第96代:後醍醐天皇 〜鎌倉幕府を打倒し、建武の新政を断行した不撓不屈の帝

第76-100代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、鎌倉幕府を打倒し天皇親政の復活に挑んだ不屈の帝、第96代:後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に焦点を当てます。

二度の流罪を克服し、武家社会から政権を奪還した不屈の精神と、南北朝という激動の時代を開いた波乱に満ちた治世の足跡を、これから詳しく辿っていきましょう。

後醍醐天皇の人物像・エピソード

吉野山にある如意輪寺の中にある後醍醐天皇陵

後醍醐天皇は、大覚寺統の正統として即位し、宇多天皇や醍醐天皇の治世を理想とした天皇親政への強い執念を抱いていた人物で、尊治(たかはる)と名付けられました。

後宇多天皇の第二皇子であり、母は藤原北家、花山院流の庶流:五辻家の娘であった五辻忠子です。また異母兄には後二条天皇がいます。

後醍醐天皇は幼少期から聡明で学問を好み、独自の政治思想を培っていました。

夢に導かれた?討幕の英雄:楠木正成との絆

如意輪寺の本堂。

また、後醍醐天皇の討幕運動には、夢に導かれたという神秘的なエピソードも残されています。

1331年に勃発した二度目の討幕計画である元弘の変において、計画が事前に漏れた天皇は京都を脱出し、山岳地帯の笠置山へ逃れました。その際、天皇は夢を見ます。

夢の中で、南の方角に青々と葉を茂らせた大きな木があり、その下には自らが座るべき席が用意されていたのです。目覚めた天皇が南の木という文字を組み合わせると「楠」という漢字になることに気づき、近臣に尋ねたところ、河内の国に楠木正成という有力な武士がいることが判明しました。

天皇は即座に正成を召し出し、味方に引き入れます。橘氏の末裔を称する楠木正成は、河内の地で兵を挙げ、千早城などで悪党や奇兵と呼ばれる独創的なゲリラ戦を展開して幕府軍を翻弄することになります、

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この正成の奮闘に対し、朝廷には十分な恩賞を与えるための資金がなかったため、後醍醐天皇は独自の試みとして、菊の文様が半分に割れ、その下に水が流れるデザインの「菊水」の紋章を授けたとされています。

 

最期の瞬間まで貫いた、不撓不屈の執念

如意輪寺の庫裏。その裏に多宝塔があります。

後醍醐天皇の不屈の執念は、その最期の瞬間にも現れています。

足利尊氏との戦いに敗れ、京都を追われて吉野の山中に南朝を開いた天皇は、病に倒れて崩御を迎える際、右手には武力の象徴である剣を、左手には信仰の拠り所である法華経を握りしめながら、次のような言葉を遺したと伝わります。

只生々世々の妄念となるべきは朝敵を悉く亡ぼして四海を泰平ならしめんと思うばかりなり。
玉骨はたとひ南山の苔に埋るとも魂魄は北闕の天を望まんと思ふ。若し命を背き義を軽んぜば君も継体の君にあらず。

【現代語訳】
朕(わたし)が幾世にわたって生まれ変わろうとも消え去らぬ執念となるのは、朝敵をことごとく滅ぼし尽くして、天下を泰平にすることのみである。
わたしの肉体がたとえ吉野山の苔の下に埋もれ果てようとも、魂は永遠に都の宮中の空を仰ぎ見て朝敵を討ち払わんとし続ける。
もしこの遺志に背き、大義を軽んじることがあれば、後を継ぐ者であってもまことの君主とは言えず、それに従う者も忠義の臣下とは言えない。

『太平記』巻二十一

皇室家でも屈指と言える不撓不屈の精神で、ついに鎌倉幕府を討ち果たした後醍醐天皇は、その最期の瞬間まで都への強い願いを持ち続けたのでした。

 

鎌倉幕府を打破し、建武の新政を開始

後醍醐天皇の最大の功績は、守護・地頭の設置に始まり149年にわたって日本を支配していた鎌倉幕府を滅ぼし、朝廷に政治の主権を取り戻したことです。

 

不屈の精神で成し遂げた、鎌倉幕府の打倒

天皇は即位当初から、北条氏による得宗専制政治に不満を抱く武士層や、独自の政治を行いたいという朝廷内の意思を集約し、討幕の機会を窺っていました。

一度目の討幕計画である正中の変、二度目の元弘の変と、度重なる失敗と隠岐島への流罪を経験しながらも、天皇の討幕への意志が衰えることはありませんでした。

元弘の変の戦いの一つである笠置山の戦いに敗れ、隠岐へ流罪となっていた後醍醐天皇ですが、名和長年らを頼って隠岐を脱出し、船上山で再び討幕の火の手を挙げます。

この動きに呼応するように、幕府から離反した足利尊氏が京都の六波羅探題を攻め落とし、上野国の新田義貞が鎌倉を急襲して北条氏を滅ぼしました。

1333年、こうして長きにわたる武家政治は一度幕を閉じ、後醍醐天皇による新たな政治体制である「建武の新政」が開始されるのでした。

 

建武の新政の

如意輪寺へ向かう道の途中にある「建武中興六百年記念碑」の石碑。1934年(昭和9年)に盛り上がった記念事業のひとつでしょうか

建武の新政では、後醍醐天皇はこれまでの院政や摂政・関白の制度を廃止し、自らがすべての決裁を行う完全な天皇親政を敷くことを目指します。

天皇は記録所や雑訴決断所といった新たな役所を設置し、土地の所有権を巡る相論の解決や恩賞の沙汰を迅速に行おうと試みました。

しかし、天皇が理想とした公家主動の政治は、実際に血を流して戦った武士たちの実態や期待とは大きくかけ離れていました。武士たちへの恩賞が滞り、公家を優遇する法理が連発されたことで、新政は次第に混乱を極めることになります。

結果としてこの試みは短命に終わりましたが、武家政権を完全に崩壊させ、天皇が自らの理想を具現化しようとした大規模な政治改革としての意義は大きいものがありました。

いわば武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものであり、時代を降った明治維新で成し遂げられた構想のモデルとなった考え方といっても過言ではありません。

 

後醍醐天皇治世の時代背景

後醍醐天皇が活躍した14世紀前半の日本は、社会の構造が根底から覆ろうとしていた激動の時代だったと言えます。

鎌倉幕府は、13世紀後半の元寇(蒙古襲来)における防衛戦で勝利したものの、恩賞として武士たちに与える土地が不足し、御家人たちの困窮を招いていました。

幕府の権威は著しく失墜し、各地では悪党と呼ばれる、既存の荘園領主や幕府の支配に従わない新興の武力集団が台頭していました。

このような社会の流動化と既得権益の揺らぎが、後醍醐天皇の討幕運動の土壌となったとされています。

 

南北朝体制の布石となる”両統迭立”状態

また、皇位継承を巡っても深刻な対立が存在していました。

当時の天皇家は、後深草天皇の系統である持明院統と、亀山天皇の系統である大覚寺統の二つに分裂しており、両者が交互に即位する両統迭立の原則が行われていました。

大覚寺統に属した後醍醐天皇は、自らの子孫に皇位を継承させ、この不安定な両統迭立の仕組みを解消して強力な中央集権国家を再築することを望んでいました。

後醍醐天皇には48人もの子供がいたと伝えられており、討幕や朝廷権力の拡大のために彼らを各地の有力寺社や要職へと送り込んでいました。

例えば、その子らの中で最も武勇に優れ、力強さを持っていた護良親王(大塔宮)を天台座主に据えました。

これは、比叡山の有力な武力である僧兵を自らの統制下に置き、討幕の軍事力として取り込むための明確な計算に基づいた行動でした。護良親王は後に、建武の新政において征夷大将軍に就任することになります。

 

後醍醐天皇と関連氏族・敵対勢力

後醍醐天皇の周囲には、その強力な個性を支えた家族や氏族、長年対立した敵対勢力が複雑に絡み合っていました。

家族関係においては、先述の護良親王をはじめとする多くの皇子たちが討幕の有力な将として戦いました。

また、南朝の理論的指導者として天皇を支えた北畠親房などの公家一族は、天皇の目指す国家像を理論化し、新政を支える強固な後ろ盾となりました。

 

源氏の名門:足利尊氏との数奇な運命

討幕における最大の協力者であり、後に最大の敵となったのが足利尊氏です。

尊氏は鎌倉幕府軍の有力御家人であり、当初は総大将として後醍醐天皇の挙兵鎮圧に向かっていましたが、元弘の変を経て日本各地で討幕の動きが広がると、後醍醐天皇の呼びかけに応じて反旗を翻し、六波羅探題を滅ぼす大功を挙げます。

足利はいち御家人ながら源氏の名門でもあったため、後醍醐天皇は尊氏を第一の功があるとして優遇します。

建武の新政が始まってしばらくは、尊治からの偏諱:尊氏の名を与えるなど良好な関係を構築していましたが、やがて武士の救済と武家政権の再興を望む尊氏と、天皇親政に固執する後醍醐天皇との溝は急速に深まっていきます。

1335年、中先代の乱の鎮圧を契機に尊氏が独自に行賞を始めると、後醍醐天皇は尊氏を朝敵として追討する命令を下すことになります。

 

光明帝の擁立に対し、吉野で”南朝”を興す

これによって、楠木正成や新田義貞ら親政派の武将と足利軍との間で全面的な内乱へと発展していきます。1336年の湊川の戦いで楠木正成が戦死し、足利軍が京都を占領すると、尊氏は持明院統の光厳天皇を擁立して北朝を立てました。

これに対し、後醍醐天皇は神器を携えて吉野へ逃れ、南朝を開くことで自らの正統性を主張し続けます。

これにより、日本は二人の天皇が並立し、各地の武士がそれぞれの正統性を掲げて戦う南北朝の動乱期に突入することとなったのでした。

かつての盟友が最大の敵となり、国家を二分する事態を招いたのは間違いないのですが、足利尊氏は最後まで後醍醐天皇への経緯を忘れなかったと言います。後醍醐天皇が生まれ持ったカリスマ性、仁徳の高さが成せるエピソードなのかも知れません。

 

後醍醐天皇陵の基本情報

項 目 名 内容
天 皇 名 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
本   名 尊治(たかはる)
御   父 後宇多天皇(ごうだてんのう)
御   母 五辻 忠子(いつつじ ちゅうし/ただこ)
御 陵 名 塔尾陵(とうのおのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾 如意輪寺内
交通機関等 近鉄 吉野駅から約1時間10分
御在位期間 1318年〜1339年

電車の最寄駅は上述の通り近鉄吉野駅なのですが、そこから徒歩で向かうのはかなり大変です。

駅近くのロープウェイ「千本口駅」から吉野山駅まで登ると、吉野山奥千本線ラインという路線バスが出ています。(バス停)如意輪寺口や勝手神社前で降りると、徒歩15分ほどで訪れることが出来ます。

いずれにしても熱中症やケガにはお気をつけください。道のりはかなりハードです。

路線バスは1時間に1本ほど。バスを待っている間、さくらコーラと焼きモチをパクリ。

後醍醐天皇を祀る御陵は、一般的な天皇陵とは異なる独特の構造と配置を持つ塔尾陵です。その最大の特徴は、すべての歴代天皇陵の中で唯一「北面」している点にあります。

通常、天皇陵は南を向いて造られますが、冒頭でご紹介した通り、後醍醐天皇は崩御の直前まで京都の奪還を強く望んでいました。

そのため、吉野から見て北の方角にある京都を永遠に見見据えることができるよう、遺言に従って北向きに御陵が築かれたのです。

この特異な御陵の形そのものが、後醍醐天皇という存在の執念と不撓不屈の精神を今に伝えているかのようです。

参拝を終えた後、正午を告げるように「少年時代」(井上陽水)が流れていました。日本の夏の良さを感じられる参拝体験でした。

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