今からおよそ1300年ほど前、和銅5年(712年)───。
我が国で最古の書物である『古事記』が太安万侶によって編纂されます。
その冒頭に添えられた「序文」には、のちに2600年以上も続くことになる国家の誕生と、その成熟に至るまでの壮大な物語が描かれています。
ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時を生きた人たちが見たであろう景色に想い馳せる旅。
今回は、みささぎめぐりの番外編。
太安万侶が記した古事記の序文にフォーカスをあて、古代日本を形作った4つの大偉業について考察していきます。
ぜひ陵墓の静寂に身を置き、先人たちの息遣いに耳を澄ませながら、この国の骨組みが創り上げられていくロマンを感じていただければ幸いです。
【宗教・行政の始まり】崇神天皇: 祭祀を整え、人口を把握

──崇神天皇が挑んだ国難
太安万侶が、古事記の序文で最初にスポットを当てるのが、第10代:御間城天皇(みまきのすめらみこと/崇神天皇)の祭祀です。
【関連記事】第10代:崇神天皇 〜国家の礎を築いた”ハツクニシラススメラミコト”
神を敬い国を妥(やす)んじ、武功不振(ふる)わず。戸口(ここう)を察(み)て以て富庶(ふしょ)にす。
則ち初国の御真木天皇(崇神天皇)なり。
記紀が伝える崇神天皇の始まりは、決して輝かしいものではありませんでした。
当時の日本列島を襲った未知の疫病により、人口の半数が失われ、国全体が死の静寂と恐怖に包まれるという、未曾有の国難からこの物語は始まります。
この底知れぬ危機に対し、ミマキイリビコイニエこと崇神天皇は「目に見えない精神世界」と「目に見える現実の経済」の両方へ、大胆な楔を打ち込んだのでした。
祭祀と内政を整備し、国家統治の礎をつくる

第一に断行したのは、祭祀の整備による宗教的平穏の回復です。
それまで宮中に共に祀られていた、天照大御神などの神々の神威に恐れおののき、これらを宮外へと遷座させたとされています。
そして、土着の強力な荒ぶる神である大物主神を、その子孫であるオオタタネコに正しく祀らせることで神の祟りを鎮め、祭祀を通して社会の精神的平穏を取り戻そうとしたのでした。
次に崇神天皇は、初の戸口調査と課税を創始し、行政システムの構築に着手します。混乱の極みにある中で敢えて人口や財産を冷徹に把握し、男には狩猟の獲物、女には手織りの布を税として納めさせることで、国家統治の礎を築いたのでした。
これらの業績を持って、崇神天皇は御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト):初めて国を統治した天皇、の称号を得ることになりました。
【土地・領域の区分】成務天皇: 国境を画定し、地方官を置く

──成務天皇と武内宿禰のフロンティア・スピリット
古代日本では、ヤマト王権の勢力圏が広がるにつれ、どこまでが支配地なのか?誰がその土地を管理するのか?という境界の曖昧さが、次なる火種となっていたと思われます。
この課題に挑んだのが、第13代:近淡海天皇(ちかつおうみのすめらみこと/成務天皇)です。
【関連記事】第13代:成務天皇 〜国と郡の「境界線」を引いた行政の先駆者
境を定め地を分かち、邦(くに)を建て邑(むら)を置く。
則ち近淡海之若帯日子天皇(成務天皇)なり。
当時の日本列島は、各地の豪族が独自の縄張りを持ち、その境界線は霧の彼方のように曖昧だったと想像されます。土地の管轄を巡る血なまぐさい争いや揉め事も少なくなかったのでしょう。
そこで、ワカタラシヒコ大王こと成務天皇は、伝説的な名臣・武内宿禰を最初の棟梁ノ臣に任じ、前例のない巨大プロジェクトに乗り出したのでした。
地方行政区画を整備し、地方官として国造や県主を任命

成務天皇は、まず全国の山河や道の要衝を基準にして、明確な国や県という境界線を引いていったと言います。
そして、その行政単位ごとに、中央が公認する地方官として国造(くにのみやつこ)や県主(あがなたぬし)を任命していきました。
その結果として”人民は安住し、天下太平であった” と伝わっています。
のちの時代に淡海三船が送った「成務」の漢風諡号。文字通り偉大な仕事を成し遂げられたのが成務天皇だったのかもしれません。
【政治倫理と経済の確立】仁徳天皇: 税を免じ、民に職を与える

──仁徳天皇が仕掛けた古代のケインズ経済学?
国家としての制度や土地の区画の基礎が見えてきたヤマト王権。次に必要とされたのは、支配者側の政治倫理と、民からの信頼でした。
安万侶が挙げるのは、第16代:難波天皇(なにわのおおさざきのすめらみこと/仁徳天皇)の善政。世にいう「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれることになるエピソードです。
【関連記事】第16代:仁徳天皇 〜民を慈しんだ「聖帝」と世界最大の墳墓
百姓(ひゃくしょう)の太(はなは)だ苦(とも)しきを見て、三載(さんねん)の課役(かえき)を免じ、朝煙(ちょうえん)の御賑を使いむ。
則ち難波之大鷦鷯天皇(仁徳天皇)なり。
当時は大規模な土木工事や宮殿造営が続き、さらに冷害などの飢饉が重なって民の労働負担は限界に達していました。
ある日、オオサザキ大王こと仁徳天皇が、高台から国を見渡したとき…民の家々の竈(かまど)から、夕餉を調理する煙がまったく上がっていないことに気づきます。
租税と労役の免除

民の困窮を察した仁徳天皇は、即座に3年間、全ての租税と労役を完全に免除するという驚くべき詔を発しました。
またその免税期間中、天皇の宮殿は雨漏りがしても修理せず、衣食を切り詰めて質素倹約に徹したと伝わっています。
冷たい雨が滴る部屋で耐え忍び、3年後、再び高台から豊かに立ち上る炊飯の煙を見た天皇は、「民の富みこそが、私の富だ」と深く喜んだといいます。
【社会組織の再編】允恭天皇: 氏姓の偽りを正し、序列を定める

──允恭天皇が盟神探湯で挑んだ、氏姓改革
国家の祭祀・政治基盤、土地、民の心…が揃い、最後に残された大きな課題は、中央で政治を司る支配層(豪族たち)の組織構造をどう整理するかでした。
ここに切り込んだとされるのが、第19代:遠飛鳥天皇(とおつあすかのすめらみこと/允恭天皇)です。
【関連記事】第19代:允恭天皇 〜氏姓の混乱を正し、国際舞台に立った和王「済」
氏姓(うじかばね)を正し、盟神(くかたち)を探(み)す。
則ち遠飛鳥之雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)なり。
古代の世襲制社会において、身分や特権を決定づける氏(うじ)や姓(かばね)は血よりも重いものでした。
しかし、長年の間に、自らの特権を不当に拡大しようと、系図を偽造したり、上位の氏姓を勝手に名乗ったりする不正が横行し、中央の秩序は混乱を極めていました。
盟神探湯による氏姓改革

オアサツマワカゴノスクネこと允恭天皇は、この偽りを正すため、古代の神判である「盟神探湯(くかたち)」の導入という強硬手段に出ます。
盟神探湯とは、煮えたぎる熱湯の釜を据え、「氏姓に偽りがなければ火傷をせず、偽りがあれば手が焼けただれる」と告げ、豪族たちに湯中の石を拾わせる占いの一種。
現代の感覚からするとズルし放題?のようにも見える手法ですが、この施策により悪質な偽造者は恐怖して逃げ出し、あるいは正直に白状したとされているようです。
【エピローグ】パズルが完成する時 ──旅の終わりに御陵の前で
古事記の序文において、太安万侶がこれら4つの治世をあえて並べ立てた背景には、どのような想いがあったのでしょうか。こうしてアジェンダを切り直してみると、ひとつの非常に美しい「国家の成長ストーリー」が浮かび上がってきます。
- 崇神天皇: 祭祀を整え、人口を把握した 【宗教・行政の始まり】
- 成務天皇: 国境を画定し、地方官を置いた 【土地・領域の区分】
- 仁徳天皇: 税を免じ、民に職を与えた 【政治倫理と経済の確立】
- 允恭天皇: 氏姓の偽りを正し、序列を定めた 【社会組織の再編】
神武天皇の建国という大前提から始まり、「宗教・土地・民・組織」という国家に必要なピースが、代を重ねるごとにパズルのように組み合わさっていく。
そして、それら全ての要素を受け継ぎ、究極の律令国家(完成形)へと集大成したのが、古事記の発案者である天武天皇なのだ── 。安万侶はそんな壮大な歴史観を、この序文のわずかな行間に滑り込ませたかったのかもしれません。
もちろん、これらは『古事記』という書物が語るひとつの「物語」であり、歴史の真実はもっと複雑で、別のグラデーションがあったはずです。
しかし、1300年前の先人たちが「我が国はこうして作られてきたのだ」と信じ、あるいはそう信じさせようとした情熱の跡を、この短い序文から想像することこそが、古代史の尽きない魅力なのです。
いま、目の前にある静寂な御陵。その前に立ち、かつてこの国をゼロから立ち上げようと命を燃やした王たちの、壮大な「プロジェクトX」に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
