「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅、今回は日本史上で最も切なく、そして最も恐ろしい伝説を背負わされた帝、崇徳天皇(すとくてんのう)をご紹介します。
栄華を極めた平安朝の終わりの始まり、そして「武士の世」への扉を開いたのは、皮肉にもこの帝の孤独と怒りでした。
1. 人物像・エピソード:疎まれた「叔父子(おじご)」
崇徳天皇の本名は顕仁(あきひと)。公式には鳥羽天皇の第一皇子ですが、彼を語る上で避けて通れないのが、複雑すぎる出生の噂です。
出生の呪縛
祖父・白河法皇と、父・鳥羽天皇の后であった璋子(待賢門院)の間に生まれた子ではないか……という噂が当時から囁かれていました。鳥羽天皇は彼を「叔父子(自分の叔父でありながら息子)」と呼んで生涯忌み嫌ったと言われています。
知的な歌人としての顔
若き頃は非常に繊細で知的な青年でした。彼の詠んだ歌は『小倉百人一首』の第77番に選ばれています。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
(川の流れが速く、岩にせき止められた急流が一度は分かれても、また一つになるように、愛するあなたと今は離れても、いつか必ず再会しようと思う)
この激しくも情熱的な歌が、後に彼の「執念」の象徴として語られることになります。
2. 歴史的転換点:保元の乱(1156年)
1156年、父・鳥羽法皇の崩御をきっかけに、皇位継承と摂関家の主導権争いが爆発。これが日本を二分した保元の乱です。
兄弟の対立
崇徳上皇(兄) vs 後白河天皇(弟)。
武士たちの初舞台
この戦いでは、源義朝(頼朝の父)や平清盛らがそれぞれの陣営に分かれて戦いました。結果として、崇徳上皇側は敗北。平安時代に入ってから長く行われていなかった「死刑」や「流罪」が復活し、崇徳上皇は讃岐国(現在の香川県)へと流されました。
3. 讃岐での晩年と「最強の怨霊」への変貌
流刑地での生活は、かつての栄華からは想像もできないほど悲惨なものでした。
血で書かれた経典
上皇は反省の意を込めて、指を切り、その血で五部大乗経を書き上げました。これを京都の寺に納めてほしいと願いましたが、後白河天皇側は「呪いが込められている」と疑って送り返してしまいます。
「日本国の大魔縁となる」
絶望と怒りに震えた上皇は、舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を民とし民を皇となさん(天皇を民に引きずり下ろし、世を乱してやる)」という誓文を書いたと伝えられています。そのまま髪も爪も伸ばし放題にし、生きたまま大天狗(怨霊)になったと言い伝えられています。
4. 白峯陵(しらみねのみささぎ)
香川県坂出市青海町に位置しています。
京都へ帰れなかった帝
歴代天皇の多くが京都周辺に眠る中、崇徳天皇は崩御後も京都へ戻ることを許されませんでした。
明治天皇による鎮魂
約700年後の明治時代。明治天皇は即位にあたり、崇徳上皇の怨霊を鎮めるために、讃岐からその霊を迎え、京都に白峯神宮を創建しました。これによって、ようやく上皇の魂は京都へ帰ることができたとされています。
崇徳天皇が亡くなった後、京都では大火や相次ぐ不幸が起こり、人々はその「祟り」に怯えました。しかし、彼が夢見た「武士の世(皇を民とする世)」は、その直後に平清盛、そして源頼朝の手によって現実のものとなります。
悲劇の歌人か、あるいは予言の魔王か。「みささぎめぐり」、次はいよいよ、崇徳上皇の宿敵であり、平安末期のトリックスターとして君臨した第77代・後白河天皇、あるいは清盛によって立てられた悲劇の幼帝第81代・安徳天皇の物語へ進みますか?
崇徳上皇が詠んだ「瀬をはやみ…」の歌が、その後の彼の運命をどう暗示していたのか、その解釈についても語り合いましょうか。
