ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、摂政や関白を置かずに自ら政務を執り、延喜の治と呼ばれる平安の黄金期を築き上げながらも、右大臣・菅原道真の左遷とそれに伴う怨霊伝説に苦悩し続けた第60代:醍醐天皇(だいごてんのう)の御生涯をご紹介します。
王朝文化が華やかに開花した陰で、国家の栄華と内に抱えた孤独の狭間を静かに駆け抜けた帝の足跡を、ともに辿ってみましょう。
醍醐天皇の人物像・エピソード

醍醐天皇は、敦仁(あつひと)と名付けられました。
誕生した当時は父である宇多天皇がまだ臣籍に降っていた時期であったため、当初は源維城(みなもとのこれざね)をの名乗っていました。母は藤原北家の血を引く藤原 胤子です。
後に父が皇族へと復帰して即位したことに伴い、親王宣下を受けて敦仁親王となります。897年(寛平9年)にわずか13歳で第60代天皇として即位しました。
臣籍の身分として生まれ、即位した唯一の天皇

天皇の慈悲深い人柄を象徴する有名なエピソードとして、厳しい冬の寒夜における出来事が知られています。
ある極寒の夜、醍醐天皇は自ら宮中で着用していた衣服を脱ぎ捨てて身を震わせました。側近がその理由を尋ねると、「自分自身が寒さを体感することで、今夜の衣服に乏しい民衆がどれほど凍えているかを知り、その苦しみを分かち合いたいのだ」と答えたと伝えられています。
国家の君主として、民の生活へ絶えず視線を向けていた姿勢が窺える逸話です。
菅原道真を排した昌泰の変と清涼殿落雷事件

一方で、醍醐天皇の生涯を決定づけることになるエピソードが、学者出身の政治家であった右大臣・菅原道真との関係と昌泰の変です。
父である宇多上皇の遺志を継ぎ、醍醐天皇は道真と左大臣・藤原時平の双方を重用して政務を進めましたが、901年(昌泰4年)、時平から「道真が醍醐天皇を廃位し、自身の娘婿である斉世親王を皇位に就けようと企んでいる」という讒言を受けます。
これを信じた天皇は道真を大宰権帥へと降格し、太宰府へ左遷してしまいます。そして道真が過酷な配流先で没した後、宮中では次々と不可解な災厄が続出することになります。
時平の急死に端を発し、皇太子の保明親王やその子・慶頼王の相次ぐ早世、そして930年(延長8年)には宮中の清涼殿へ落雷が直撃し、側近たちが即死するという清涼殿落雷事件が発生しました。
これら一連の惨劇を道真の怨霊による祟りと恐れた醍醐天皇は、極度の精神的ショックを受けます。さらに急激に病状を悪化させて同年のうちに崩御することになるのでした。
“延喜の治”による親政と”古今和歌集”の編纂

醍醐天皇最大の功績は、摂政や関白を置かずに自ら政治を執り行う親政を徹底し、後に延喜の治と称えられる理想的な政治体制を打ち立てたこと、そして『古今和歌集』の編纂を通じて日本独自の国風文化を完成させた点にあります。
ちなみに…建武の新政で知られる後醍醐天皇は、醍醐天皇の治世をモデルに天皇親政の政治を目指し、みずから”後醍醐”を名乗ったとされています。
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延喜格式の編纂による国家体制の引き締め

父・宇多天皇の「寛平の治」の精神を継承した醍醐天皇は、藤原氏への権力集中を警戒し、関白を置かずに自ら政治を行います。
902年(延喜2年)には、日本史上初となる本格的な延喜の荘園整理令を発布しました。
当時、貴族や寺社による土地の私有化が進み、公地公民制に基づく律令体制が形骸化しつつありました。醍醐天皇は不法に拡大した荘園の不実を調査して没収し、国家財政の再建と農民支配の適正化を図りました。
また、国家の法体系を整備するために『延喜式』および『延喜格』の編纂を命じました。これにより律令の施行細則が網羅され、平安時代における格式制度の基礎が確実に構築されました。
これらの治績は、後に村上帝の「天暦の治」とともに「延喜・天暦の治」と並び称され、後世の公家社会において天皇親政の模範と仰がれることとなりました。
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日本で最初となる勅撰和歌集:『古今和歌集』の編纂

文化面における決定的な業績が、905年(延喜5年)に下された『古今和歌集』の編纂です。
醍醐天皇は紀貫之、紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らの優れた歌人に命じ、日本で最初となる勅撰和歌集を編纂させました。
それまで中国の漢詩文が重視されていた風潮に対し、日本の固有の言語である和歌を国家的文学として位置づけたこの試みは、優美で繊細な国風文化の成立を決定づけたのでした。
さらに貨幣経済の維持を目指し、皇朝十二銭の最後となる「乾元大宝」の鋳造を指示するなど、政治・文化・経済のあらゆる側面において国家の基盤を確固たるものに整えました。
醍醐天皇治世の時代背景

醍醐天皇が治めた897年から930年という時期は、古代の律令国家の仕組みが限界を迎え、中世的な王朝国家の体制へと移行していく時代でした。
地方においては、公地公民制の衰退に伴って田務を請け負う開発領主や地方豪族が台頭し、後に平将門の乱や藤原純友の乱(承平・天慶の乱)へとつながる社会的な動蕩の芽が静かに育ちつつあったものの、首都である平安京では、外圧の脅威が和らぎ、独自の王朝文化が成熟を極めた平和と栄華の時代でもあったのです。
醍醐天皇自身の関心や趣味は、和歌の詠作、漢学の探求、管弦の演奏、そして宮中での歌合(うたあわせ)の主催に向けられていました。
自らも優れた歌人であり、宮中に公卿や歌人を集めて頻繁に和歌の会を催し、風雅な宴を楽しんだと伝えられています。
食生活や日常の暮らしにおいては、洗練された宮中の御膳や季節の旬の味覚を嗜む一方で、豪華主義に流されることなく、古代以来の宮中儀礼や年中行事の伝統的な作法を厳格に重んじました。
醍醐寺への薬師堂建立

醍醐寺の総門から見える仁王門。
天皇にとっての最大のゆかりの地は、理源大師聖宝による創建以降、手厚い保護を与えて大伽藍を整備させた京都府京都市伏見区にある醍醐寺でしょう。
醍醐天皇の呼称の由来ともなった重要なゆかりの寺院であり、醍醐天皇が眠る後山科陵からも徒歩圏内にあります。
さらに、道真の無実と怨霊を鎮めるために建てられ、後に天神信仰の聖地となった太宰府天満宮や京都の北野天満宮も、醍醐天皇の治世の光と影を伝える地と言えるかも知れません。
醍醐天皇と関連氏族・敵対勢力

醍醐天皇を取り巻く人間関係は、父である宇多上皇との強い絆と政治的意見の齟齬、外戚である藤原北家との協力、そして重用した菅原道真との悲劇的な葛藤によって形作られていました。
延喜の治を支えた藤原時平と菅原道真

天皇の政治的な後ろ盾であり、精神的な支柱であったのは父である宇多上皇でしょう。
宇多上皇は退位後も院として醍醐天皇を補佐し、自らが重用した菅原道真を排斥しないよう言い含めていました。
昌泰の変の際、道真の左遷を知った宇多上皇は阻止するために内裏へと急行しましたが、醍醐天皇側の側近によって門を閉ざされ、面会を拒絶されます。
これは自立を目指した若い醍醐天皇と、道真を擁護する宇多上皇との間に政治的断絶が生じた瞬間でありました。
また母方の実家は内大臣・藤原高藤を主とする藤原北家です。母である藤原胤子が早くに没したため、宇多天皇の中宮であった藤原温子(藤原基経の娘)が養母として育てました。
即位後は、藤原北家の嫡流である藤原時平が左大臣として政権の中心に立つことになりました。時平は若き醍醐天皇の親政を実務面で強力に支え、右大臣であった菅原道真と共に延喜の荘園整理令などの改革をともに推進しました。
権力闘争の末に左遷された菅原道真

一方、最大の悲劇的な関係となったのが右大臣であった菅原道真です。
先述の通り、道真は宇多上皇と醍醐天皇の信任を受けて右大臣にまで上り詰めましたが、藤原氏による権力独占を警戒する時平らの策略によって失脚させられることになりました。
道真の死後、相次ぐ天災や皇族の不幸が道真の怨霊によるものと信じられたことで、醍醐天皇と息子たちはその恐怖と罪悪感に苦しめられることとなるのでした。
また、醍醐天皇の皇子たちの中では、最初に立てられた東宮・保明親王とその子・慶頼王が相次いで早世したため、最終的に第61代:朱雀天皇(寛明親王)および第62代:村上天皇(成明親王)が皇位を継承し、父の意志を継いで「延喜・天暦の治」の後半を形作ることになります。
醍醐天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 醍醐天皇(だいごてんのう) |
| 本 名 | 敦仁(あつひと) 臣籍時:源維城(みなもとのこれざね) |
| 御 父 | 宇多天皇(うだてんのう) |
| 御 母 | 藤原 胤子(ふじわら の いんし/たねこ) |
| 御 陵 名 | 後山科陵(のちのやましなのみささぎ) |
| 陵 形 | 円形 |
| 所 在 地 | 京都府京都市伏見区醍醐古道町 |
| 交通機関等 | (バス停) 醍醐北団地から徒歩約6分 |
| 御在位期間 | 897年~930年 |
醍醐天皇が静かに眠る後山科陵は、京都市伏見区の醍醐の地、自らが手厚く保護し大伽藍を誇った醍醐寺のほど近くに築かれています。
摂関を置かずに自ら政務を執り、古今和歌集の完成とともに平安王朝文化の至高の光を放った延喜の治。
しかしその陰には、昌泰の変による菅原道真の左遷と、その後に続いた惨劇に心を痛めた帝の深い孤独と葛藤が存在していました。
延長8年、46歳で急逝された醍醐天皇の御陵は、今も静かな気品と寂韻を漂わせており、訪れる者に対して、光と影の平安最盛期を奔走した英主の壮大な足跡を語り続けています。

参拝を終えて見える景色。この日は最高気温が38度を超える暑さでした。
