ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、父である鳥羽天皇との確執や、皇位継承を巡る朝廷の深い闇に巻き込まれ、激動の「保元の乱」の当事者となった悲劇の帝、第75代:崇徳天皇(すとくてんのう)をご紹介します。
崩御の後に大怨霊となったという伝説の裏側にある、その切なきご生涯と治世を紐解いていきましょう。
崇徳天皇の人物像・エピソード
崇徳天皇は1119年7月7日、鳥羽天皇の第一皇子として誕生し、顕仁(あきひと)さまと命名されました。
若くして皇位に就いたものの、その生涯は実の父である鳥羽天皇(のちの鳥羽法皇)からの冷遇と、それに伴う皇室家と摂関家の壮絶な確執に翻弄されることとなります。
貴族文化への優れた才覚
崇徳天皇の人となりは、和歌や薫物(お香)といった平安末期の洗練された貴族文化に対して、きわめて深い教養と優れた才能を持った人物として伝わります。
自身の複雑で孤独な境遇を映し出すかのように、公家社会の格式や伝統的な美意識を大切にしながら、精神的な思索を深める日々を送っていたようです。
小倉百人一首に選ばれている「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の…」という情熱的かつ切ない恋の歌は「崇徳院」の名で広く知られており、後世の人々の心にも強い印象を残し続けています。
非業の死を遂げ、日本三大怨霊のひとりへ
しかし、その穏やかで風雅な人物像とは裏腹に、歴史が崇徳天皇に与えた運命は過酷なものでした。
崩御の後に大怨霊になったという強烈な伝説が残されたのは、彼が自らの意志とは無関係に政治の泥沼へと引きずり込まれ、最後は讃岐国(香川県)へ流されるという無念の結末を迎えたためです。
非業の死を遂げた崇徳天皇の存在は、平安王朝の終焉を象徴する悲劇の象徴として語り継がれています。
平泉 中尊寺金色堂の建立と平忠盛の院昇殿
崇徳天皇の治世下(1123〜1141年)において成し遂げられた歴史的・文化的な実績として、特筆すべき二つの大きな出来事があります。
黄金の国ジパングのモデルとなった中尊寺金色堂
一つ目は、東北の地における中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじどう)の完成です(1124年) 。
奥州藤原氏の初代である藤原清衡によって建立されたこの総金箔張りの見事な仏堂は、のちにマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記した「黄金の国・ジパング」の直接のモデルになったと言われています。
この金色堂の地下には、奥州藤原氏の三代(清衡、基衡、秀衡)の遺体が、現地の気候や保存環境の偶然が重なったことによって仮葬ではなく土葬のまま、奇跡的にミイラとして現代まで良好に遺されています。
これにより彼らの正確な体格や身長などが判明しており、崇徳天皇の時代における奥州の圧倒的な経済力と独自の文化水準を示す、きわめて偉大な歴史的遺産となっています。
清盛の父が武士として初の”院昇殿”を許される
二つ目は、中央政界における武士の決定的な地位向上です。この時期、平清盛の父である平忠盛が、武士としてはきわめて珍しく「院昇殿(いんのしょうでん)」を許されました。
院昇殿の許可とは、従五位下以上の位階を授かり、公家たちと並んで院の御所の廊下に上がることが可能になるという、破格の待遇を意味します。
それまで「地下一面(じげいちめん)」の存在として公家から完全に見下され、地面に泥を突いて平伏していた武士(もののふ)が、ついに宮廷の殿上人として認められた歴史的な瞬間でした。
忠盛はその後に安芸守(資料では秋の神)などの地方官を歴任してさらなる財力を蓄え、平氏一族が中央の権力構造へと躍進する決定的な基礎を築き上げました。
これらは崇徳天皇の治世において、公家社会の枠組みが徐々に変容し、新しい勢力が台頭しつつあったことを示す重要な実績と言えるでしょう。
崇徳天皇治世の時代背景
12世紀前半の院政期は、形式的な伝統を重んじる京都の公家社会がピークを迎える一方で、社会の根底では既存の仏教勢力への反発や、庶民の救済を求める新しい信仰が芽生え始めた時代背景を持っていました。
この時代を象徴する宗教的な動きとして、融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)の興隆が挙げられます。開祖である良忍(資料では両人・両仁)は、それまでの特権階級のための難解な仏教とは異なり、「一人の念仏が万人の念仏と融通し合う」という分かりやすい救いの教えを説きました。
この信仰は瞬く間に広がり、大阪の平野の地に「大念仏寺(だいねんぶつじ)」という巨大な寺院が建立されるに至りました。
一般的な歴史の教科書には大きく大きく取り上げられないものの、当時の仏教界や庶民の精神史において、きわめて大きな意義を持つ新興の宗教運動が、まさにこの治世下で展開されていたのです。
また、貴族たちの間では、精神的な洗練を競い合うように格式の高い文化が好まれていました。特に薫物(たきもの)と呼ばれる、複数をブレンドしたお香の調合と、その香りを互いに評価し合う文化が成熟していました。
しかし、これらは裏を返せば、徹底的な格式や家柄、身分の上下によってすべてが縛られた、きわめて閉鎖的な階級社会であったことも意味しています。
崇徳天皇の時代は、このような美しくも息苦しい公家文化の爛熟と、それに収まらない地方の武力や庶民のエネルギーが、外側から朝廷を揺さぶり始めていた激動の前夜だったと言えます。
崇徳天皇と関連氏族・敵対勢力
崇徳天皇の周囲を取り巻く人間関係、および後ろ盾と敵対勢力との相克は、皇室の歴史のなかでも最も凄絶な悲劇を生み出す原因となりました。
崇徳天皇にとって最大の敵対存在となってしまったのが、実の父である鳥羽法皇でした。
叔父子
法皇は、崇徳天皇に対して血縁上の強い疑念(祖父・白河法皇の落胤ではないかという説)を抱いており、実の子として決して愛そうとはしませんでした。
そして、自身が深く寵愛した藤原得子(美福門院)との間に近衛天皇が生まれると、崇徳天皇に対して皇位を譲るよう執拗に迫り、半ば強制的に退位させて上皇の立場へと追いやったのです。
さらに悲劇は続きます。近衛天皇が若くして後嗣のないまま早世した際、崇徳上皇は自身の王子が次の天皇に即位し、自らが「治天の君」として院政を行うことを切望しました。
しかし、鳥羽法皇は美福門院らと謀り、もう一人の皇子である後白河天皇を急遽即位させ、崇徳上皇の政治的希望を完全に打ち砕きました。
この一連の徹底的な冷遇は、崇徳上皇の内に計り知れない深い恨みと怨念を蓄積させることとなります。
公家の終焉と、武士の到来を告げる「保元の乱」
1156年、鳥羽法皇が崩御すると、それまで抑え込まれていた皇室の積年の怨恨と、外戚である摂関家の藤原忠通・頼長兄弟の深刻な内紛が一気に結びつき、大規模な挙兵へと発展しました。
これが「保元の乱(ほうげんのらん)」です。
崇徳上皇は、左大臣・藤原頼長や、当時源氏のなかで最も強い男と恐れられていた無双の豪傑・源為朝らと結んで政権奪還を試みますが、白河天皇側に就いた平清盛や源義朝らの夜襲による迅速な武力行使の前に敗北を喫してしまいます。
頼長は戦死し、崇徳上皇は捕らえられて讃岐国(香川県)へと配流されるという、凄惨な結末を迎えました。後ろ盾を失い、敵対勢力によってすべてを奪われた上皇の無念の思いが、のちに国家を震撼させる怨霊伝説の背景を形作ることとなったのです。
崇徳天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 崇德天皇(すとくてんのう) |
| 本 名 | 顕仁(あきひと) |
| 御 父 | 鳥羽天皇(とばてんのう) |
| 御 母 | 藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ) |
| 御 陵 名 | 白峯陵(しらみねのみささぎ) |
| 陵 形 | 方丘 |
| 所 在 地 | 香川県坂出市青海町 |
| 交通機関等 | (バス停)高屋から徒歩約1時間36分 |
| 御在位期間 | 1123年~1141年 |
平泉の黄金の文化が華開き、平氏をはじめとする武士たちが歴史の表舞台へと這い上がっていく絢爛たる時代の中心にありながら、最後は流罪先である讃岐の地で無念の崩御を遂げることになった崇徳天皇。
その陵墓は、京都から遠く離れた香川県の白峯寺の境内に静かに佇んでいます。
実際にこの地を訪れ、静謐な空気に包まれることで、単なる知識としての歴史を超えて、かつて激動の平安末期を生き、時代に翻弄された人々の生々しい息吹と哀しき運命を、五感を通じて深く心に刻むことができるでしょう。
