ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、南北朝の動乱が終末期へと向かう過酷な時代の中、南朝の絶対的な正統性と武威を掲げ、不屈の闘志をもって幕府勢力に抗い続けた第98代:長慶天皇(ちょうけいてんのう)の御生涯をご紹介します。
吉野の深い山々に満ちる南朝の誇りと、決して譲り渡すことのない理想を背負って戦い抜いた帝の、鋭くも悲壮な足跡をともに辿ってみましょう。
長慶天皇の人物像・エピソード

長慶天皇は、1343年(興国4年/康永2年)父である第97代:後村上天皇と二条師基の女とされる藤原勝子との間の第一皇子として誕生し、寛成(ゆたひと)と名付けられました。
寛成親王が育った環境は、吉野や賀名生(あのう)を拠地とする南朝が、室町幕府との間で血で血を洗う戦闘と先の見えない和平交渉を繰り返す、まさに苦難の激動期でした。
この環境の中で成長した寛成親王は、父・後村上天皇の慎み深く穏やかな姿勢とは対照的に、南朝の正統性に対する極めて強い自負を持ち、北朝や幕府との妥協を一切許さない、極めて強毅で武闘派な性格を備えた人物へと成長しました。
三種の神器とともに出陣?皇室史屈指の武闘派

1368年(正平23年/応安元年)、父・後村上天皇の崩御に伴い吉野で即位。しかし即位直後、南朝の軍事的な最大の大黒柱であった重臣・楠木正儀が突然北朝・幕府側へと寝返るという、南朝の存立を揺るがす大事件が発生しました。
この裏切りに対して激怒した長慶天皇は、従来の帝の常識を覆す行動に出ます。
伝承や古記録によれば、天皇は自ら三種神器(鏡・玉・剣)を身に帯び、草薙剣を手に取って陣頭に立ち、裏切った楠木正儀の軍勢を直ちに討伐するために自ら出陣した(!)と伝えられています。ゴリゴリの武闘派も武闘派ですね…
自ら武器を執って逆徒を薙ぎ倒すというこの壮絶な逸話は、長慶天皇の凄まじい気魄と武闘派としての姿勢を如実に象徴しているのではないでしょうか。
弟である後亀山天皇へ譲位後のエピソード

また、譲位に際しても和平派であった弟の熙成親王(後亀山天皇)に対し、宮中儀礼の手続きを越えて自ら手で直接三種の神器を手渡したという独特な伝承が残されています。
退位後の足跡には不明な点が多く、幕府の追求を逃れるために奥州(現在の青森県や岩手県など)や東国へと潜行したという長慶天皇潜幸伝説が日本各地に遺されています。
また、兜を使って煎餅を焼いたという伝承が南部煎餅の由来として語り継がれるなど、流浪と謎に包まれた晩年の足跡は、後世の人々の記憶に強く刻まれています。
強硬な主戦論と『仙源抄』執筆、文化的正統性の護持

長慶天皇の功績は、室町幕府の軍事的・政治的圧迫に対して南朝主戦派の絶対的リーダーとして徹底抗戦を貫いたこと、ならびに『仙源抄(せんげんしょう)』の執筆や和歌の編纂を通じて南朝の王朝文化的正統性を天下に示し続けた点にあります。
主戦派として、北朝への強硬な姿勢を示す

第一の功績は、南朝の精神的支柱としての主戦論の完遂です。
室町幕府第3代将軍・足利義満が権力を固め、北朝側が優勢を確立していく中で、長慶天皇は一歩も引くことなく南朝の正統性を主張し続けました。
自らが妥協しない姿勢を貫くことで、衰退の一途をたどる南朝の勢力を精神的に結束させ、安易な降伏を防ぐ砦となりました。
『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』の完成

第二の功績は、古典文学研究における不滅の実績である『仙源抄』の執筆です。
先述の通り武闘派エピソードにはことかかない長慶天皇ですが、古典文学研究における重要な事績をもっており、そのギャップが魅力的です。
1381年(弘和3年/永徳3年)、長慶天皇は自ら筆を執り、日本で初めて『源氏物語』の難語や重要語句をいろは順で並べた、画期的な辞書形式の注釈書である『仙源抄』を完成させました。
従来の巻順で解説する形式と異なり、現代の国語辞典のように欲しい言葉を素早く引ける圧倒的な実用性を備えていました。
内容は藤原定家らの先行研究にとどまらず、後醍醐天皇や後村上天皇ら南朝歴代の解釈を網羅・比較し、自らの考察も加えた非常に学術価値の高い集大成となっています。
軍事的に劣勢へ追い込まれていた南朝にあって、伝統ある文化の正統な継承者であることを証明したこの執筆は、北朝に対する文化的な抗戦でもあったとされます。
いわば、激動の時代の中で不屈の意地と高度な教養をもって古典を守り抜いた、長慶天皇の文人としての真骨頂を物語る傑作とも言えるのです。
新葉和歌集の編纂

『仙源抄』と並び南朝文化の金字塔となったのが、1381年(弘和1年)に完成した準勅撰和歌集『新葉和歌集(しんようわかしゅう)』です。
天皇は叔父にあたる宗良親王(むねながしんのう)に撰進を命じ、激しい動乱のさなかにあっても南朝独自の歌集編纂という一大事業を推し進めました。
本書は、後醍醐天皇以降の南朝歴代天皇や皇族、さらには南朝に忠義を尽くした武士たちの歌を収めた集大成です。幕府や北朝側が和歌の主導権を握るなか、南朝にも脈々と受け継がれる正統な歌道の伝統と高い教養を天下に示す狙いがありました。収められた歌には、吉野の過酷な風土や戦況への哀愁が漂う一方で、皇統の正統性と決して屈することのない意志が強く込められています。
長慶天皇自身も最多級の53首が採録されており、一流の歌人としての優れた芸術性を遺憾なく発揮しました。『新葉和歌集』は、たとえ武力で押されようとも、三十一文字(みそひともじ)の言葉に南朝のプライドと魂を託して未来へ語り継いだ、もうひとつの不滅の抗戦だったのかも知れません。
長慶天皇治世の時代背景

長慶天皇が在位した1368年から1383年という時期は、北朝側において室町幕府第3代将軍・足利義満が着々と実権を握り、幕府による全国支配体制が完成へと向かっていた時代でした。
足利義満は京都に花の御所(室町殿)を造営し、武家と公家の権力を一体化させて絢爛豪華な北山文化の基盤を築き上げていました。
対照的に、南朝側は吉野・賀名生・河内(観心寺周辺)などの山間部を転々と移動せざるを得ず、主要な武将たちの戦死や離脱によって軍事力・財政力の双方が著しく枯渇していく過酷な衰退期でありました。

世相や文化の面においては、北朝の京において二条良基らによる連歌の体系化『菟玖波集(つくばしゅう)』や、観阿弥・世阿弥父子による能楽の大成が進められていた時代でもあります。
南朝内部においても、戦乱の孤独と悲壮感を映し出した独自の王朝文学が、深い山中において静かに育まれていたのでした。
長慶天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

長慶天皇を取り巻く人間関係は、父・後村上天皇からの血統の継承、弟である後亀山天皇との路線対立、南朝を支えた武将たちとの複雑な摩擦、ならびに室町幕府との苛烈な敵対関係によって形作られていました。
継戦か、和平か?で揺れる南朝の内部

皇室内部および血縁関係において、父は第97代:後村上天皇、母は嘉勝門院(藤原勝子)です。弟には南朝最後の天皇となる後亀山天皇(熙成親王)がいます。
また、南朝の皇族歌人として各地を転戦していた叔父の宗良親王は、長慶天皇の思想的・文化的同盟者として深い絆で結ばれていました。
南朝内部においては、徹底抗戦を主張する主戦派(長慶天皇派)と、現実的な平和交渉を模索する和平派(後亀山天皇派)という深い主張の断絶が存在しました。
長慶天皇の即位は主戦派の強烈な支持によるものでしたが、北朝・幕府側の圧倒的な武力を前に南朝の衰退が明白となると、宮中では次第に和平派の声が大きくなっていきました。
こうした政治的圧力に押される形で、最終的に弟の後亀山天皇へ譲位することを余儀なくされました。
北朝・室町幕府との対立と楠木正儀の離反

武家勢力との関係においては、特に楠木一族との葛藤が顕著でありました。
南朝の柱石であった楠木正儀が1369年に北朝へ寝返った際、長慶天皇は自ら出陣して討伐を行いました。後に正儀は再び南朝へ復帰するものの、南朝を支える武士たちの動揺と離脱は、長慶天皇の治世に重い影を落とし続けました。
不倶戴天の敵となったのは、北朝の天皇たち(後光厳天皇、後円融天皇)および、室町幕府第3代将軍:足利義満であります。
義満は南朝の拠点を包囲し、外交的・軍事的な圧力を強めて南朝を追い詰めていきました。長慶天皇は義満の威勢に対して最期まで屈することなく、帝としての自尊心を貫き通しました。
長慶天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 長慶天皇(ちょうけいてんのう) |
| 本 名 | 寛成(ゆたひと) |
| 御 父 | 後村上天皇(ごむらかみてんのう) |
| 御 母 | 近衛勝子(このえ かつこ / しょうし) ※嘉勝門院 |
| 御 陵 名 | 嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町 |
| 交通機関等 | JR 嵯峨嵐山駅から徒歩約5分 嵐電嵯峨駅から徒歩2分 |
| 御在位期間 | 1368年~1383年 |

