ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、ついに平安時代の歴史を根底からひっくり返した最強の改革者。第71代:後三条天皇(ごさんじょうてんのう)の登場です。
前代の後冷泉天皇に子がなかったことで、170年ぶりに藤原氏を母に持たない天皇として即位。
それまで天皇の祖父(外戚)として政治を支配してきた藤原氏に対し、自らの知性と意志で真っ向から挑んだ、日本史上のターニングポイントを象徴する帝でもあります。
旧弊を打破し、新たな時代の扉を力強くこじ開けた革新の大王の足跡を、ともに辿ってみましょう。
後三条天皇の人物像・エピソード
後三条天皇の本名は、尊仁親王(たかひとしんのう)と名付けられました。
父は後冷泉天皇の異母弟にあたる後朱雀天皇、母は三条天皇の皇女である禎子内親王(ていしないしんのう / 陽明門院)でした。
…勘の良い方は気づかれたかと思いますが、彼の最大のアイデンティティであり、その後の運命を決定づけたのは、この「母方の実家が藤原氏の出身ではない=藤原氏を外戚に持たない」という点にありました。
また陽明門院は、冷泉天皇から男系の血を引いていたため、後三条天皇は冷泉系と円融系の両方の血統を引く方でもありました。
摂関政治を終焉に向かわせただけでなく、冷泉系と円融系で交互に皇位を継承していた両統迭立に終止符を打った人物でもあります。
当時の朝廷は、藤原道長や頼通といった藤原北家の人間が、自らの娘を天皇に嫁がせ、生まれた皇子を次期天皇にして外祖父として実権を握っていた摂関政治の全盛期でした。
後三条天皇は、宇多天皇以来およそ170年ぶりに、藤原氏を外祖父に持たない天皇として即位しました。
このことは藤原氏(特に藤原頼通)にとって極めて都合が悪く、尊仁親王は幼少期から頼通による露骨な冷遇と圧力に晒されながら育ちました。
しかし、この逆境こそが彼を鍛え上げました。
尊仁親王は学問に打ち込み、特に儒学や歴史に深い造詣を持つ極めて優秀な教養人として成長しました。藤原頼通からの嫌がらせに耐え忍び、長きにわたる東宮(皇太子)時代を経て、1068年に35歳という当時としては遅い年齢でついに即位を果たします。
即位した彼は、長年の不遇の鬱憤を晴らすかのように、あるいは国家の腐敗を正す使命感に燃え、怒涛の政治改革へと乗り出していくこととなります。
後三条天皇の強権と大江匡房の登用
『みささぎめぐりの考え方』における口伝や解説を紐解くと、後三条天皇の治世の裏には、藤原氏に対する積年の恨みと、それを打破するための冷徹な人事戦略が示されています。
同史観によれば、即位した後三条天皇は、藤原氏からの「文句や口出しを強い意志で全部無視」するという徹底した強権姿勢を貫いたとされています。
長年自分を冷遇してきた藤原頼通らに対して、一切の妥協を許さなかったのです。
そして、藤原氏を排除した彼が自らの側近(ブレーン)として重用したのが、大江匡房(おおえのまさふさ)という優れた学究の徒でありました。
※鎌倉幕府創建に多大な功績のある大江広元は、匡房から見て曾孫にあたります。
大江匡房は単なる学者にとどまらず、後に源義家に対して「兵法(文学・軍学)」を教え授けたとされるほどの傑物でありました。この時代でも源氏との縁があったのですね。
後三条天皇は、藤原氏の血縁に頼るのではなく、こうした実力主義に基づいた優秀な中級貴族や学者たちを抜擢することで、摂関家の権力基盤を切り崩していったと分析されています。
延久の荘園整理令と記録荘園券契所の設置
後三条天皇がの歴史的功績は、延久の荘園整理令の断行と、それを審査するための記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)の設置により、藤原摂関家の経済基盤を決定的に削ぎ落とした点にあります。
第一の功績は、1069年(延久元年)に発布された「延久の荘園整理令」です。
当時、有力な貴族や寺社は、国からの税を逃れるために不正に私有地(荘園)を拡大しており、国家の財政は逼迫していました。
これまでの天皇も荘園整理令を出してはいましたが、最高権力者である藤原摂関家の荘園だけは審査から除外されるという骨抜き状態でした。
しかし後三条天皇は、「基準を満たさない荘園は、いかなる権力者のものであろうと全て没収する」という極めて厳格な法令を下したのです。
「記録荘園券契所(記録所)」の設置であります。天皇は、荘園の書類審査を地方の国司に任せるのではなく、中央に専門の役所(記録所)を新設しました。
そして、そこに藤原氏と利害関係のない実務官僚(大江匡房ら)を配置し、徹底的な審査を行わせたのです。
この審査において、藤原頼通が「書類がない」と弁明した際、記録所は容赦なく頼通の荘園を没収しました。
この前代未聞の厳しい処置により、藤原氏の荘園は大幅に削減され、その経済力と政治力は半分以下にまで激減したと言われています。
絶望した頼通は宇治の平等院に引きこもり、息子の師実に「もはやこれまで」と関白の座を譲って政界から引退しました。後三条天皇は、法と実務の力で見事に摂関政治を打ち倒したのです。
後三条天皇治世の時代背景・周辺エピソード
後三条天皇が在位した1068年から1073年という時代は、平安時代中期から後期へと移り変わる歴史的な大転換点にあたります。
政治的な実態は、長きにわたった藤原氏による摂関政治が終焉を迎えると当時に、代わって天皇自らが実権を握る天皇親政、そして次代の白河天皇による院政へと繋がっていく過渡期でもありました。
また、仏教界においては、1052年に末法(仏の教えが正しく行われない恐ろしい時代)が到来したという末法思想が社会全体を覆っており、貴族たちは極楽往生を願って阿弥陀堂(平等院鳳凰堂など)を盛んに建立していた時代だったと言います。
後三条天皇は、そうした退廃的な空気の中で、極めて現実的でエネルギッシュな改革者でありました。
経済政策にも明るく、延久の宣旨枡(えんきゅうのせんじます)と呼ばれる公定の枡を定めて度量衡を統一し、税の徴収を公平にするなど、実務的な国家運営に手腕を発揮しました。
天皇の日常や趣味に関する記録は、彼の生真面目な性格を反映してか、学問や政務に没頭する姿が中心に描かれています。食生活においては、儀式における豪華な公家料理よりも、実務をこなすための質素で合理的な食事を好んだと推測されます。
天皇にとってのゆかりの地としては、彼が政治改革の拠点とした「平安宮(京都府京都市)」があげられます。また、彼が譲位した後に落慶供養を行った「円宗寺(現在は廃寺・京都市右京区)」は、彼が院政を敷くための拠点として造営を命じたものでありました。
後三条天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
後三条天皇を取り巻く人間関係は、彼を排除しようとした藤原北家(頼通)との激しい対立、自らを支え抜いた母・禎子内親王との絆、そして新たなブレーンとして登用された中級貴族たちによって形作られていました。
最大の敵対勢力とも言える立場にあったのが、藤原道長の長男であり、当時の絶対権力者であった関白 藤原頼通(ふじわらのよりみち)でしょう。
頼通は、藤原氏の血を引かない尊仁親王(後三条天皇)の即位を阻止しようとあらゆる手段を講じました。しかし、頼通の娘たちには天皇との間に皇子が生まれず、ついに尊仁親王の即位を許すこととなりました。
天皇は即位後、延久の荘園整理令によって頼通の経済基盤を完膚なきまでに破壊し、見事な政治的復讐(権力奪還)を果たしました。
一方、天皇の最大の理解者であり、不遇の時代を支え抜いたのが、御母である「禎子内親王(陽明門院)」であります。彼女自身も藤原頼通から激しい嫌がらせを受けていましたが、決して屈することなく息子を守り抜き、彼が天皇として即位する日を待ち望みました。
后妃関係においては、中納言・藤原公成の娘である「藤原茂子(ふじわらのもし)」らを妃とし、彼女との間に貞仁親王(後の第72代・白河天皇)を儲けました。
朝廷の中枢において彼の手足となって動いたのは、前述の「大江匡房(おおえのまさふさ)」や「藤原能長(ふじわらのよしなが)」といった、有能な学者や中級の実務官僚たちでした。
後三条天皇は、門閥や家柄にとらわれず、実力のある者を積極的に登用することで、自らの親政を盤石なものとしたのです。
後三条天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 後三條天皇(ごさんじょうてんのう) |
| 本 名 | 尊仁(たかひと) |
| 御 父 | 後朱雀天皇(ごすざくてんのう) |
| 御 母 | 禎子内親王(ていし ないしんのう) |
| 御 陵 名 | 圓宗寺陵(えんそうじのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 京都府京都市右京区龍安寺朱山 龍安寺内 |
| 交通機関等 | (バス停) 龍安寺前から徒歩約5分 |
| 御在位期間 | 1068年~1072年 |
後三条天皇が静かに眠る圓宗寺陵は、衣笠山の南麓、龍安寺の背後に広がる緑豊かな静謐な地に築かれています。
この聖地には、父である後朱雀天皇や兄である後冷泉天皇らの御陵も隣接して並んでおり、平安時代後期の皇室の歴史を今に伝えています。
長年の不遇に耐え抜き、強固な意志をもって国家の構造改革を断行した英主の御陵は、現在も宮内庁によって神聖に管理されており、訪れる者に対して摂関政治の終焉と院政時代の幕開けを告げた波乱の歴史を静かに語りかけています。


