第19代:允恭天皇 〜病難を乗り越え、盟神探湯で氏姓改革を断行した和王:済

初代-25代

「みささぎめぐり」へようこそ。日本の歴史を形作ってきた歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、足腰の重い病に苛まれながらも帝位に就き、乱れた氏姓の秩序を「盟神探湯」という過酷な神判によって正し、古代日本の国家の骨組みを再構築した第19代:允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御生涯をご紹介します。

宮中に渦巻く血縁の不貞と悲劇の影の中で、不屈の執政を貫いた帝の足跡を、ともに辿ってみましょう。

允恭天皇の人物像・エピソード

允恭天皇は、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)と名付けられました。『古事記』では男浅津間若子宿禰命と表記されます。

父は「聖帝」と讃えられた仁徳天皇、母は大豪族・葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女である磐之媛命(いわのおひめのみこと)です。第17代:履中天皇および第18代:反正天皇の同母弟にあたります。

 

群臣に推され即位、病の完治で政務へ

允恭天皇の生涯において最も特徴的な点は、生まれつき足腰が立たない重い病(風疾・足の病)を患っていたことであります。

同母兄である反正天皇が崩御した際、群臣や豪族たちは次の大王として雄朝津間稚子宿禰尊を強く推薦しましたが、オアサヅマは「自分は長年病に伏しており、身体が自由にならず、徳も浅い。天下を治める重任を果たすことはできない」として、即位を固く辞退し続けたと言います。

朝廷の空位が長引き、后となる忍坂大中姫(おしさかのおおなかすみひめ)らの強い説得と大臣たちの哀願を受け、彼はようやく即位を承諾します。

このとき、新羅から派遣された名医である金 波鎮漢紀 武(こむ はちむかむき む)の治療を受けたことで、長年彼を苦しめていた足の病が劇的に完治したという伝承が伝えられています。
※めちゃくちゃ長い名前ですが、姓が金(きん)で名が武(ぶ)、間にある波鎮漢紀(はちむかんき)は官職だとされ、単に金武(こむむ/きんぶ)とも。

この病苦を克服した経験は、彼に慎み深い謙虚さと、現実の課題に冷徹に対処する強い精神力を与えることとなるのでした。

 

道義にもとる皇太子を廃し、国家の規律を維持

人となりは公正かつ誠実でありましたが、国家の綱紀や秩序を乱す行為に対しては、肉親であっても容赦のない厳しい処分を下す冷徹さを持っていました。

それを象徴するのが、第一皇子であり皇太子に立てていた木梨軽皇子(きなしのかるのおうじ)の醜聞に対する処置でしょう。

木梨軽皇子は、同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)と禁忌とされる情交(近親相姦)に及んだとされています。この倫理に反する不祥事が発覚すると、允恭天皇は朝廷の格調と法を維持するため、深く愛していたはずの皇太子を直ちに廃嫡し、即位の資格を剥奪するのでした。

皇室内部の醜聞に対しても忖度することなく、国家の規律を最優先させたこの決断は、允恭天皇という君主の厳格な人物像を浮き彫りにしています。

 

盟神探湯による氏姓改革と和王:済の国際外交

允恭天皇治世における歴史的な事績は、古代日本の身分秩序を根本から正した盟神探湯(くかたち)の実施と、中国史書に見える和の五王:済としての東アジア外交の展開にあります。

 

“盟神探湯”による氏姓秩序の維持

ヤマト王権の拡大に伴い、多くの豪族や民衆が自らの家柄を高く偽り、勝手に高貴な氏や姓を名乗る事態が横行していたと言います。これにより、税の徴収や公事の割り振りが著しく混乱し、国家の統治基盤が揺らぐ危機に直面していました。

そこで允恭天皇4年、天皇は諸氏族を飛鳥の甘樫丘(あまかしのおか)に集め、日本史上で最も有名な古代の神判である盟神探湯(くかたち)を決行しました。

盟神探湯とは…
神々に誓いを立てた後、沸き滾る熱湯の中に直接手を入れさせ、「正しい者は火傷せず、嘘偽りがある者は手が焼け爛れる」という過酷きわまる神意裁判です。

允恭天皇が甘樫丘に沸き立つ釜を並べ、過酷な神判を行うことを天下に布告したところ、偽りの氏姓を名乗っていた者たちは恐れをなして逃亡し、あるいは自首して実態を明かしました。

この施策により、乱れていた古代の氏姓秩序は一挙に正され、中央集権的な身分制度が確立されることになるのでした。

 

和王:済に治定される宋との王号外交

第二の功績は、中国の南朝(宋)に対する王号外交であります。

中国の史書『宋書』倭国伝に記された「和の五王(讃・珍・済・興・武)」のうち、和王:済(さい)が允恭天皇に比定されています。

倭王:済は、443年および451年に宋へ使節を派遣し、宋の皇帝から「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」の詔号を授与されたとされています。

朝鮮半島における外交的・軍事的主導権を背景に、国際社会において日本の地位を確固たるものとした功績は、彼の中央集権化政策と並ぶ巨大な実績と言えるのではないでしょうか。

 

允恭天皇治世の時代背景

允恭天皇が在位した5世紀前半から半ばにかけての時代は、河内平野を中心に巨大な前方後円墳が造営され、大王の権力が拡大していた時期とされています。

しかし同時に、大和や河内の有力豪族たちが私的な財力や軍事力を蓄え、身分や血統の詐称が社会問題化するなど、王権の威信を保つための制度改革が急務とされており、それが先述の盟神探湯による氏姓改革に繋がった元の思われます。

政治的拠点として、允恭天皇は都を遠飛鳥宮(とおつあすかのもや、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥周辺)に置くのですが、実は飛鳥の地に宮殿を営んだ初期の大王であり、後の飛鳥時代の政治的・文化的中心地となる礎を築いたのも允恭天皇の時代でした。

また、宮廷における風流な文化エピソードも残されています。皇后である忍坂大中姫の妹にあたる衣通姫(そとおしのひめ / 軽大娘皇女とは別人とされる)は、その美しさが衣を通して光り輝くほどであったと伝えられ、允恭天皇は彼女を深く寵愛しました。

皇后の嫉妬を避けるため、天皇は茅渟宮(ちぬのみや、現在の大阪府泉佐野市周辺)に衣通姫を住まわせ、頻繁に行幸を行いました。

 

允恭天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

允恭天皇を取り巻く人間関係は、父・仁徳天皇から受け継いだ血統、皇后・忍坂大中姫との婚姻、皇位継承を巡る皇子たちの激しい相克、ならびに朝廷を支えた古代豪族たちとの関係によって形作られていました。

 

皇室内部の血縁関係

父は仁德天皇御母は磐之媛(いわのひめ)です。同母兄の第17代:履中天皇および第18代:反正天皇の崩御を受け、弟である允恭天皇へ皇位が巡ってきました。

皇后には稚野毛二派皇子の女である忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を迎えました。忍坂大中姫は、病に倒れ即位をためらう夫を陰から激励し、政権の成立を支えた力強い女性でありました。

しかし、二人の間に生まれた子供たちの代になると、凄惨な身内同士の権力闘争が勃発することになります。

第一皇子である木梨軽皇子は、前述の通り同母妹・軽大娘皇女との密通によって求心力を完全に失い、允恭天皇の崩御後に同母弟の穴穂皇子(後の安康天皇)の追撃を受けて討たれるか、自害へと追い込まれました。

さらに、その下の弟である大泊瀬幼武尊(後の雄略天皇)は、兄たちの死後に圧倒的な武力をもって他の皇族や豪族を粛清し、独裁的な権力を握ることとなりました。

武内宿禰との強い関係性

豪族との関係においては、大和盆地に確固たる基盤を持つ葛城氏(葛城襲津彦ら)や、軍事を司る物部氏、大伴氏が朝廷の中枢を支えました。

また、允恭天皇の本名である雄朝津間稚子宿禰尊の”宿禰”という称号に注目する史観においては、伝説的重臣・武内宿禰を祖とする竹内一族(葛城氏・蘇我氏・巨勢氏・平群氏など)との血縁的・政治的結びつきが極めて密接であったと分析されています。

過剰な豪族の専権を抑え、盟神探湯によって彼らの身分を再編した允恭天皇の姿勢は、王権の絶対的な威厳を確立するための執念の表れでありました。

 

允恭天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
本   名 雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさつまわかごのすくねのみこ)
御   父 仁德天皇(にんとくてんのう)
御   母 磐之媛(いわのひめ)
御 陵 名 惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)
陵   形 前方後円墳
所 在 地 大阪府藤井寺市惣社1丁目
交通機関等 近鉄 土師ノ里駅から徒歩約7分
御在位期間 412年~453年

允恭天皇が眠る惠我長野北陵(市ノ山古墳)は、大阪府の世界遺産である古市古墳群の北部に位置する、全長約230メートルの壮大な前方後円墳です。

駅からのアクセスも良く、線路のすぐ近くにありながら、一歩御陵の敷地に足を踏み入れると、美しく手入れされた周濠(お堀)と、豊かな水を湛えた水面、そしてこんもりと茂る拝所の緑が圧倒的な静寂を作り出しています。

ちなみにかつては二重のお堀を持っていたことが分かっており、周囲からは精巧な円筒埴輪や形象埴輪が多数出土しています。

新羅の医師によって病を癒やされ、甘樫丘の熱湯によって天下の嘘を正した大王は、自らの息子たちが引き起こす激動の未来を予感しながら、今も静かに眠り続けています。

参拝を終え、来た道を戻ります

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