇に対して「天下の人々が苦しんでいるのは軍事(蝦夷征討)と造作(平安京造営)である」と直言して政策を転換させたほどの硬骨漢であり、清原夏野は法令に精通した実務家でした。彼ら二人に政務の多くを任せたことで、国家の行政機構は正確かつ着実に機能しました。
この体制の下で成し遂げられた最大の事績は、律令制の維持と法体系の整備です。天長10年(833年)、右大臣・清原夏野らによって、長らく施行が待たれていた養老律令の公式な注釈書である『令義解(りょうのぎげ)』が完成し、施行されました。これにより、それまで各役所でまちまちであった法解釈が国家として統一され、法治国家としての行政機能がより厳密に運用されるようになりました。また、国家の正史である『日本後紀(にほんこうき)』の編纂事業も彼の治世下で進められています。派手な外征や大規模な建設事業こそ行われませんでしたが、法制と歴史編纂を通じて国家の土台を静かに固めた手堅い治世でした。
淳和天皇治世の時代背景
淳和天皇が治めた天長年間は、平安時代初期の国家的な疲弊が癒え、平穏と成熟に向かっていた時代でした。桓武天皇の軍事行動による財政難を教訓とし、嵯峨天皇の時代から続く唐風文化(弘仁・貞観文化)の隆盛が引き継がれました。
当時は「文章経国(ぶんしょうけいこく)」すなわち、優れた文学や学問を奨励することによって国家を隆盛させるという唐の思想が広く受け入れられていました。天皇自身も漢詩文の創作を深く愛し、優れた文人たちを宮廷に集めました。天皇の勅命により、日本で三番目となる勅撰漢詩集『経国集(けいこくしゅう)』が編纂されたのもこの時代であり、宮廷では優雅な文学活動が花開いていました。
退位した後の天皇は、現在の京都市中京区・右京区の境あたりに営まれた広大な離宮「淳和院(じゅんないん)」に退き、そこで静かな余生を送りました。この離宮は別名を「西院」といい、現代の京都市に残る地名および駅名である「西院(さいいん / さい)」は、この淳和天皇の住まいに由来しています。
淳和天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
淳和天皇を取り巻く政治環境は、自らの意思を貫くことが難しい、複雑な力関係の上に成り立っていました。天皇にとって最も大きな影響力を持っていたのは、皇位を譲ってくれた兄・嵯峨上皇です。嵯峨上皇は退位後も絶大な権威と政治力(いわゆる治天の君としての力)を保持しており、淳和天皇は常に兄の意向を尊重し、配慮しながら政務を進める必要がありました。
天皇の母である藤原旅子の実家、すなわち藤原式家は、かつての薬子の変によってすでに没落しており、淳和天皇には自らを強力に押し上げる外戚の政治的後ろ盾が存在しませんでした。そのため、朝廷内での立地は比較的弱いものでした。
天皇が退位する際、嵯峨上皇の意向もあって次期天皇には嵯峨上皇の皇子である正良親王(第54代・仁明天皇)が立てられました。そして、新たな皇太子には、淳和天皇と正子内親王(嵯峨上皇の皇女)の間に生まれた恒貞親王(つねさだしんのう)が選ばれました。しかし、兄弟間での皇位のやり取りが将来の火種になることを察知していた淳和天皇は、自らの皇子が権力闘争の犠牲になることを深く恐れ、皇太子の辞退を何度も執拗に申し入れたとされています。
淳和天皇の崩御後、彼が抱いていた不安は最悪の形で的中します。承和9年(842年)に起きた「承和の変」と呼ばれる政変によって、恒貞親王は謀反の疑いをかけられて皇太子の座を追われました。代わって、藤原北家の藤原良房(ふじわらのよしふさ)が擁立する道康親王(のちの文徳天皇)が新たな皇太子となり、ここから藤原北家による独裁的な摂関政治の時代が幕を開けることとなります。家族の平穏を心から願いながらも、歴史の巨大なうねりと権力闘争の渦に身内が呑み込まれていくのを防ぎきれなかったという点に、温和なる帝の拭い去れない深い悲哀があります。
淳和天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 淳和天皇(じゅんなてんのう) |
| 本 名 | 大伴親王(おおとものしんのう) |
| 御 父 | 桓武天皇(かんむてんのう) |
| 御 母 | 藤原旅子(ふじわらのたびこ) |
| 御 陵 名 | 大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 京都府京都市西京区大原野南春日町 |
| 交通機関等 | (バス停)南春日町から徒歩約1時間40分 |
| 御在位期間 | 823年~833年 |
