第99代:後亀山天皇 〜南北朝の争乱を終わらせ、神器と皇位を北朝へ譲渡した南朝最後の帝

第76-100代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、50年以上にわたって日本を二分した南北朝の動乱期において、南朝最後の天皇として即位し、戦乱に苦しむ民衆と国土を救うために三種の神器を北朝へと渡して南北朝合一(明徳の和約)を成し遂げた第99代:後亀山天皇(ごかめやまてんのう)の御生涯をご紹介します。

自らの権力よりも世の平穏を最優先とした気高き決断の足跡を、静かに辿ってみましょう。

後亀山天皇の人物像・エピソード

後亀山天皇は、煕成(ひろなり)と名付けられました。第97代・後村上天皇の第二皇子として誕生し、母は藤原勝子(嘉勝門院)です。同母の兄には、南朝の第3代天皇(第98代)である長慶天皇が存在しました。

煕成親王の育った環境は、祖父である後醍醐天皇が吉野に南朝を開いて以来、北朝および室町幕府との間で激しい武力衝突が続いていた動乱の渦中でありました。

青年期までは吉野や賀名生(あのう)といった大和国の山深い潜幸先で過ごし、常に戦乱の脅威と隣り合わせの生活を送りました。

南朝天皇の中でも現実路線・穏健派

後亀山天皇の人となりは、極めて誠実で温和、かつ現実的な着眼点を持った思慮深い人物であったと伝えられています。

南朝の正統性と軍事的な抵抗にこだわり続けた兄の長慶天皇が武闘派・強硬派として知られたのに対し、後亀山天皇は長引く戦争によって荒廃した国土と、重税や戦禍に苦しむ民衆の惨状に深く心を痛めていました。

王朝の格式や和歌などの伝統文化を愛する知的な側面を持ちながらも、時代の潮流を冷静に見極める眼力を備えていました。

1383年(弘和3年/至徳元年)、南朝内部において武力抵抗の限界を感じた公家や武士たちの支持を受け、強硬派であった兄・長慶天皇からの譲位を受ける形で、第99代天皇として即位しました。

 

反故にされた約束へ反発の意思表示

譲位後の私生活においては、京都の嵯峨に位置する大覚寺や小倉殿(小倉宮)に身を寄せたことから小倉殿大覚寺殿と称されました。

京都へ戻った後も、一度約束された和平の条件が室町幕府によって反故にされた際には、強い抗議の意を示して密かに吉野へ脱出するなど、単なる柔弱な人物ではなく、南朝の誇りと皇統の尊厳を命がけで守ろうとする芯の強さを併せ持っていました。

 

明徳の和約による南北朝合一と天下泰平への道

後亀山天皇最大の歴史的功績は、半世紀以上にわたって全国を疲弊させていた南北朝の分裂状態を解消し、国家の統合と平和をもたらすための大決断である南北朝合一(明徳の和約)を成立させた点にあります。

 

即位後の南朝は、室町幕府第3代将軍・足利義満の圧倒的な軍事力と政治的な工作の前に、吉野の山中に孤立し、経済的にも軍事的にも極度の窮地に追い詰められていました。

1392年(元中9年/明徳3年)、足利義満から相国寺の僧・絶海中津や吉田兼熙を通じて、南北朝の講和と統合を求める強い働きかけが行われました。

南朝の内部には「北朝や幕府に妥協すべきではない」という強い反対論も存在しました。

しかし、後亀山天皇はこれ以上の戦争の継続は国家と民衆を破滅に導くだけであると判断し、自らの皇位や南朝の正統性への固執を捨てて講和に応じる苦渋の決断を下しました。

 

大覚寺にて締結した”明徳の和約”

神器を譲渡し、南朝が解消される形で”明徳の和約”が成立した大覚寺

1392年10月、後亀山天皇は南朝の君臣を率いて吉野の宮を出立し、京都の大覚寺へと遷幸しました。

そして同年11月、南朝に代々伝えられてきた王権の象徴である三種の神器を、北朝の第6代天皇(第100代)である後小松天皇の土御門内裏へと渡す譲国の儀を行いました。

この講和条件(明徳の和約)において、後亀山天皇は主に以下の合意を取り交わしました。

  • 皇位は今後、持明院統と大覚寺統が交互に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)とすること
  • 後小松天皇の次は後亀山天皇の皇子(小倉宮)を皇太子とすること。
  • 皇室の荘園のうち国衙領を大覚寺統の領地とし、長講堂領を持明院統の領地とすること

三種の神器の渡与と後亀山天皇の譲位により、1336年の後醍醐天皇の吉野遷幸以来続いていた南北朝の重複状態は形式的に解消され、日本は再びひとつの朝廷のもとに統合されることになったのでした。

…しかしこの約束も、のちに持明院統によって反故にされ、さらなる争いの火種へとつながってゆくことになるのでした。

 

後亀山天皇治世の時代背景

後亀山天皇が治めた14世紀末(1383年〜1392年)は、室町幕府の全盛期を築いた足利義満の主導により、武家政権の中央集権化が進む一方で、南朝の威勢が急速に失われていった時期でした。

全国の守護大名たちが幕府の統制下に組み込まれ、かつて南朝を支えた有力な武士団や公家たちも次々と離散していたのです。

吉野や山城国の賀名生は、険しい山々に囲まれた天然の要害であったものの、物資の補給や資金の調達は困難を極めており、宮中の暮らしは極めて質素なものでした。

このような過酷な時代背景にあっても、後亀山天皇は王朝としての気品と文化的な営みを絶やすことはありませんでした。

吉野の行宮においては、限られた側近や歌人たちを集めて歌合(うたあわせ)を開催し、和歌を通じて心を寄せ合いました。

自然豊かな吉野の四季、桜や紅葉の美しさ、そして吉野川のせせらぎを歌に詠み込み、儚い世の無常や平和への祈りを表現しました。

ゆかりの地は、講和後に足を伸ばし身を寄せた京都府京都市の大覚寺でしょう。大覚寺は先述のとおり神器を譲渡した場所でもあります。

 

後亀山天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

後亀山天皇を取り巻く人間関係は、南朝内部における路線対立、南朝を支えた忠臣たちの存在、そして強大な権力を誇る室町幕府との高度な交渉によって形成されていました。

 

武闘派の兄:長慶帝、現実派の弟:後亀山帝

肉親との関係において最も象徴的なのが、同母兄である長慶天皇との対比です。祖父・後醍醐天皇の遺志を継いで徹底抗戦を貫こうとした長慶天皇はいわば武闘派の帝でありました。

これに対し、後亀山天皇は現実的な和平を模索しました。

南朝内部での対立を回避し、過度な血流を止めるため、長慶天皇から後亀山天皇への円滑な譲位が行われたことは、南朝の路線転換を示す決定的な出来事だったと言えます。

母方の実家である阿野家(藤原北家流)や、南朝の精神的支柱であった北畠家(北畠親房・顕家らの系譜)は、後亀山天皇の宮中基盤を陰で支えました。

特に伊勢国を拠点とする北畠満雅らは、南朝の尊厳を守るために最後まで後亀山天皇とその一族に忠誠を誓い続けました。

 

政治的・軍事的な最大の対立軸であり、同時に講和の相手となったのが持明院統、およびそれを支援する室町幕府(足利義満)です。

足利義満は圧倒的な軍事力を背景に圧力をかける一方で、南朝側のメンツを保つための講和条件(明徳の和約)を提示し、後亀山天皇を京へ呼び寄せることに成功しました。

しかし、義満の死後、第4代将軍・足利義持の時代になると、幕府は約束であった両統迭立を完全に反後し、北朝の後小松天皇の皇子(称光天皇)を即位させました。

約束を反後された後亀山法皇は強く憤り、1410年(応永17年)、密かに京都を脱出して再び吉野へと向かい、幕府に対して抗議の姿勢を示しました(小倉宮の吉野脱出)。

幕府からの再度の説得と交渉を経て後亀山法皇は京都へ戻りましたが、我が子(恒敦親王や小倉宮一族)が皇位に就く姿を見ることなく、1424年に崩御されました。

この幕府による約定不履行と南朝皇統の排除が、後に後亀山天皇の子孫や遺臣たちによる長期の抵抗運動「後南朝の動乱」を引き起こす原因となりました。

 

後亀山天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 後龜山天皇(ごかめやまてんのう)
本   名 煕成(ひろなり)
御   父 後村上天皇(ごむらかみてんのう)
御   母 藤原 聖子(ふじわら の せいし/きよこ)
※皇嘉門院(こうかもんいん)
御 陵 名 嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)
陵   形 五輪塔
所 在 地 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町
交通機関等 JR山陰本線(嵯峨野線)「嵯峨嵐山駅」下車、徒歩約20分、
または京福電鉄「嵐山駅」下車、徒歩約20分
御在位期間 1383年 〜 1392年

1424年(応永31年)5月8日、後亀山法皇は京都の小倉殿において、70代半ばで崩御されました。

後亀山天皇が静かに眠る嵯峨小倉陵は、京都市右京区の嵐山・嵯峨野の北端、小倉山の麓の静謐な地に築かれています。

南北朝の激しい動乱の終盤に立ち、自らの権力よりも天下の平和と民衆の安寧を選んで三種の神器を渡した南朝最後の帝。

宮内庁によって厳重に管理されている円丘の御陵は、今も深い緑と静寂の中に佇んでおり、訪れる者に対して、歴史の悲運と気高き決断を静かに語りかけています。

参拝を終え、参道を戻る道。

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