「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、鎌倉時代中期に在位し、後に皇統を二分する持明院統の祖となった第89代:後深草天皇(ごふかくさてんのう)をご紹介します。
父・後嵯峨上皇の意向による政権の交代や、弟の亀山天皇との間で繰り広げられた、皇位継承を巡る葛藤の歴史に迫りましょう。
後深草天皇の人物像・エピソード
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第89代天皇として知られる後深草天皇は、寛元元年(1243年)に第88代:後嵯峨天皇の第一皇子として誕生しました。
本名にあたる諱は久仁(ひさひと)といいます。わずか4歳という幼さで寛元4年(1246年)に即位しましたが、政治の実権はすべて父である後嵯峨上皇が握る院政下にありました。
皇位継承問題に端を発する、兄弟同士の不仲
彼の人となりや内面を象徴する最大のエピソードは、同母弟である恒仁親王(後の亀山天皇)との間に生じた、終生にわたる深い葛藤と皇位を巡る悲劇です。
後嵯峨上皇の寵愛は、次第に第一皇子である後深草天皇から、聡明であったとされる弟の恒仁親王へと移っていき、結果として正元元年(1259年)、後深草天皇はわずか17歳で弟へ皇位を譲るよう父から命じられました。
この「父による理不尽な差別の待遇と譲位の強要」は、彼の心に消えない傷を残し、その後の執念深い権力闘争への原動力になったとされています。
日記が語る後深草帝の素顔?
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筆者が訪問した時は入口付近が何やら工事中でした。
また、後深草天皇の私生活や人間味あふれる一面を伝える貴重な史料として、宮廷女房であった二条が著した文芸日記『とはずがたり』が有名です。
この作品の中で、後深草院は非常に情が深く、繊細で孤独を抱えた男性として描かれています。皇位を退いた後の長い隠棲生活の中で、彼は宮廷のサロン文化を主宰し、多くの女性や文人と交流を持ちました。
そこでの彼は、最高権力者としての威厳を誇示するのではなく、自身の寂しさや芸術への情熱を素直に吐露する、きわめて人間臭い魅力を持った人物であったと伝えられています。
持明院統の確立と両統迭立の基盤形成
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後深草天皇が崩御にいたるまでの生涯で成し遂げた最大の実績は、自身の血統である持明院統(じみょういんとう)を確立し、大覚寺統との間で皇位を交互に継承する両統迭立(りょうとうてつりつ)の端緒を開いたことにあります。
後嵯峨上皇の崩御と後深草上皇の執念
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弟の亀山天皇への譲位後、父である後嵯峨上皇が文永9年(1272年)に崩御しました。
しかし、後嵯峨上皇は遺言において、次の「治天の君(院政を行う最高権力者)」や将来の皇位継承者を明確に指名せず、その決定を鎌倉幕府の意向に委ねるという不体裁な形で世を去ってしまいます。
このとき、実権を握っていたのは亀山天皇とその系統であったため、後深草上皇の血統は皇位継承のラインから完全に排除される危機に瀕していました。
この危機に対して、後深草上皇はただ手をこまねいていたわけではありません。彼は自身の隠居所であった持明院を拠点とし、外戚である西園寺家や、京都の監視役であった六波羅探題を通じて、鎌倉幕府(時の執権・北条貞時ら)へ執拗な政治的働きかけを行います。
自身の不遇を幕府に訴えかけ、朝廷内の権力の独占がいかに危険であるかを説き続けたのでした。
自身の皇子を皇位につけ、両統迭立の状態に
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この粘り強い外交交渉の実務が実を結び、弘安10年(1287年)、鎌倉幕府の強力な支持と調停を背景に、大覚寺統の側を押し退けて、後深草上皇の第一皇子である熈仁親王(伏見天皇)を即位させることに成功しました。
これにより、後深草上皇は念願の「治天の君」として院政を開始し、さらに莫大な皇室領である「長講堂領(ちょうこうどうりょう)」の支配権を確保しました。
この実績こそが、後の室町時代へと続く「北朝」の直接的なルーツとなり、中世日本の政治構造を決定づける強固な基盤となったのです。
後深草天皇治世の時代背景
後深草天皇が在位、および院政を執った13世紀後半の日本は、承久の乱(1221年)の終結から数十年が経過し、朝廷の権威が鎌倉幕府によって完全にコントロールされていた時代でした。
天皇の人事や朝廷の重大な決定には、常に幕府の承認が必要とされる、一種の二重政権状態が定着していました。
蒙古襲来
さらに彼の時代は、日本史上最大の国際的危機である「元寇(蒙古襲来)」の波乱と完全に重なっています。文永11年(1274年)の文永の役、および弘安4年(1281年)の弘安の役の際、朝廷は未曾有の国難に対して極度の緊張状態に包まれていました
後深草上皇は、異国の侵略から神国を守るため、伊勢神宮や石清水八幡宮などの全国の有力寺社に対して、国家安泰と敵国降伏を祈る大規模な加持祈祷を命じました。
この緊迫した社会情勢が、朝廷内の結束を強める一方で、幕府への依存度をさらに高める結果となりました。
文化
文化的背景に目を向けると、彼の宮廷サロンは後の「京極派(きょうごくは)」と呼ばれる独自の歌風を育む揺りかごとなりました。
伝統的な形式に囚われず、自然のありのままの姿や人間の生々しい感情を繊細に詠み込むこの新しい和歌の潮流は、後深草天皇の庇護のもとで伏見天皇や永福門院らによって開花することになります。
彼の趣味は、こうした和歌の創作や管弦の演奏であり、張り詰めた政治闘争の合間に芸術に没頭することを深く好んでいました。
後深草天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
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後深草天皇の生涯における人間関係は、実の家族との深刻な確執と、強力な有力豪族(公家氏族)との政治的提携によって構築されていました。
後嵯峨上皇による冷遇
最大の葛藤の対象となったのは、父である後嵯峨上皇でしょう。
前述の通り、後嵯峨上皇は次男である亀山天皇を盲愛し、長男である後深草天皇を冷遇したため、家庭内における最大の障壁となりました。
また、同母母である西園寺姞子(大宮院)も、夫である後嵯峨上皇の意向に従って亀山天皇の系統を支持する傾向があり、後深草上皇は一時期、実の親族の中で完全に孤立するという精神的な苦境に立たされました。
後ろ盾となった母方の実家:西園寺家
この孤立を打開するために、彼が後ろ盾として深く依存したのが、母方の実家である名門「西園寺家(さいおんじけ)」です。
特に西園寺実兼(さいおんじさねかね)は、朝廷と鎌倉幕府の仲介役である「関東申次」の要職を代々務めており、実兼の幕府に対する多大な影響力があったからこそ、持明院統の復権と伏見天皇の即位という大逆転劇が可能となりました。
しかし、西園寺家も常に一定ではなく、時代の風向きによって大覚寺統へ接近するなど、その関係性は常に張り詰めた政治的ディールの上に成り立っていました。
大覚寺統の祖となる亀山天皇との確執
明確な敵対勢力となったのは、同母弟である亀山天皇、およびその子孫である大覚寺統(後の南朝の源流)の派閥です。
両者は、皇位の正統性だけでなく、皇室の巨大な財産基盤である「長講堂領」や「八条院領」の相続権を巡って、互いに非難の文書を幕府へ送り合うほどの凄まじい暗闘を展開しました。
この兄弟間の激しい不和と権力への執着が、朝廷の力を完全に二分し、後の南北朝時代の足音を決定的なものにしたのです。
後深草天皇陵の基本情報
歴代天皇の御陵を守り伝える伝統は、中世の激動のなかで皇統の命脈を繋いだ大王の記憶を現代に留める、極めて厳かな意義を持っています。第八十九代・後深草天皇陵の基本情報は以下の通りです。
天皇名:後深草天皇(ごふかくさてんのう)
本名(諱):久仁(ひさひと)
御父:後嵯峨天皇(第八十八代天皇)
御母:藤原姞子(西園寺姞子、大宮院)
御陵名:深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)
陵形:方形堂(ほうけいどう)
所在地:京都府京都市伏見区深草坊町
交通機関等:京阪本線「伏見稲荷駅」下車、東へ徒歩約15分、またはJR奈良線「稲荷駅」下車、東へ徒歩約15分
御在位期間(西暦):1246年2月16日(寛元4年1月29日) 〜 1259年11月9日(正元元年10月24日)
後深草天皇が眠る深草北陵は、京都・深草の地にあり、多くの持明院統の天皇が集まって祀られています。
父の不公平な愛に苦しみながらも、自らの血筋を未来へ繋ごうとした執念。
その静かな眠りを守る御陵を訪れるとき、煌びやかな歴史の裏側にある「持明院統」という大きな物語の始まりに想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
