ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、平安時代前期に文化的成熟の頂点を極めながらも、承和の変という大きな政争の波に呑まれた第54代:仁明天皇(にんみょうてんのう)の物語に入り込んでいきます。
洗練された宮廷文化を愛し、次代の政治体制への大きな転換点となった天皇の生涯と、その足跡をゆかりの地とともに辿ります。
仁明天皇の人物像・エピソード

京阪電車、藤森駅の南側には仁明天皇陵と深草十二帝御陵を案内する石碑がありました
仁明天皇は、平安京遷都を主導した桓武天皇の孫にあたり、嵯峨天皇の第二皇子として誕生し、正良親王(まさらしんのう)と名付けられました。
母は、橘氏の出身であり、のちに檀林皇后と呼ばれて仏教に深く帰依した橘嘉智子です。
正良親王は幼い頃から聡明で、文学や歴史、音楽に通じた教養豊かな人物として育ちました。父である嵯峨天皇の洗練された文化的素養を色濃く受け継いでおり、宮廷人としての優雅な立ち振る舞いや知性は、周囲の貴族たちから高く評価されていました。
儒教的で親孝行な性格だった?

御陵近くの石碑。コンクリートが敷かれた際に少し埋もれてしまうのを見かけるのは御陵めぐりあるあるかも知れません。
彼の性格を語る上で欠かせないのが、両親に対する極めて深い孝心の念です。天皇に即位した後も、父である嵯峨上皇と母である橘嘉智子に対する礼儀を生涯にわたって尽くし続けました。
政治的な決定においても両親の意向を最大限に尊重し、二人が存命の間は自らの我を押し通すことを避けるという、実直で穏やかな姿勢を貫きました。
この深い孝心は、儒教的な理想の君主像とも重なり、当時の社会において天皇の徳の高さを証明するものと見なされていました。
地方制度の改正と承和の楽制改革

仁明天皇が取り組んだ国政の刷新として、弛緩しつつあった律令国家の統治機構を実務的に再編した、地方制度の改正が挙げられます。
当時は、墾田永年私財法の導入から年月が経ち、貴族や有力寺社による大規模な私領である初期荘園の拡大が進んでいました。
これにより、国家の財政基盤である公地公民制や班田収授の仕組みが根本から揺らぎ、地方の国司による過酷な徴税や不正が横行して農民の困窮が深刻化していたのでした。
地方制度を改革し、公営田を設置

これに対し、朝廷は地方政治の緩みを正すため、地方官である国司の業績評価をきびしく審査する制度を強化し、官人の不正取締りを徹底しました。
さらに、承和10年(843年)には大宰府管内に公営田(くえいでん)を設置します。
これは、国家が直接経営する直営田であり、地方の土地を国が直接耕作させることで、国境の防備費用や地方行政の財源を確実に確保しようとする経済改革でした。
これらの農政改革は、律令制の完全な崩壊を食い止め、平安初期の国家財政を維持するための多大な実績となりました。
承和の楽制改革を主導し、日本雅楽の礎を築く

また、文化的な面でも素晴らしい事績をあげています。仁明天皇は、宮廷の儀式や作法の先例を取りまとめた『内裏式(だいりしき)』の編纂を主導し、朝廷における有職故実の基礎を確立しました。
さらに、音楽を深く愛した天皇自らが取り組み、歴史的な金字塔となったのが、雅楽における「承和の楽制改革」です。
それまで、唐や朝鮮半島、ベトナムなどから雑多にもたらされていた古代の渡来音楽を体系的に整理し、楽器の編成や楽曲の調弦を日本独自の美意識に合わせて再構築したのでした。
この改革によって、現代にまで途切れることなく伝承されている「雅楽」の標準的な形式が完成します。
制度改革から高度な文化の体系化にいたるまで、天皇自らが深く関与し、実務と芸術の両面において卓越した足跡を残した帝であったのです。
仁明天皇治世の時代背景

仁明天皇が国を治めた9世紀前半から中期(833年〜850年)の平安京は、政治的・文化的な大きな変革の過渡期に位置していました。
歴史的には弘仁・承和文化の全盛期にあたります。
それまでの中国の模倣から脱却し、日本の風土や日本人の感性に適合した独自の洗練された王朝文化が花開いた時代と言っても良い時代だったのでした。
唐の衰退と国風文化の醸成

承和5年(838年)には、実質的に最後となる遣唐使が派遣され、これには後の仏教界に多大な影響を与える僧・円仁らが同行しました。
大陸の最新の知識や仏教経典がもたらされる一方で、唐の衰退を背景に、日本国内では自立的な国風文化の醸成が進んでいきます。しかし、その華やかな宮廷文化の裏側では、平安時代中後期を支配することになる摂関政治の足音が確実に近づいていました。
嵯峨上皇と淳和上皇という二人の強力な先代が並び立つ二所朝廷の微妙な権力バランスのもとで仁明天皇は即位しましたが、上皇たちの崩御によってその均衡は崩れ、藤原北家が他氏を圧倒していく政治構造へと移行していきました。
このような緊迫した時代背景の中で、仁明天皇は私生活において音楽と漢詩の創作に深い慰めを見出していたと言います。特に雅楽への傾倒は深く、自ら新曲を作曲し、宮中の清涼殿で夜を徹して管弦の遊びに興じることが最大の趣味だったのかも知れません。
仁明天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

仁明天皇を取り巻く一族や諸勢力との関係性は、まさに藤原氏が天皇家を包み込んで権力を独占していく歴史の縮図そのものでした。
母方:橘氏の後ろ楯と藤原北家からの入内
仁明天皇の母である橘嘉智子は名門である橘氏の出身であり、彼女の存在によって橘氏は一時期、朝廷内で絶大な発言権を有していました。
しかし、仁明天皇の宮廷には、藤原北家の実力者である藤原冬嗣の娘・順子(のぶこ)が女御として入内しており、彼女の存在がのちの勢力図を大きく変えることになっていきます。
藤原北家大繁栄の礎を築いた藤原良房

仁明天皇と藤原順子との間に生まれた道康親王を、次期の大王として押し上げようと画策したのが、順子の兄である右大臣・藤原良房でした。良房は藤原冬嗣の次男、つまり藤原北家の血を引く人物です。
良房は、仁明天皇の強力な政治的パートナーであると同時に、王権の周辺から対立勢力を徹底的に排除しようとする冷徹な権臣でした。
良房にとっての最大の敵対勢力は、淳和上皇の皇子であり、伝統的な皇位継承順位に従って皇太子に立てられていた恒貞親王と、それを支える古豪の伴氏や橘氏でした。
前述の承和の変において、良房は恒貞親王の派閥が謀反を企てているという密告を利用し、伴氏や橘氏の有力者を一網打尽に排斥しました。
この政変ののち、恒貞親王は廃太子となり、仁明天皇の皇子である道康親王が皇太子に据えられます。また良房は、皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた(清和天皇の治世)人物となります。
藤原北家が天皇の外祖父となり、摂関政治へ

この結果、仁明天皇の治世は、伴氏や橘氏といった大化の改新以来の伝統豪族が中央政界から完全に駆逐され、藤原北家が外戚としての地位を不動のものにすることになります。
いわゆる摂関政治がスタートすることになるのでした。
仁明天皇自身は、母の一族である橘氏の衰退を目の当たりにしながらも、自身の直系に皇統を伝えるために藤原良房の権勢を受け入れざるを得ず、きわめて複雑な協調と緊張の関係性を維持し続けました。
仁明天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 仁明天皇(にんみょうてんのう) |
| 本 名 | 正良親王(まさらしんのう) 日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと) ※和風諡号を奉贈された最後の天皇 |
| 御 父 | 嵯峨天皇(さがてんのう) |
| 御 母 | 橘 嘉智子(たちばな の かちこ) 檀林皇后(だんりんこうごう)とも |
| 御 陵 名 | 深草陵(ふかくさのみささぎ) |
| 陵 形 | 方丘形 |
| 所 在 地 | 京都府京都市伏見区深草東伊達町 |
| 交通機関等 | 京阪 藤森駅から徒歩約17分 |
| 御在位期間 | 833年~850年 |
