ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、歴史の足跡を辿る旅。
今回は、激動の古代日本において大陸からの新しい技術や文化を積極的に受け入れ、ヤマト王権の基盤を河内の地へ大きく押し広げた第15代:応神天皇(おうじんてんのう)の御生涯をご紹介します。
神話と史実の狭間で力強く脈打つ大王の足跡と、後世に八幡神として崇められるに至った気高い威厳の物語を、静かに辿ってみましょう。
応神天皇の人物像・エピソード
応神天皇の本名は、誉田別命(ほむだわけのみこと)といいます。
この「応神」という諡号(しごう)を決定したのは、後世の文章家である淡海三船(おうみのみふね)ですが、そこには深い意図が込められていました。
日本の歴代天皇の中で「神」という文字が名前に含まれるのは、初代:神武、第10代:崇神、そしてこの第15代:応神の三名だけです。
これら「三神」には共通点があり、それは単なる徳の高い善人というイメージではなく、強大な威信と軍事力によって世の中を力強く治めた、いわば強い神としての性質を持っています。
応神天皇の母であり、かつては天皇のひとりとしても考えられていた神功皇后も同様です。
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謎多き?応神天皇の誕生逸話
彼を語る上で避けて通れないのが、その誕生の謎です。
日本の正史である古事記・日本書紀では第14代:仲哀天皇の子とされていますが、生まれた年は仲哀天皇が崩御した3年後です。
当時の暦(春秋暦)を考慮しても、生物学的に見て仲哀天皇が実父であることは難しく、仲哀天皇とは別に父親がいた可能性が高いと思われます。
この不可思議な記録の裏には、応神天皇の母である神功皇后と、彼女を影ながら命がけで支え続けた不世出の忠臣・武内宿祢との間に紡がれた、深い血縁的な絆が隠されていたのでは?という説もあるようです。
ちなみに言うと、武内宿禰も孝元天皇の血を引いており、いわば皇室家(大王家)の分家と言っても良い名家の出です。孝元天皇から見ると4世孫(玄孫)にあたります。
渡来技術の積極的導入と巨大土木事業
応神天皇最大の功績は、渡来人を保護し、最先端の大陸技術や学問を導入したこと、そして大規模な池の築造などの治水・土木事業を通じて農業生産力を向上させた点にあります。
三韓征伐と関係あり?渡来人の保護と新技術の導入
四世紀末から五世紀初頭にかけて、朝鮮半島や中国大陸の政情不安に伴い、多くの渡来集団が日本列島へ渡ってきます。応神天皇は彼らを積極的に迎え入れ、国家の統治組織や産業の発展に登用しました。
秦氏の祖となる弓月君(ゆづきのきみ)が百二十県の民を率いて渡来した際には、新羅の妨害を排除するために軍勢を派遣して彼らを無事に入国させ、養蚕や織物技術を広めさせました。
また、東漢氏の祖となる阿知使主(あちのおみ)やその一族を迎え入れ、裁縫や製鉄、外交文書の管理などを担当させたことも応神天皇治世の事績とされています。
渡来人が思想・学問・土木技術発展の礎に
学問や思想の分野においても画期的な変革をもたらしました。百済から来朝した阿直岐(あちき)や、その勧めによって招聘された王仁(わに)を重用しました。
王仁は『論語』十巻と『千字文』一巻を献上し、皇太子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師として漢字と儒教の教えを伝授しました。実は、これが日本における本格的な文字文化と儒教の伝来とされています。
さらに、これらの渡来技術を駆使し、武内宿禰らに命じて剣池、軽池、鹿垣池、百済池などの広大な溜め池を各地に作らせました。水害を防ぎ、かんがい用水を確保することで農地の開墾を飛躍的に進めました。
また、海人(あま)や山守(やまもり)の部民を定めて海上交通や山林の管理体制を整えました。
これらの事業はヤマト王権の経済的・軍事的基盤を爆発的に強化し、次代の仁徳天皇へ続く全盛期の礎を構築したのでした。
後世、この多大な治績と武徳が称えられ、武家の守護神および国家の鎮護神である八幡神(仏教では八幡大菩薩)として全国の神社で深く信仰されることとなりました。
応神天皇治世の時代背景と周辺エピソード
応神天皇が君臨した4世紀末から5世紀初頭は、日本考古学において巨大古墳の世紀とも呼ばれ、大和盆地から難波・河内地方へと王権の拠点が移り変わる河内王朝の幕開けとも言える時代です。
動乱の東アジア、朝鮮半島
またこの時代は、東アジア全体が激動の戦乱期に突入していた時期でもありました。
中国大陸では北方の騎馬民族が侵入して動乱が続き、朝鮮半島では高句麗が南下して百済や新羅、加耶(任那)諸国との間で熾烈な覇権争いが展開されていました。
ヤマト王権は鉄資源の確保と国際的な地位獲得のため、百済と同盟を結んで朝鮮半島へ兵を派遣するなど、緊迫した対外外交と軍事行動を継続していました。
八幡信仰と応神天皇との関係性
そして応神天皇の存在を最も特徴づけるのが、八幡信仰との深い結びつきです。
応神天皇は崩御の後、国家鎮護や武門の守護神たる八幡大神(八幡大菩薩)として神格化され、全国の八幡宮のトップとして熱狂的な崇拝を集めることになります。
それを象徴するのが、大阪府羽曳野市に鎮座する誉田八幡宮(こんだはちまんぐうの存在です。誉田八幡宮は御陵に隣接する形で建立されており、明治時代までは後円部で祭祀が行われていたそうです。
数ある八幡宮の中でも、天皇の実際の陵墓のすぐそばに営まれいる神社であり、御陵と直接的な信仰的繋がりを持っているのは間違いなさそうです。
中世に入ると、源頼朝や源義経をはじめとする河内源氏の武将たちが、この八幡宮を自らの氏神として強烈に信仰しました。
政敵をことごとく討ち倒した圧倒的な武威を持つ応神天皇の御膝元は、武士たちにとって精神的な拠り所であり、勝利を祈願する最高の聖地だったのです。
現代でも誉田八幡宮の秋の例大祭(毎年9月15日のようです)では、神輿が御陵の濠を渡って古墳の墳丘へと渡御する神事が行われており、天皇の魂と地域の人々の信仰が1500年以上の時を超えて交わり続けています。
応神天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
応神天皇を取り巻く人間関係は、絶対的な守護者であった母と重臣、即位を阻もうとした身内との内乱、そして統治を支えた強力な渡来氏族や地方豪族との同盟によって形成されていました。
神功皇后と武内宿禰、皇統を繋ぐ皇子たち
幼少期の政治を支えたのは。母である神功皇后(気長足姫尊)と、数代の天皇に仕えたとされる大豪族の祖:武内宿禰(たけのうちのすくね)です。
神功皇后は仲哀天皇の崩御後に自ら摂政となり、三韓征伐を成し遂げて応神天皇の即位への道を拓きました。武内宿禰は全軍の総大将として幼い応神天皇を抱き抱えて戦い、内乱を平定するとともに、即位後も国土開発や外交の実務を全面的に支えました。
また、即位後の応神天皇は多くの妃を迎え、仁徳天皇(大鷦鷯尊)、菟道稚郎子、大山守皇子、稚野毛二派皇子(継体天皇の先祖)など多くの皇子・皇女に恵まれました。
治世の末期には、優秀な学識を持つ年少の菟道稚郎子を皇太子に立てましたが、天皇の崩御後に菟道稚郎子と兄の大鷦鷯尊が互いに皇位を譲り合い、結果として大鷦鷯尊が第16代・仁徳天皇として即位することになります。
即位前の敵対勢力とされる麛坂王と忍熊王
一方、明確な敵対勢力となったのが、異母兄にあたる麛坂王と忍熊王です。
彼らは神功皇后と誉田別尊(応神天皇)が九州から大和へ帰還する際、皇位を奪われることを恐れて兵を挙げました。軍勢を率いた武内宿禰は、知謀と武力をもってこれを挟み撃ちにし、両王の反乱を完全に平定しました。
東出雲王家、神床家、宇佐家の口伝では…
ちなみに….東出雲王家の末裔:富家が伝える富家伝承、天日矛の末裔・神床家の伝承によると、応神天皇の正体は上毛野国(群馬県および栃木県北部にあたります)から呼び寄せられた竹葉瀬だった、と伝わっているようです。…はい衝撃!。ガチの衝撃です。
具体的には、神功皇后と襲津彦(葛城襲津彦、何代目かの武内宿禰)の子は確かに生まれていたが、早くして夭折してしまったそう。
新羅からの年貢を受け取るために子の死を隠し、崇神天皇の皇子であり豊国(宇佐)の血を引く豊城入彦の末裔である竹葉瀬を応神天皇をとして即位させた、というのが伝承のようです。
応神天皇が主祭神の宇佐神宮に伝わる伝承では
また、宇佐神宮の宮司であった宇佐公康氏が伝える口伝:宇佐家伝承では、やはり神功皇后と武内宿禰との間に子はあったが4歳で亡くなったと伝わります。そこで御諸別命(みもろわけのみこと)の末裔である宇佐押人(=応神天皇)が中央に進出して天皇として即位した、と伝わっているようです。
ここで言う御諸別命は、記紀にも記されている人物で、富家の伝承とおなじく豊城入彦の末裔(豊城入彦命の子:彦狭島命の子が御諸別命)にあたります。そう言う意味では富家伝承と一致している点もありそうです。
記紀には記されない富家・神床家・宇佐家に伝わる伝承をまとめると、
- 仲哀天皇の子とされる人物は、実は神功皇后と武内宿禰の子
- 2人の子は早くに夭折してしまう
- 身代わりとして宇佐家の血を引く人物が上毛野国から来る(竹葉瀬、または宇佐押人)
- その人物こそが応神天皇として即位する
という点に共通点が見られます。
応神天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 應神天皇(おうじんてんのう) |
| 本 名 | 誉田別命(ほむだわけのみこと) |
| 御 父 | 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) |
| 御 母 | 神功皇后(こうごうじんぐうこうごう)(氣長足姫) |
| 御 陵 名 | 恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのえのみささぎ) |
| 陵 形 | 前方後円墳 |
| 所 在 地 | 大阪府羽曳野市誉田6丁目 |
| 交通機関等 | 近鉄 土師ノ里駅または道明寺駅から徒歩約17分 |
| 御在位期間 | 270年~310年 |
応神天皇が眠るとされる惠我藻伏崗陵は、大阪府羽曳野市の古市古墳群内に位置する誉田御廟山古墳(誉田大山古墳)に治定されています。
その墳丘長は約425メートルを誇り、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次いで日本第2位の規模を持つ巨大な前方後円墳です。
大陸の新しい技術と文化を迎え入れ、水田の開墾と文字の伝来をもって日本の国家構造を根本から飛躍させた応神天皇。
周濠の豊かな水面と深緑の樹木とともに、古代日本の黎明期に巨大な光を灯した英雄の足跡を静かに物語っているかのようです。

















