第15代:応神天皇 〜武門の神「八幡大菩薩/八幡大神」として崇敬される変革者

初代-25代

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、後世に武神「八幡大菩薩/八幡大神」として武士たちから熱狂的な崇敬を集めることとなる第15代:応神(おうじん)天皇をご紹介します。

応神天皇の人物像・エピソード

応神天皇の本名は、誉田別命(ほむだわけのみこと)といいます。

この「応神」という諡号(しごう)を決定したのは、後世の文章家である淡海三船(おうみのみふね)ですが、そこには深い意図が込められていました。

日本の歴代天皇の中で「神」という文字が名前に含まれるのは、初代:神武、第10代:崇神、そしてこの第15代:応神の三名だけです。

これら「三神」には共通点があり、それは単なる徳の高い善人というイメージではなく、強大な威信と軍事力によって世の中を力強く治めた、いわば強い神としての性質を持っています。

応神天皇の母であり、かつては天皇のひとりとしても考えられていた神功皇后も同様です。

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彼を語る上で避けて通れないのが、その「誕生の謎」です。

日本の正史である古事記・日本書紀では第14代:仲哀天皇の子とされていますが、生まれた年は仲哀天皇が崩御した3年後です。当時の暦(春秋暦)を考慮しても、生物学的に見て仲哀天皇が実父であることは難しく、父親が別にいた可能性が高いと思われます。

この不可思議な記録の裏には、応神天皇の母である神功皇后と、彼女を影ながら命がけで支え続けた不世出の忠臣・武内宿祢との間に紡がれた、極めて深い血縁的な絆が隠されていたと考えられます。

ちなみに言うと、武内宿禰も孝元天皇の血を引いており、いわば皇室家(大王家)の分家と言っても良い名家の出です。孝元天皇から見ると4世孫(玄孫)にあたります。

 

応神天皇の挙げた功績:大陸文化の受容

応神天皇の治世における偉大な実績は、海外からの先進的な文化や技術、そして優秀な人材をかつてない規模で日本へ受け入れ、国のかたちを根底から変革させた点にあります。

百済からやってきた弓月君が率いる数多くの民や、漢氏の祖となった阿知使主といった高度な技術者集団を朝廷をあげて厚く迎え入れました。彼らが日本列島にもたらした養蚕、機織り、最先端の冶金・製鉄技術、そして高度な土木・治水技術は、それまでの日本の社会を劇的に変貌させることとなります。

応神天皇は渡来人たちの力を巧みに組織化し、国内の開墾や巨大な池の造営、港湾の整備などを驚異的なスピードで推し進めました。

これにより、大和朝廷の財政基盤や生産能力は飛躍的に向上し、それまでの原始的な集落の連合体から、東アジアの国際社会のなかで一目置かれるような、高度で洗練された中央集権国家へと脱皮を果たすための確固たる土台が築かれたのです。

 

 

応神天皇治世の時代背景と周辺エピソード

応神天皇が君臨した4世紀末から5世紀初頭は、日本考古学において「巨大古墳の世紀」とも呼ばれ、大和盆地から難波・河内地方へと王権の拠点が移り変わる「河内王朝」の幕開けの時代でした。

そして応神天皇の存在を最も特徴づけるのが「八幡信仰」との深い結びつきです。応神天皇は崩御の後、国家鎮護や武門の守護神たる「八幡大神(八幡大菩薩)」として神格化され、全国の八幡宮のトップとして熱狂的な崇拝を集めることになります。

 

大阪府羽曳野市に鎮座する「誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)」の存在です。誉田八幡宮は、応神天皇の御陵とされる巨大な前方後円墳「恵我藻伏崗陵(誉田御廟山古墳)」に隣接する形で建立されています。数ある八幡宮の中でも、天皇の実際の陵墓のすぐそばに営まれ、御陵と直接的な信仰的繋がりを持っているという点で極めて特異かつ神聖な霊場です。

中世に入ると、源頼朝や源義経をはじめとする河内源氏の武将たちが、この八幡宮を自らの「氏神」として強烈に信仰しました。政敵をことごとく討ち倒した圧倒的な武威を持つ応神天皇の御膝元は、武士たちにとって精神的な拠り所であり、勝利を祈願する最高の聖地だったのです。

現代でも誉田八幡宮の秋の例大祭では、神輿が御陵の濠を渡って古墳の墳丘へと渡御する古式ゆかしい神事が行われており、天皇の魂と地域の人々の信仰が1500年以上の時を超えて交わり続けています。

 

応神天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

応神天皇の治世を支えたのは、何といっても武内宿禰です。武内宿禰は1円札の肖像画にもなった人物で、応神天皇の実父という説があるほど密接な関係にありました。

母:神功皇后朝鮮半島への遠征(三韓征伐)を成し遂げた、史上最強の女傑の一人です。日本で初めて切手の肖像になった女性でもあります。新羅から来たとされる天日矛の末裔です。

敵対勢力:異母兄の皇子たち仲哀天皇の崩御後、応神天皇の即位を認めず反乱を起こしましたが、武内宿禰の軍略によって鎮圧されました 。この勝利により、応神系の血統が不動のものとなります。

支持基盤:渡来系氏族

秦氏(はたうじ)などの渡来人が彼の治世を技術面で支え、これが後の京都・太秦(うずまさ)などの繁栄へと繋がっていきます。

東出雲王家、神床家、宇佐家の口伝では…

ちなみに….東出雲王家の末裔:富家が伝える富家伝承と、天日矛の末裔・神床家の伝承によると、応神天皇の正体は上毛野から呼び寄せられた竹葉瀬だったそうです。…はい衝撃。ガチの衝撃です。

伝承では、神功皇后と襲津彦(葛城襲津彦、何代目かの武内宿禰)の子は確かに生まれていたが、早くして夭折してしまったそう。新羅からの年貢を受け取るために子の死を隠し、崇神天皇の皇子であり豊国(宇佐)の血を引く豊城入彦の末裔である竹葉瀬を応神天皇をとして即位させた、とあります。

 

また、宇佐神宮の宮司であった宇佐公康氏が伝える口伝:宇佐家伝承では、やはり神功皇后と武内宿禰との間に子はあったが4歳で亡くなります。そこで御諸別命の末裔である(=応神天皇)が中央に進出して天皇として即位した、と伝わっているようです。

御諸別命は、富家の伝承とおなじく豊城入彦の末裔(豊城入彦命の子:彦狭島命の子が御諸別命)にあたりますので、富家伝承と一致している点もありそうです。

まとめると

  • 仲哀天皇の子とされる人物は神功皇后と武内宿禰の子
  • 2人の子は早くに亡くなってしまう
  • 身代わりとして宇佐家の血を引く人物が上毛野国から来る(竹葉瀬、または宇佐押人)
  • その人物こそが応神天皇

という点が共通点になります。

 

応神天皇の御陵は、日本各地にある陵墓の中でも仁徳天皇陵に次ぐ規模を誇る巨大な前方後円墳です。

大阪の地を訪れ、その広大な堀と緑を前にしたとき、かつて大陸の風を浴び、自らの力で新しい日本を切り拓こうとした覇王の息吹を感じることができるでしょう。

応神天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 應神天皇(おうじんてんのう)
本   名 誉田別命(ほむだわけのみこと)
御   父 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
御   母 功皇后(こうごうじんぐうこうごう)(氣長足姫)
御 陵 名 恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのえのみささぎ)
陵   形 前方後円墳
所 在 地 大阪府羽曳野市誉田6丁目
交通機関等 近鉄 土師ノ里駅または道明寺駅から徒歩約17分
御在位期間 270年~310年

 

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