第90代:亀山天皇 〜蒙古襲来の国難に祈りで立ち向かった大覚寺統の祖

第76-100代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、蒙古襲来という未曾有の国難に対して自らの身を比喩的に賭けて平定を祈り、後世に大覚寺統と呼ばれる皇統の祖となった第90代:龜山天皇(かめやまてんのう)の御生涯をご紹介します。

兄との葛藤や鎌倉幕府との政治的駆け引きの中で朝廷の威厳を保ち、嵯峨の地に禅の教えと風雅な文化を花開かせた帝の足跡を、ともに辿ってみましょう。

龜山天皇の人物像・エピソード

亀山天皇は、1249年(建長元年)7月9日、第88代・後嵯峨天皇の第三皇子として誕生し、恒仁(つねひと)と名付けられました。

母は太政大臣・西園寺実氏の娘であり後嵯峨天皇の中宮を務めた藤原姞子(大観門院)です。

恒仁親王の誕生は、朝廷の皇位継承における長き対立の契機となりました。

父である後嵯峨上皇は、すでに即位していた長男の第89代:後深草天皇よりも、容姿端麗で聡明であった第三皇子の恒仁親王を著しく寵愛しました。

後嵯峨上皇は1259年(正元元年)、不満を募らせる後深草天皇を強引に退位させ、11歳の恒仁親王を第90代・亀山天皇として即位させました。

天龍寺の庫裏(くり)。向かって右側に亀山天皇陵への参道があります。

亀山天皇の人となりは、極めて意気軒昂で英明であり、学問や和歌、管弦などの王朝文化に対して並外れた才能を備えていたと伝えられています。政治的な判断力にも秀でており、父の期待に応えて朝政に意欲的に取り組みました。

私生活においては、退位して法皇となった後、仏教とりわけ「禅宗」に対する深い帰依を示しました。

宮中に怪異が頻発した際、臨済宗の僧である無関普門(大明国師)を招いて祈祷を行わせたところ、怪異が直ちに収まったことに深く感銘を受けました。

亀山法皇は自らの離宮であった「禅林寺殿」を寄進して無関普門を開山に迎え、日本で最初となる勅願禅寺「南禅寺」を創設しました。

自らも出家して仏門に入り、頭を丸めて厳しい禅の修行に励むなど、権力の最高峰に位置しながらも真摯に精神の平静を追求した姿勢が伺えます。

 

蒙古襲来に備えた国家祈願、大覚寺統の確立と禅文化への貢献

亀山天皇最大の功績は、二度にわたる蒙古襲来(元寇)に対して精神的支柱として主導的な役割を果たしたこと、自らの血統である大覚寺統の基礎を確立したこと、そして日本の禅宗文化の発展に多大な貢献を果たした点にあります。

 

主要神社へ国家防衛を祈る自筆の祈願文を奉納

1274年(文永の役)および1281年(弘安の役)において、元朝の大軍が九州へ押し寄せた際、亀山上皇(法皇)は伊勢神宮や筑前の筥崎宮をはじめとする全国の主要な神社仏閣に対し、国家防衛と敵国降伏を祈る自筆の祈願文(宸翰)を奉納しました。

筥崎宮に掲げられた「敵国降伏」の扁額は亀山上皇の揮毫によるものとして有名です。

自らの身を国家の難に代えようとする気高き誓願は、武家政権である鎌倉幕府とも足並みを揃え、社会全体に対して強固な団結の意志を示す力となりました。

 

大覚寺統の主導権を引き寄せる譲位

 

第二の実績は、子の世仁親王(第91代・後宇多天皇)へのスムーズな譲位と院政の開始です。

1274年(文永11年)、亀山天皇は自らの意向によって後宇多天皇へ即位を推し進め、主導権を自らの血統へと手引きしました。

この亀山天皇と後宇多天皇に始まる系統は、居所とした大覚寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後に後醍醐天皇や南朝へと繋がる歴史的な正統性の軸を打ち立てました。

 

南禅寺の造営と禅宗の庇護

第三の実績は、南禅寺の造営を通じた文化的貢献です。南禅寺を京都における臨済宗の最高峰の寺院として位置づけ、大陸から招いた高僧や優れた日本の禅僧を手厚く庇護しました。

これにより、宋や元からもたらされた禅の思想や美術、建築様式が京の都へ定着し、室町時代へ至る五山文化の基礎がここで創出されることとなりました。

 

龜山天皇治世の時代背景

天龍寺。多宝殿へ向かう廊下。

亀山天皇が治め、院政を振るった13世紀後半という時代は、鎌倉幕府の得宗専制政治(北条時宗・北条貞時ら)が最高潮に達するとともに、外圧である蒙古の脅威によって日本全体が緊迫感に包まれていた時期でした。

また、朝廷と幕府の関係においては、皇室が大覚寺統と持明院統のふたつに分かれて反目し始めたため、後継者の選定や皇室財産の管理を巡って、幕府が裁定者として介入せざるを得ない構造が生じつつありました。

 

得宗家と御内人による得宗専制化が進む

多宝塔の奥には、後醍醐天皇の御尊像が安置されています。天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の鎮魂と菩提を祈るために創建されました。

元寇に対応した北条時宗の息子:貞時の時代に、有力御家人であった安達家が、得宗家の内管領(北条得宗家の家政を司る長)であった平頼綱によって滅ぼされる事件が起きます。※霜月騒動

これによって、形式上は北条家と対等であった御家人たちの力は弱まり、鎌倉幕府は北条得宗家とその身内である内管領に権力が集中していくことになります。

時代をくだって執権:北条高時の時代には、北条得宗家以上に絶大な権力を手にする長崎円喜(高綱)らが中心となって幕府を運営していくことになるのでした。

 

龜山天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

寵愛を受けた父:後嵯峨天皇の陵墓とならんで亀山天皇の陵墓があります。

亀山天皇を取り巻く人間関係は、父からの深い寵愛、名門公家である外戚からの手厚い支援、そして兄弟間の激しい不和と政治的対立によって形作られていました。

 

後嵯峨帝による寵愛と皇子の立太子

天皇の絶対的な政治的後ろ盾となったのは、父である後嵯峨天皇です。

後嵯峨天皇は亀山天皇(当時は恒仁親王)の才能を高く評価し、自らの意思によって彼を即位させました。

またさらには亀山天皇の兄である後深草上皇の息子(熈仁親王:のちの第92代:伏見天皇)ではなく、寵愛する亀山天皇の息子(世仁親王:のちの第91代:後宇多天皇)を皇太子に指名します。

母方の実家である西園寺家(西園寺実氏・西園寺公相ら)の存在も極めて重要でありました。

西園寺家は朝廷と鎌倉幕府を結ぶ最高機関である「関東申次」を代々務めており、その強大な政治力と財力が亀山天皇の政権運営を力強く支えました。

 

同母兄:後深草帝(持明院統の祖)との対立

一方、不倶戴天の対立軸となったのが、同母の兄である第89代:後深草天皇(のち持明院統の祖)でしょう。

後深草天皇は、父によって強引に退位させられ、皇位が弟の亀山天皇とその子(後宇多天皇)へ移されたことに対して激しい怨念を抱いたとされています。

立場を弱くした後深草上皇は幕府に対して強く抗議し、自らの皇子である伏見天皇の即位を要求します。

結果としてこの兄弟間の深い葛藤が、朝廷を二分して代々にわたって皇位を奪い合う両統迭立の時代を引き起こす決定的な原因となっていたのでした。

 

鎌倉幕府との関係性

鎌倉幕府(執権・北条時宗)との関係においては、過度な摩擦を避けつつも、朝廷の自主性を死守するために高度な交渉を行い、蒙古襲来の難局においては幕府の軍事行動を精神面から全面的に支援し、公武の連携をもって国難の克服に当たろうと努めました。

しかし先述の通り、亀山天皇からなる大覚寺統は幕府の介入によって持明院統と皇統を2分することになりました。

この幕府への不信感が、大覚寺統のカリスマの時代に爆発し、鎌倉幕府が滅亡に向かうことになるのですが、その火種がこの時代から燻り始めていたのかも知れません。

 

龜山天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 龜山天皇(かめやまてんのう)
本   名 恒仁(つねひと)
御   父 後嵯峨天皇
御   母 西園寺 姞子(さいおんじ きつし)
御 陵 名 龜山陵(かめやまのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 天龍寺内
交通機関等 JR 嵯峨嵐山駅から徒歩約13分
御在位期間 1259年~1274年

1305年(嘉元3年)10月4日、亀山法皇は自らの離宮であった亀山殿において、57歳で崩御されました。

蒙古襲来の嵐が吹き荒れる中で国家の安寧を祈り続け、大覚寺統の祖として南禅寺に洗練された禅の世界を築き上げた英主。

宮内庁によって厳重かつ神聖に管理されている段築状の御陵は、現在も嵐山の静謐な空気の中に佇んでおり、訪れる人々に対して、激動の鎌倉時代を気高く生きた帝の足跡を静かに語りかけています。

龜山陵と同じく天龍寺の境内にある曹源池庭園。

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