第35代:皇極天皇(第37代:齊明天皇) 〜激動の飛鳥を駆け抜け重祚を果たした女帝

第26-50代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、激動の7世紀日本において史上初となる二度の即位(重祚)を果たされた第35代:皇極天皇(のちの第37代:齊明天皇)の御生涯をご紹介します。

大化の改新という未曾有の権力闘争と、緊迫する東アジア情勢のうねりの中で、彼女はいかにして国を導き、何を背負ったのでしょうか?

古代日本が国家としての形を成していく過渡期に君臨した、その波乱万丈な生涯を紐解いていきましょう。

皇極天皇(齊明天皇)の人物像・エピソード

JR掖上駅から徒歩15分程度の場所にあります。途中で川を渡るのですが、その川の名前は「曽我川」と言います。うーむ、面白い

皇極(齊明)天皇は、敏達天皇の孫である茅渟王(ちぬのおう)と吉備姫王(きびひめのおう)との間に生まれ、宝皇女(たからのひめみこ)と名付けられました。

宝皇女は、のちに第34代:舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)らを生みます。

また、人となりは、気品に満ちた高貴な威厳を備え、神事や祭祀に対する深い帰依と、誠実な信仰心を持っていた人物として伝わっています。

 

アマテラスのモデルのひとり?雨乞いの逸話

皇極天皇としての治世初期における最も有名な逸話が、至誠の雨と呼ばれる祈雨(雨乞い)のエピソードです。

642年(皇極天皇元年)、日本全国が深刻な日照りに見舞われ、農作物は枯れ果て民衆は飢饉の危機に直面していました。大臣として権勢を奮っていた蘇我蝦夷や入鹿らが般若経を読誦させるなどの雨乞いを行うも、一向に雨は降りません。

そこで斉明天皇は、自ら南淵の河上へと行幸し、ひざまずいて四方を仰ぎ、神々に対して至誠を込めた祈りを奉捧しました。すると雷鳴が轟き、忽ち全国に大雨が降り注ぎます。

干ばつを癒やした恵みの雨に歓喜した民衆は、皇極天皇を至徳のある聖なる天皇と称え、深く敬愛したとのことです。

 

“乙巳の変”時に帝位にあった皇極天皇

しかし、その静穏な信仰の時代は過酷な政治劇によって破破されました。

645年(皇極天皇4年)、飛鳥板蓋宮の太極殿において、三韓からの使節を迎える儀式の最中に、実子である中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を突如打ち討つ乙巳の変(いっしのへん)が起こります。

目の前で繰り広げられた凄惨なクーデターに強いショックを受けた天皇は、事態の収定と政治的責任をとるため、翌日には皇位の譲位を決意したのでした。

しかしその後も、跡を継いだ弟である孝徳天皇の崩御を経て、655年に再び即位して第37代:齊明天皇となります。同一人物が二度天皇の位に就く重祚(ちょうそ)は、この寶皇女が史上初めての例となりました。

 

飛鳥の大規模土木工事、百済救援に向けた西征

参道を少し登ると、右側に道があり、八幡神社へと繋がります。

皇極・齊明天皇の事績として有名なのは、飛鳥の地における巨大な石造土木事業の断行と、蝦夷・粛慎の平定、そして東アジアの動乱に対応した国家規模の防衛・遠征体制の構築にあります。

 

飛鳥の土木工事、蝦夷・粛慎の平定

長く人の手が入っていないのか、独特の雰囲気がある八幡神社

齊明天皇として再び即位した後の時代、宮中では飛鳥の地形を劇的に作り変える大規模な建築工事が次々と推進されました。

香久山の西から多武峰に至るまでの距離に運河(渠)を掘らせ、石を運んで巨大な石垣や構造物を築き上げました。さらに両槻宮(ふたつつきのみや)や吉野宮の造営など、石を用いた精密な建築技術が投入されました。

当時の人々や一部の公卿は、莫大な労力と費用を費やす工事に対して「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と批判の声をあげることもありました。

しかし現代の歴史学および考古学においては、これらの石造建造物(現在の酒船石遺跡や飛鳥京跡石造物など)は、東アジア諸国に対してヤマト王権の中央集権的な威信を示すための、国家的都市計画の一環であったと高く評価されています。

地方行政においては、軍事的な統治能力の強化を図りました。

658年から660年にかけて、将軍・阿倍比羅夫(あべのひらふ)を東北・北海道方面へ派遣すると、比羅夫率いる軍は北方領域の蝦夷や粛慎(みしはせ)を平定し、支配領域を北日本へと拡大させました。

百済の滅亡、救援要請に答えた西征

道を戻り、参道を進みます。

そして、治世の最末期に到来したのが、国家の存亡を賭けた東アジアの未曾有の大動乱です。

660年、長年の同盟国であった百済が唐と新羅の連合軍によって滅亡させられると、百済の遺臣から救援の要請を受けた齊明天皇は、当時68歳という高齢でありながら自ら全軍の最高指揮官として西日本へ出征することを決意します。

天皇は難波から船出し、瀬戸内海を渡って伊予の熟田津を経由し、筑紫(福岡県)の朝倉橘廣庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)へ本営を移しました。

皇極天皇は、この朝倉の地で崩御されるのですが、志半ばの百済復興の想いは中大兄が引き継ぐことになります。

自ら現地で軍勢の編成と物資の調達を力強く指揮し、後の白村江の戦いへとつながる国家主導の東アジア遠征の基盤を完成させたのでした。

 

皇極天皇(齊明天皇)治世の時代背景

大田皇女の墓を越え、さらに参道を進みます。

皇極・齊明天皇が治めた7世紀半ば(642年〜661年)は、古代日本が豪族の連合体から律令国家へと急速に変貌を遂げる改革期であり、同時に東アジア全体が動乱に見舞われていた緊迫の時代でした。

まず国内の政治的には、蘇我本宗家による権力の独占から、乙巳の変を経て大化の改新へと至る一大転換点であり、公地公民制や新たな租税・行政仕組みの導入が進められ、天皇を中心とする中央集権体制の構築が急ピッチで進められていました。

そして朝鮮半島では、長年の同盟国とも言える百済が滅亡するなど、古代日本の外交政策においても重要な転換にありました。

 

皇極天皇(齊明天皇)と関連氏族・敵対勢力との関係性

皇極・齊明天皇を取り巻く人間関係は、血縁による強固な皇室内の絆、政権を支えた優れた皇子たちとの協力、そして時代の転換において退けられた豪族勢力との緊張関係によって形作られています。

 

実は蘇我本宗家の血も引いていた宝皇女

豪族勢力との関係においては、最初の皇極天皇としての治世において宮廷内で絶大な権力を誇っていた蘇我本宗家(蘇我蝦夷・入鹿の親子)との関係性が最大の焦点でした。

彼女自身は蘇我氏の血を色濃く引いていたものの、王権を凌駕しようとする蘇我本流の専横は目に余るものがあったと記紀には伝わります。

その結末として、我が子である中大兄皇子らによって彼女の御前で蘇我入鹿が斬り殺されるという最悪の悲劇を目の当たりにすることになったのでした。

 

譲位後に即位した弟:孝徳天皇との政治的対立

また、同母弟である孝徳天皇との間にも政治的な葛藤が存在していました。

乙巳の変の後に譲位して孝徳天皇を擁立すると、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮への遷都を行い、政策としては蘇我氏の方針を継承する政策を進めました。

しかし、しばらくすると皇極上皇は、後に中大兄皇子とともに飛鳥へ勝手に戻り、孝徳天皇を難波に孤立させるという行動に出ます。

孝徳天皇の崩御後、皇室内の分裂を防ぎ権力を一元化するために、自ら再び齊明天皇として即位することとなったのでした。

前提として、皇極天皇と中大兄皇子は、その後の外交政策からも分かるように長年の同盟国であった百済との関係性を重視する親・百済派とも言える考え方でした。

一方で、蘇我氏やその基本方針を継承した孝徳天皇は、親・唐派、非介入派とも言える政策をとっており、百済や高句麗の争いには深く介入しないという現実的な全方位外交の方針でした。

 

夫:欽明天皇と、歴史を作った2人の息子たち

夫である第34代:舒明天皇との間には、後に古代日本の大改革を成し遂げる二人の偉大な皇子が誕生します。第一皇子には中大兄皇子、第二皇子には大海人皇子です。

中大兄皇子と大海人皇子は、母である皇極・齊明天皇の政権を皇太子や重臣として全主力をあげて支え、内政改革と対外防衛の実務を強力に推し進めました。

先述の通り親・百済派という共通点を持ち、百済遺民による百済復興支援政策を引き継いだのも中大兄皇子です。

百済が滅亡した際、実権を握る中大兄皇子は、かつての家庭教師の影響や側近たちとの関係性もあり、同盟国であった百済に対して極めて強い思い入れを持っていたと考えられます。

その一方で、弟の大海人皇子は、唐や新羅(白村)といった大陸の勝者側の勢力とも比較的良好なパイプを持ち、冷静な関係性を築いていたようです。

この百済派(兄)と新羅・親唐派(弟)という外交方針の微妙なズレと感情のすれ違いは、斉明天皇の崩御後、やがて日本古代史最大の大乱とされる壬申の乱へと発展していく伏線でもあったのでした。

 

皇極天皇(齊明)陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 皇極天皇(こうぎょくてんのう)
※重祚して齊明天皇(さいめいてんのう)
本   名 宝皇女(たからのひめみこ)
御   父 欽明天皇(きんめいてんのう)
御   母 吉備姫王(きびひめのみこ)
御 陵 名 越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 奈良県高市郡高取町大字車木
交通機関等 JR 掖上駅から徒歩約13分
御在位期間 642年~645年(皇極)、655年~661年(齊明)

661年(齊明天皇7年)8月24日(旧暦7月24日)、齊明天皇は百済救援の陣頭指揮を執っていた筑紫の朝倉橘廣庭宮において、68歳で崩御されました。

乙巳の変という激動の政変を乗り越え、史上初の重祚を果たして飛鳥に巨大な石造文化を遺し、最期は国の誇りを懸けて九州の地で遠征の指揮を執り続けた皇極・齊明天皇。

宮内庁によって厳重に管理されている御陵の静寂は、今も古代飛鳥の風とともに、国家の未来のために命を燃やし尽くした気高き女帝の足跡を静かに語り続けています。

 

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