第52代:嵯峨天皇 〜平安の文化を絢爛に花開かせた、”三筆”のカリスマ

第51-75代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、平安時代の初期において、崩壊しかけていた律令国家の体制を劇的に立て直し、洗練された「王朝文化」の確固たる礎を築いた、第52代:嵯峨(さが)天皇をご紹介します。

嵯峨天皇の人物像・エピソード

嵯峨天皇は、平安京への遷都を断行した桓武天皇の第二皇子として誕生しました。本名を神野親王(かみのしんのう)といいます。

母は藤原北家の出身である藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)です。神野親王は、父である桓武天皇が新しい国家体制の構築に邁進する姿を見ながら、帝王学や学問を深く修めて成長しました。

その性格は非常に知的で洗練されており、政治的な手腕だけでなく、文化人としての類まれなる才能にも恵まれていたと伝わります。

 

書の達人”三筆”(空海・橘逸勢・嵯峨天皇)のひとりに

特に書道においては、空海、橘逸勢と並んで「三筆」の一人に数えられるほどの達人でした。

『合類節用集』にはも本朝三筆として「嵯峨帝、橘逸勢、釈空海」が挙げられています。

天皇自身が筆を執った『光定戒牒(こうじょうかいちょう)』などの書は、力強くも流麗な唐風の書体として今日まで高く評価されており、現在は滋賀県・延暦寺が所蔵する国宝に指定されています。

また、漢詩文にも深く傾倒し、日本初の勅撰漢詩集である『凌雲集(りょううんしゅう)』や『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』の編纂を自ら命じるなど、日本の文学史の形成において極めて重要な役割を果たしました。

真言密教をもたらした空海を深く信頼し、東寺(教王護国寺)を託してその活動を支援したことでも知られています。

 

仏教の殺生禁断思想に基づく死刑執行の停止

嵯峨天皇の人となりを示すもう一つの重要な側面は、その寛容さと人命を重んじる姿勢です。天皇は治世中に死刑の執行を実質的に停止しました。

これは仏教の殺生禁断の思想に基づく決断であり、以降、保元の乱(1156年)に至るまでの約340年間にわたって、日本において死刑が公的に執行されないという世界史的にも稀有な時代を築く端緒となりました。

高い教養と慈悲の心を持ち合わせた彼は、武力ではなく文化と法体系によって国家を治めることを目指したのです。

 

「蔵人所」と「検非違使」設置による天皇親政の確立

嵯峨天皇の政治的功績の中で最も特筆すべきは、蔵人所(くろうどどころ)および検非違使(けびいし)の設置による国家機構の再編と、天皇親政の確立です。

即位当初、嵯峨天皇は病に倒れた兄・平城天皇から皇位を譲られる形で玉座に就きましたが、のちに健康を回復した平城上皇が再び権力を掌握しようと目論み、旧都である平城京への遷都を突如として宣言するという事態が発生します。

これが歴史に名高い「薬子の変(平城太上天皇の変)」です。

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天皇の首席秘書官?事務方のトップ:蔵人頭

二つの都に二人の主権者、という国家分裂の危機に直面した嵯峨天皇は、迅速かつ果断に行動しますが、この未曾有の危機にもかかわらず、深刻な問題に直面します。

それは既存の太政官機構では、大臣たちが天皇の意向通りに素早く動いてくれないというものでした。

手続きがあまりにも煩雑で、有力貴族の思惑が絡む太政官の正規ルートを通していては、緊急事態に対応できなかったのです。

そこで天皇は810年、天皇の命令を直接かつ機密裏に伝達し、迅速に実行に移すための直属の秘書機関として「蔵人所」を新設しました。

蔵人所の長官である蔵人頭(くろうどのとう)には、深く信頼を寄せていた藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命しました。

蔵人所(=直属の部隊)を創設したことで、日常の細事から国家の重大事に至るまで天皇の命令系統は飛躍的に強化されることになります。

この組織改編は、平城上皇側を迅速に制圧する上で決定的な役割を果たし、以後の平安時代を通じて天皇の権力を支える最重要機関として定着していくことになるのでした。

 

都の治安維持・警察・裁判を担う:検非違使

さらに天皇は、平安京の治安維持と都市民衆の保護を目的として「検非違使(けびいし)」を設置しました。

それまでの警察・司法機構では対応しきれなかった都市特有の犯罪や紛争に対して、迅速に裁判と刑罰を行う強力な権限を持たせたのです。

蔵人所と検非違使という令外官(りょうげのかん・律令の規定にない新設の役職)を創設し効果的に運用することで、嵯峨天皇は律令制の枠組みを実態に合わせて改変し、天皇主導の強力な政治体制を完成させることに成功します。

 

嵯峨天皇治世の時代背景

嵯峨天皇が治めた弘仁年間は、平安京が名実ともに日本の政治・文化の中心として成熟していく時代でした。

桓武天皇による遷都の熱気と、それに続く平城上皇との政治闘争の余波が収束すると、国内には比較的平穏な時間が訪れます。

時代に花開いた文化はのちに「弘仁・貞観文化」と呼ばれ、唐風の重厚で華やかな様式を特徴とする文化を形成していくのでした。

 

唐風化の奨励と、喫茶文化の芽生え

嵯峨天皇は唐の文化を深く愛好し、宮廷の儀式や服制、法令に至るまで、あらゆる面で唐風化を奨励しました。

また、法体系の整備にも力を注ぎ、『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』の編纂を命じ、複雑化していた律令の規定が実情に合わせて整理・分類され、法治国家としての基盤が強化されました。

天皇の個人的な生活において新しい文化の受容を示す代表的なものが「喫茶」の習慣です。

『日本後紀』の記録によれば、815年に天皇が近江国の梵釈寺を行幸した際、唐から帰国した僧の永忠(えいちゅう)が自ら茶を煎じて献上したとされています。

これが日本における喫茶の最古の記録であり、天皇はこれを大変喜び、畿内や近江などの諸国に茶の栽培を命じました。今日につながる日本のお茶文化は、この時代に宮廷の優雅な嗜みとして芽吹いたのです。

 

洛西・嵯峨野の地に嵯峨御所を造営する

天皇のゆかりの地として最も有名なのが、京都の洛西に位置する嵯峨野です。

天皇はこの美しい自然に囲まれた風光明媚な地を深く愛し、広大な離宮である嵯峨御所を営みました。譲位後に天暮らしたこの御所は、のちに空海の勧めもあって寺院へと改められ、現在の旧嵯峨御所大本山大覚寺となっています。

大覚寺の東に広がる大沢池は、嵯峨天皇が中国の洞庭湖を模して造らせた日本最古の人工の林泉とされ、天皇が思い描いた優雅な理想郷の姿を今に伝えています。

 

嵯峨天皇と関連氏族・敵対勢力

嵯峨天皇の治世において最大の対立関係となったのは、実の兄である平城上皇と、その側近であった藤原薬子(ふじわらのくすこ)、および薬子の兄である藤原仲成の勢力でした。

 

藤原薬子・平城上皇との対立と藤原薬子

平城上皇は当初、病弱を理由に弟の神野親王(=嵯峨天皇)に譲位しましたが、平城京に移って健康を取り戻すと、薬子らの強い働きかけもあって再び政治の実権を奪還しようとしました。

上皇が平安京を廃して平城京へ都を戻すという詔を発したことで、両者の対立は決定的となります。

嵯峨天皇は迅速に行動し、坂上田村麻呂や文室綿麻呂といった武勇に優れた将軍たちを派遣して、上皇派の軍事的な動きを完全に封じ込めました。

結果として藤原仲成は処刑され、藤原薬子は自害、平城上皇は出家して事実上の幽閉状態となりました。この身内同士の凄惨な対立を制したことで、嵯峨天皇の王権は絶対的なものとなりました。

 

初代:蔵人頭の任命と藤原北家台頭の芽生え

一方で、嵯峨天皇を強固に支えたのが、藤原北家の藤原冬嗣らです。冬嗣は初代の蔵人頭として天皇の側近中の側近となり、その後の藤原北家による摂関政治の基礎を築くことになります。

また、嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子(たちばなのかちこ・檀林皇后)は、たぐいまれな美貌と深い仏教への帰依で知られ、天皇との間に強い信頼関係を築きました。彼女は橘氏の出身として朝廷内で発言力を持ち、のちに禅宗などの仏教の発展に大きく貢献しました。

 

50人におよぶ子女をもうけ「嵯峨源氏」の祖となる

嵯峨天皇には数多くの皇子・皇女がおり、その数は50人にも及んだと言われています。

国家財政への負担を軽減するため、天皇は多くの皇子や皇女を臣籍降下させ、「源(みなもと)」の姓を与えました。彼らは「嵯峨源氏」と呼ばれ、宮廷社会において一大勢力を形成しました。

その代表格である源融(みなもとのとおる)は、左大臣にまで昇り詰め、『源氏物語』の主人公である光源氏のモデルの一人になったとも言われています。

 

嵯峨天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 嵯峨天皇(さがてんのう)
本   名 神野親王(かみのしんのう)
御   父 桓武天皇(かんむてんのう)
御   母 藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)
御 陵 名 嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町
交通機関等 JR 嵯峨嵐山駅から徒歩約30分
御在位期間 809年~823年

 

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