第76代:近衛天皇 〜摂関家の内紛に翻弄され、動乱前夜に夭折した悲劇の幼帝

第76-100代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、その歳わずか2つにして即位し、17歳という若さでこの世を去ることになった第76代:近衛天皇(このえてんのう)をご紹介します。

その短い治世は、父である鳥羽法皇の絶対的な権力と、朝廷の重職を担う摂関家藤原氏の激しい内部抗争に終始翻弄された悲劇の時代でもありました。

近衛天皇の人物像・エピソード

近衛天皇は1139年6月16日、鳥羽天皇の第九皇子として誕生。諱(本名)は躰仁(なりひと)といいます。

母は鳥羽法皇から多大な寵愛を受けていた藤原得子(美福門院)です。

当時、鳥羽法皇の宮廷では、得子への傾倒が政治の動向を大きく左右しており、法皇は得子との間に生まれた体仁親王を深く愛し、わずか2歳(数え年で3歳)という異例の若さで皇位に就くことになります。

この強引な即位劇の煽りを受ける形で、異母兄であった第75代:崇徳天皇は在位わずか18年にして退位を余儀なくされ、崇徳上皇となりました。

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近衛天皇自身は、物心がつく前から天皇としての重責を担わされ、政務を執る年齢に達する前の17歳で崩御したため、本人が直接政治的なリーダーシップを発揮したエピソードや、個人の詳細な人となりを伝える記録は多くありません。

しかし、その存在自体が皇室内の深刻な亀裂と、摂関家の権力闘争の象徴となっていました。

幼少の少年帝が内裏の玉座に座る一方で、実質的な国家の意思決定はすべて、崩御するまで絶対的な権力を握り続けた父の鳥羽法皇によって行われていました。

近衛天皇は、平安時代末期の華やかな院政期の頂点にありながら、周囲の大人たちの権力欲に翻弄され続けた悲劇の君主として歴史に記憶されています。

摂関家藤原氏の内紛と頼長による人事権の掌握

近衛天皇の治世下において、朝廷の政治構造に大きな変化をもたらした実績として挙げられるのが、摂関家藤原氏における権力の二分化と、左大臣・藤原頼長による実質的な政務・人事権の掌握です。

当時、朝廷の最高職である関白には藤原忠通が就任していました。

しかし、忠通の後ろ盾であった父の藤原忠実との関係が悪化したことをきっかけに、摂関家内部に致命的な対立が生じることとなります。

父の忠実は、忠通ではなく、その異母弟である左大臣・藤原頼長を深く溺愛し、藤原氏の総領たる地位を示す「氏の長者(うじのちょうじゃ)」の権利を頼長に譲り渡してしまいました。

これにより、朝廷内には「関白」の職にある忠通と、「氏の長者」となった頼長という、二人の権力者が並び立つ異常事態が発生しました。

当時の官位や恩賞の沙汰は、すべて氏の長者が決定する特権となっていたため、実質的な人事権は完全に左大臣・頼長が握ることとなりました。

最高職であるはずの関白・忠通は、実質的な人事決定から排除され、形式的な役職(飾り物)に甘んじることとなったのです。

頼長は実質的な総理大臣のような立場で、朝廷の人事を自らの意志で冷徹にコントロールし、独自の強固な官僚体制を構築していきました。

近衛天皇の治世は、このように摂関家の主導権が兄から弟へと移り変わり、宮廷の緊張感が極限まで高まった時代でもありました。

近衛天皇治世の時代背景

12世紀半ばの平安時代末期は、表向きには鳥羽法皇のもとで院政の最盛期を謳歌していましたが、その水面下では皇室と摂関家の双方が内部から崩壊しつつある激動の時代背景を抱えていました。

この時代の貴族社会の生々しい実態を現代に伝える極めて重要な一級史料として、最高権力者であった藤原頼長が自ら執筆した日記『台記(たいき)』が現存しています。

『台記』の原本は歴史的に非常に有名であり、人事権を握っていた男の視点から、当時の宮廷政治の裏側が克明に記録されています。

日本最古のBL本!?藤原頼長の執筆した『台記』

しかし、この日記には、通常の歴史教科書や参考書には到底掲載できないような、極めて驚くべき宮廷の私生活の実態が書き残されています。

頼長は極めて厳格な学者肌の政治家である一方で、苛烈な男色(同性愛)家としての側面を持っていました。

頼長は、自らが宮廷内で関係を持った具体的な公家や貴族たちの名前、そしてその行為の詳細を日記の中に露骨に、かつ隠すことなく書き連ねています。

さらに重要な歴史的事実として、頼長と深い関係を持った男性の公家たちは、氏の長者である頼長の人事権によって、中納言などの朝廷の要職へと次々に引き上げられ、異例のスピードで出世を果たしていきました。

近衛天皇が在位していた時代は、このような公家社会における独自の人間関係や密接な政治的取引が、国家の人事や権力の配置に直接的な影響を及ぼしていた、極めて特異な時代背景を持っていました。

近衛天皇と関連氏族・敵対勢力

近衛天皇を中心とする皇室一族の関係性、および敵対勢力との相克は、平安王朝の終焉と武士の世の到来を告げる最大の導火線となります。

近衛天皇は、母である美福門院の後ろ盾によって幼くして玉座に就きましたが、この強引な即位は、退位させられた崇徳上皇との間に解消しがたい深い怨恨の火種を植え付けることとなりました。

皇室内の対立が限界に達しつつあった1155年、近衛天皇はわずか17歳という若さで、子供を遺さないまま突然崩御してしまいます。

このあまりにも早すぎる少年帝の死は、朝廷内に凄まじい衝撃と疑心暗鬼をもたらすことになります。

崇徳上皇側は、近衛天皇の崩御は自らの呪いによるものではないかと周囲から疑われ、政治的に完全に孤立することとなります。

鳥羽法皇や美福門院は、崇徳上皇への政権返還を断固として拒否するため、もう一人の皇子である雅仁親王を急遽即位させました(第77代・後白河天皇)。

この決定的な冷遇により、崇徳上皇の朝廷に対する不満と怒りは最高潮に達するのでした。

 

公家時代の終焉と、武士時代の到来を告げる保元の乱

そして、外戚である摂関家における忠通と頼長の兄弟の深刻な決裂もこれに完全に連動していました。

1156年、精神的な支えであった鳥羽法皇が崩御すると、近衛天皇の治世下で蓄積された皇室と摂関家の二大対立が一気に暴発し、日本史を揺るがす大乱である保元の乱が勃発します。

崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで挙兵したのに対し、後白河天皇と藤原忠通がこれを迎え撃ち、朝廷の権力闘争の決着のために源氏や平氏といった武士の武力が大規模に投入されました。

近衛天皇の17年という短い生涯と崩御は、貴族政治が自らの内紛によって崩壊し、時代の主役が公家から武士へと完全に移行していく歴史的な大転換点における、最大の契機となったのです。

 

近衛天皇陵の基本情報

項 目 名 内容
天 皇 名 近衛天皇(このえてんのう)
本   名 善仁(たるひと)
御   父 鳥羽天皇(とばてんのう)
御   母 藤原 賢子(ふじわら の けんし/かたいこ)
御 陵 名 安樂壽院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)
陵   形 多宝塔
所 在 地 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町
交通機関等 京都市営地下鉄・近鉄 竹田駅から徒歩約8分
御在位期間 1141年〜1155年

権力争いに明け暮れる大人たちの中心に置かれ、17歳の若さで散った幼帝───。

近衛天皇が眠る安樂壽院南陵は、父・鳥羽上皇の離宮があった伏見・竹田の地にあります。多くの天皇陵が土を盛った形式であるのに対し、ここは美しい多宝塔の形をしているのが特徴です。

 

偶然にも私が訪れた時は、幼帝が流す涙のような雨が降っていたのがとても印象に残りました。

その静かな眠りを守る、美しい多宝塔を見上げたとき、歴史の激流に翻弄された帝の悲哀を感じずにはいられません。

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